02


 何ヵ月も走っていなかったところを無理に走ったせいか、胸の辺りが締め付けられるように痛んだ。その上胸焼けと頭痛までする。目眩すら起こりそうだった。

 息を吸うことでさえ苦痛に感じ、思わずむせ返った。何度か咳を繰り返していると、じわりと目尻に涙が浮かぶ。鼻がつんとした。

 自殺しようとしただけなのに何がどうなっているのか、まるでとんでもない世界に来てしまったように思える。……嘘偽りなき真実なのだろうけれど。

 これからどうしよう。ずっとここにいる訳にはいかない。シロアリが責めてくるのは時間の問題だった。


 影が差した。日向が日陰に変わる瞬間は、嫌いじゃない。ちょっとしたマジックショーを見ているようで、少しだけ胸がドキドキする。

 呼吸を整えて顔をあげると、目の前にカマキリが立ち尽くしていた。それも普通のカマキリじゃあない。何メートルもある巨躯を細い四本の脚で支えた、馬鹿でかいカマキリだ。不気味にこちらを見つめる瞳は透き通っているが、中央部に黒目が伺えて、それが気味の悪さを助長している。

 腰が抜けて力が出ない。非力な私は、ずりずりと後ずさるしかなかった。圧倒する存在に戦意を削がれ、畏怖に身を震わせることしか出来ない。


 きっと誰だって知っている。カマキリは、肉食性だと。


 逃げなければここで食われて死んでしまう。逃走本能が働くよりも先に、カマキリの鎌が私に向けて振りかざされた。視界が暗転する。


 そういえば、昔カマキリを飼ったことがあった気がする。このカマキリと同じ、茶色い色をしていたっけ。何故この状況でこんなことを不意に思い出したのかなんて、私にはわかりっこない。


 全身から受けた激痛で、奴の鎌が私を絡め取ったことを認知した。ああ、死ぬんだ。ここでカマキリの餌にされて死ぬんだ。冷静に思考を組み立てるが、恐怖が体を侵食していく。

 どうせなら怖いあまりに、失神してしまえたら良かったのに。近づいてくるカマキリの顔を呆然と眺めながら、私はそっと目を閉じた。弱肉強食の世界が少しだけ理解できた気がした。




 何かが頬を掠めている。妙にくすぐったくて、けれど別段嫌だとも思えない。そよぐ風が心地いい。

 ゆっくりと目を開けた。辺りは鬱蒼と生い茂る木々や植物に囲まれていた。さっきから頬を撫でていたのは草だったらしい。視線をずらすと、池のようなものも伺える。

 ここはどこだろう。そう思った直後、両腕がじんじんと痛んでいることに気付いた。何とか起き上がり痛みの方に目線を落とすと、その付近の服が乱雑に破かれていて、そこから覗く色の悪い肌には切り傷が刻まれていた。

 瞬時に何もかもを思い出した。そうだ、私は確か、カマキリに捕まって――。


 ずしん、と辺りが揺らぐ。木の葉や草がかさりと音を立てる。視界の隅に映るは、先刻に私を確かに捕らえた、巨大なカマキリだった。

 カマキリの鎌には一匹のバッタが捕まっていた。カマキリと同じくらいの大きさの、まるまると太ったバッタだった。ただ一つ不思議なのは、そのバッタの脚という脚が食いちぎられてしまっていたことだ。

 バッタと言えば、立派な後ろ足とそれから繰り出されるジャンプ。後ろ足の蹴りで天敵に打ち勝つこともあると聞いたことがある。

 確実にありつくためにわざわざ脚を噛みきったのだろうか。だとしたらこのカマキリは、随分と頭が回ると予想できる。

 嫌な汗が吹き出る。喉が乾いて、声が出ない。


 奴は私の目の前に、バッタを乱暴に放した。地面に叩きつけられたバッタは鈍い音を立てる。バッタはまだ生きていた。その証拠に、触角が揺れていた。ということは、このバッタはついさっき捕まえてきたということになる。

 間近でバッタを見るのは精神に来る。後ろに下がって、苦し紛れに息を吐いた。

 カマキリは狼狽している私の様子をじっと眺めていたが、やがて首を傾げてその場に座り込んでしまう。首を傾げたいのは私の方だと言いたい。

 奴は一体何がしたいのだろう。バッタを食べるのかと思いきや地面に落として、今は私のことをじっと見つめているだけだ。

 食料を溜め込んでいるつもりなのかと思ったが、すぐにその考えは消え去る。カマキリは生き餌しか口にしなかったはず。

 なら、どうしてだろう。奴の行動が全くもって掴めない。がっくりとうなだれてカマキリを見た。カマキリは触角を動かしたり、時折鎌の手入れに勤しんでいたがこの場を離れる気はないようだった。


 そして太陽が沈み、夜が訪れた。空を仰ぐと、満点の星空が輝いている。荒んだ心を癒してくれるようだ。

 結局カマキリはバッタを咀嚼しなかった。私の目の届く範囲に、その死骸が横たわっている。同情の念が込み上げた。

 そのカマキリは、尚も私をじっと見据えている。夜でも目が利くようにと、奴の瞳は透き通った透明から黒曜石のような黒目に変貌していた。人間でいう、瞳孔が開く感じなのだろう。

 私はもう奴から逃げることを諦めていた。仮に逃げ出せたとしても、別の虫に襲われる可能性は決して低くない。それならここで最期を待つ方が、私にはましだった。

 まぶたが降りてくる。今日は本当にいろんな目に遭った。自殺しようと一歩外に飛び出したら、虫が突如あんなに巨大化しているし、あげく襲われて今こんなところにいるし。

 まどろむ心慮の中、私は夢の世界へと落ちていったのだった。どうかこれが全て白昼夢であったならと、ほんの少しだけ祈りを込めて。





2017/04/06

一日目。

執筆日は14年3月8日でした。

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飼育日記 海音海月 @Uminekurage

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