1.幸福な世界
死に絶えたような空気だった。
冷たくて。
色褪せていて。
無機質で。
乾いていて。
なによりも、ひどく虚ろでおどろおどろしい。
でも、いつものことだから。
気にしないようにして本を読んでいた。
ふと、世界が切り替わる。
温度が、色が、質感が、世界を構成するすべての要素が聖域めいたぬくもりに満ちたものへ生まれ変わる。
待ちかねた瞬間だ。ぼくはうれしくなって振り返る。
ベッドの上、やっぱり少女が動き始めていた。
まだ毛布にくるまったまま、もぞもぞとうごめいているだけだけれど。
ぼくは読書を続けるフリをしながら、その様子をさりげなく見守る。
少女が重たげに半身を起こした。
目と口を半開きにしたままで思う存分放心する。
この生ける屍のような姿に、これからすこしずつ、ゆるゆると生気が灯っていくのだ。
ぼくはそのささやかでちっぽけな変化譚に、いつだってなんとも言えない胸の疼きを覚える。
暖かくて切なくて、どうしようもなく懐かしい。
ぼくは泣きそうになりながら、飽くこともなくその情景を眺めていた。
「……おはよう」
少女が不安げな声でか細くつぶやいた。
ぼくは甘い感傷から抜け切らないまま応える。
「うん、おはよ」
「あの……ごめんね。またいっぱいねちゃって」
いっぱいひとりにしてごめんね。
やっぱり、そう言われている気がした。
「ありがと。その気持ちだけでもうれしいよ」
少女のちいさな頭をそっと撫でる。
だって、その気持ちは確かに優しさでもあるのだから。
なんの疑問も抱かずに少女を労ってやることだってできるのだ。
少女はちょっと照れたようにえくぼをつくって微笑む。
――笑ってくれるのは、いつだってうれしかった。
ぼくは努めて明るい調子で問う。
「ね、きょうはなに食べよっか?」
「えっとね……」
少女はまるで人生の一大事であるかのように真剣な面持ちで考え込む。
と、そこにのっそり現れるちいさな影。
「わてはステーキが食いたいのぅ……」
雪だるまみたいにまんまるいからだ。
ちょこんと伸びたみじかい手足。
ぴょこんと立ったすこしくたびれた耳。
ぽてっとくっついた団子みたいなしっぽ。
ゆるゆるとして、どこか間の抜けたような顔と声。
それらのすべてが今日もひどく愛らしいものに思えて。
ぼくはぎゅっとそいつを抱きしめていた。
「おはよう今日もかわいいなあこんちくしょう!」
「……う、うむ。そ、それよりわてはステーキが……」
まったくこいつは。
まるで礼儀がなっていない。あいさつもロクに返せないのか。
ぼくは晩ご飯の献立に悩み続ける少女の肩を叩く。
「ね、ステーキなんていいんじゃない?」
「え、すてーき?」
「うん、ほらちょうどまんまるく太ったおいしそうな肉もあることだし」
言いながらまじまじと見てやった。
そいつは「ひいぃぃ」と大げさに竦み上がる。
少女は恍惚とした様子でささやく。
「……ほんとだ、おいしそう」
「わ、わてはぬいぐるみやど!? 食べてもおいしゅうないねんで!?」
緊迫感のまるでない顔で奇妙な関西弁を叫ぶUMA。
すがるそいつをすげなくあしらい、ふらりと席を立つ少女。
ますます震え上がるあわれなぬいぐるみ。
部外者から見ればくだらない小芝居に過ぎないのだろう。
けれど、ぼくにはいつだってこんな時間が楽しくてうれしくてたまらなかった――。
また不意の郷愁に襲われ、ぼくはぷるぷる震えるそいつをそっと抱き寄せた。
ひろいおでこをさすさすと撫でつつ言う。
「……ありがとう」
自分でも無粋だと思った。
みんながたのしくやっているときにこんなこと。
でも、こういうときぬいぐるみはあえて適当にあしらってくれる。
そいつはぼくの感傷を、その届かないはずのみじかい手でぺしっと振り払って言う。
「むぅ、そんなことよりもじゃ。今夜はなにを食べるかのぅ……」
仰々しく首をひねって考え込むぬいぐるみ。
「そうだねえ……」
少女もベッドの端に座りなおしていっしょに考え込む。
かく言うぼくも一応考えるフリだけはしてみる。
……ちなみにこのぬいぐるみ、なんだか真剣にうんうん唸っているけれど、その意見が取り入れられたことは未だかつてない。
いろいろ考えているとかわいそうになってきたので、ぼくはそいつの頭にぽんと手を置いてやった。
「……強く生きろよ」
しかし当のそいつは「……ふむぅ?」とやたら大物っぽく首をひねるばかり。
あげく「おぬし、あたまはだいじょうぶかのぅ?」などと、逆にあわれみの目を向けられる始末。
屈辱の極みであった。
けっきょく、晩ご飯はいつもどおり少女の提案が採用され、湯豆腐と相成った。
好物の長ネギをほお張りつつ、少女が万感を込めて言う。
「おいひいね~」
いったい今日で何度目の「おいしい」だろう。
少女はこんな肉も入っていないような質素な料理を、いつだって心からおいしそうに食べる。
そんな少女を眺めながら飲むビールがあんまりおいしいので。
ぼくもまた万感を込めてうなずく。
「うん、おいしいねえ」
しかし、そんなうつくしい団欒をよそに部屋のすみにうずくまる影がひとつ……。
ほんとうに仕様のないやつである。
ぼくは湧き上がる陽気な気分のままそいつに声をかけてやる。
「お~い、おまえもそんなところに居ないでこっち来いよ~」
そいつはおでこをすりすりと壁にこすり付けながら、ちろりと目だけを向けて言う。
「……わかっとるんや。どうせわてのぶんなんかないんや……」
「そんなことは……まあ、あるけど」
哀れなぬいぐるみは壁にぽすぽすおでこを叩きつけて絶叫する。
「ほらあ! ほらあ! どうせわてはいつだってのけモンなんやあ! いっそわてかてポ○モンになりたいのぅ! あいつら人気モンやさけのぅ! わかっとるんや! わてがしがない無名のぬいぐるみであるばっかりに毎度こないな辱めを受けとるっちゅうことわあ!」
「あ~あ~、またはじまったか。ひがみはよくないぞ~」
そもそもそういう問題ではないのだ。
にこにこと楽しそうにぼくらのやりとりを見守っていた少女も、あっけらかんと口をはさむ。
「あのね×××××、あたしたちは×××××のことがね、ほかのなによりいちばんだいすきなんだよ~」
そのなまえはやっぱり異様な発音でとても聞き取れなかったけれど。
ともあれ珍妙な茶番劇はいっそうそのボルテージをあげていく。
「そんなことない! わてはきらわれとるんやあ!」
「ぼくはおまえを愛してるぞ~」
「そうだよ×××××、あいしてるよ~」
「うそや! うそや! わてはだまされへんど~!」
と、そいつは唐突に立ち上がり、のっそりのっそり走リ出した。
いったいどこから取り出したのか、なにやら紐様のものを手にしつつ。
「――ま、まさかおまえ」
「そうや! わてはこれで首吊って死ぬんやあ!」
威勢よく叫び、もた、もた、とベッドへそれを括りつける。
……仕様がないので一応止めるフリだけはしておいてやる。
「やめろ~、早まったまねをするんじゃない~」
「そうだよ×××××、あいしてるよ~」
「そうだそうだ~、きみはこんなにも愛されているじゃあないか~」
「うそやあ! 今日という今日はだまされへんど~!」
間延びした声で愛を訴えるぼくと少女。
間抜けな関西弁で不信を叫ぶぬいぐるみ。
これではまるで素っ頓狂なメロドラマのようである。
しばしのループ状態ののち、果たしてそいつは首を吊った。
「さよならのぅ、せかい!」
ち~ん。
……ぼくと少女は無言で晩餐を再開した。
数分後。
「……あの、そろそろ」
さすがに居たたまれなくなってきたのでぼくから切り出した。
「……うん。このままじゃかわいそうだもんね~」
少女はバカがめちゃくちゃに括りつけたそれをさっとハサミで切ってやった。
自縛状態から助けられたそいつは不思議そうに首を傾げる。
「……なんでや、なんでちゃんと角度つけて頚動脈と椎骨動脈ふたつふさいだのに死なへんのや……」
「ぬいぐるみにそんなもんあるか! ついでに言うとおまえには摂食器官もない!」
ぺしっと頭をはたいてやった。
騒ぐ気力もなくなったそいつはのそのそと少女の太ももへ登っていく。
少女は傷つきつかれ果てた登攀者を快く迎え入れ、さすさすと背中をさすってやる。
……それ酔っ払いの介抱のときのやつじゃ? と思わないでもないが。
「しっかしおまえも毎度毎度こりないな~。だいたいおまえのぶん用意したってま~た『なんでやあ! なんでわてには口がついてないんやあ!? わてはパチもんなんか!?』とか言って騒ぐだけじゃんか。あげく製品会社に電話するとか言い出すし。めちゃくちゃなクレーマーだぞ、おまえ」
少女はくすくすと笑いながら歌うように言う。
「あのときはおうちにおでんわがなくてたすかったよ~」
「ほんとだよ、まったく」
ぼくはとんちんかんなぬいぐるみに呆れのまなざしを向けてやった。
しかし当のそいつがまるで話を聞いていないのだから、どうしようもない。
少女は頭のゆるいぬいぐるみをやさしく撫でつづける。
「……あのね、ほんとうは×××××も、さんにんでごはんをたべたいんじゃないかなあ。ほら、あのばしょだと×××××もいっしょにごはんをたべられるもんねえ」
「……」
その言葉がつい琴線に触れてしまったから。
ぼくは情けなくも言葉を失う。
と、そこにのっそり再起するぬいぐるみ。
「のぅ、おぬし。わての葉巻を取ってくれんかのぅ?」
「……ったく。吸えもしねえくせに」
「……ええんや。わてには鼻があるんや。口がのぅても鼻で吸えばええねんや……」
ちなみにこのぬいぐるみ、一応鼻らしきものはあるが鼻の穴がない。
「…………」
ぼくはそいつに葉巻を渡してやった。
不意に溢れてしまいそうになる涙を、どうにかこらえながら。
――もちろんその後の展開は容易に想像できる通りのものだった。
今日はぼくが寝物語を担当する番だった。
いつものようにそっと少女に問いかける。
「ね、どんなお話がいい?」
少女は早くも夢ごこちになって応える。
「えっとね、×××××のでてくるのがいい」
なにやら寝息のような音に混じって「ぶっふふ」とうれしそうな声の聞こえた気がした。
ぼくはそいつのひろいおでこをさすりながら問う。
「じゃあさ、こいつのなかにはいったいなにが入ってると思う?」
「えっとね……」
「ゆっくりでいいよ。考えてごらん」
少女がたっぷり時間をかけて答えを出す。
「……あんこ?」
「……違うよ」
「え~。じゃあ……芋あん?」
「……あのさ、ちなみにどうしてそう思ったの?」
「そのほうがおいしいから!」
ぬいぐるみのやつが聞いていたら大変だなあ。
なんて思っていると、手のひらを通してそいつの震えが伝わってきた。
「う~ん、それもいいけど。違うかな」
「……そうなんだ」
「でもさ、そんなに残念がることもないよ。芋あんもいいけどね、もっとすごいものが入ってるんだ」
「すごいもの?」
「うん。まあ、すごいっていうか、きれいっていうか」
「きれいなもの?」
「……あ、やっぱりちょっと違うかな。えっと、そう。それはきっと尊いものだ」
「とうとい、って?」
「とても価値のあるもの、ってことだよ」
「えっと、つまりね。×××××のなかにはそういうものがはいってるの?」
「うん。少なくともぼくはそれをそういうものだと想っているよ」
少女はよくわからないと言った風に小首を傾げて見せる。
「う~ん、いったいなにがはいってるの?」
「そうだね。今からその答えがわかる、かもしれない」
「え~、わかんないの?」
「どうだろう。それはきみしだいだよ。じゃ、はじめようか」
「うん!」
ぼくらは他愛もないおとぎ話を紡ぎ始める。
とてもやさしくて、ただただばかばかしいばかりの物語を。
「むかしむかしあるところにね、ひとりの少女が住んでいたんだ」
「……え? ひとりだけ?」
「うん。だいじょうぶだよ。こいつもいるから」
「それじゃあ××くんは?」
「ああ、ぼく? ぼくはね、いないんだ。これはぼくらが出会うまえのお話だからね」
「……でも、それじゃさみしいよ」
それはたぶん少女の幼気なやさしさだ。
ぼくはなんとも言えない気持ちになる。
「……そうかもね。じゃあこうしよう。ぼくはきみのとなりの家に住んでいたんだ。これでいい?」
「うん、おさななじみだね」
「そう、それだ。ぼくらはお隣さん同士のおさななじみだった。そしてこいつは……」
「×××××がどうしたの?」
「こいつはね、今と違って、まだあたりまえのぬいぐるみだったんだ」
「あたりまえのぬいぐるみって?」
「しゃべったり、歩いたり、騒いだりしないってことだよ」
「……そんなのぬいぐるみじゃないよ」
「ううん、ぬいぐるみってふつうはそういうものなんだ」
「……ふつうってなに? あたしそんなのいやだよ?」
どうやら少し表現がまずかったようだ。こちらとしても今さら少女を攻撃しようとは思わない。
「……じゃあこうしよっか。こいつはわる~い魔女に魂を抜かれて物言わぬ石になっていた」
「……なにそれ? かわいそうだよ?」
「だいじょうぶ。そんなこいつを、これからきみが救うんだ」
「どうやって? できっこないよ……」
「ううん。きみならきっとだいじょうぶ。ぼくも手伝うからさ、いっしょにやってみよう」
「……ありがとう。うん。あたしやってみる!」
少女はほんの少し迷ってから、元気良くうなずく。
「よし、じゃあ……ある朝、きみはベッドの上で目を覚ますんだ」
「どんなべっど? ふかふかしてる?」
「うん。そりゃもうふっかふかのベッドさ。きみは気持ちよく眠って気持ちよく目を覚ました。でもね、残念なことがひとつだけあるんだ。あんまり気持ちよく眠ったものだから、きみは夢を見ることができなかった。つまりあの場所には行けなかったんだ」
「……そんなのやだよ。それじゃああたし、ふっかふかのべっどなんかじゃなくていいよ?」
「う~ん、まあ、このくらいの残念は許しておくれ。これは一応過去の話なんだしね」
「……うん、わかった。がまんする」
「よしよし、えらいね」
ぼくたちはくだらない物語を紡いでいく。
「じゃあ続きだね。わる~い魔女に石にされたこいつは、その朝どこでどうしていたと思う?」
「そんなのきまってるよ。あたしといっしょにおふとんのなかでねむってるの」
そう、そんなの知っている。わかりきった答えだ。
「そうだね。それじゃあ、気持ちよく目を覚ましたきみはまずはじめになにをする?」
「えっとね、×××××におはよう! ってぎゅってする」
ぼくたちはおままごとみたいな問答を重ねていく。
「ふ~ん。でもこいつは石になってるから、とっても硬くて痛いかもしれないよ? それでもぎゅってする?」
「うん、そんなのかんけいないよ」
――いつまでもずっと、子どもみたいに。
「そうかそうか。でも、どうしてそこまでしてぎゅってするのかな?」
「だって、さみしかったって思うから」
「ふむふむ、なるほどね……」
ぼくはまたなんとも言えない気持ちになって。
それでもなお、繰り言みたいにおとぎを歌う。
「……じゃあさ、つぎはどうする? ちなみにきょうは朝から学校だからあんまりのんびりしている時間はないよ」
そうやって、寝物語はなんの問題もなく続いた。
ほんとうのことはお互いなんにも言えないまんまに。
予定調和ばかりが、うず高く積み上がって。
案の定、少女はいつだってぬいぐるみのやつを大切にしてやって。
三人でいっしょにピクニックへ出かけたり、お風呂に入ったり、学校の教室でお弁当を囲んだり、それはもう忙しくて。
そんな日常がぬいぐるみの復活するその日まで延々と続いて。
おかげで最初に思っていたよりずっと話は長くなって。
終わるとすぐに少女は停止した。
――ハリボテじみた幸福。
世界がまた、切り替わる。
冷たくて。
色褪せていて。
無機質で。
乾いていて。
なによりも、ひどく虚ろでおどろおどろしい。
せめて寝息のひとつも聞けるなら、どれほど心安らぐことか。
けれど少女たちは、ただただ残酷に横たわる。
――大丈夫。
ぼくは自分に言い聞かせる。
問題ない。いつものことだから。
ぼくは胸から下げたチャームを見る。
ハートを象ったその中央に、なにかの言葉が刻まれたチャーム。
ぼくにはどうしてもそれを読むことができなくて。
それなのに。いや、だからだろうか。
見ているとどうしようもなく暖かく切ない郷愁に襲われて――。
湧き上がるその想いのままに。
ぼくはまた、ただひとつの本を手に取った。
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