補遺:百和堂の弥五郎大人。
新潟市江南区北山(旧大江山村)。北山池という砂丘湖を中心に広がる農村集落だが、かつてここに、晩年の
サロンの名は「
主は当地に暮らしたお百姓さんで
北山の弥五郎がくれし葉牡丹のおごそかにして春をことほぐ
存さんが「年首の歌」として詠み、昭和33年の年賀状に印刷して友に送った歌。彼は文士仲間とともに月に1度か2度は必ず百和堂に顔を出し、例えば地名の由来や先人の暮らしにまつわることなどの
存さんが北山の百和堂を初めて訪れたのは昭和23年の春、当地では春祭りが行われていた。存さんが主宰する民俗学誌「
いくたびか炉の火焚き添へ君が置くどぶろく尽きず話も尽きず
草餅を木皿に盛りてなつかしむ
百和堂に集った面子の中には、以前にも書いた津川(現東蒲原郡阿賀町)のやもめの絵描き――存さんと柾谷小路のど真ん中で激論を交わし、心配して集まった野次馬たちを(話の内容の面白さで)大いに感心させたあの人、ももちろんいた。ふたりが揃えばさながら
百和堂をすっかり気に入った存さんはここで大いに飲み、語り、興が乗れば歌を詠んで
二三、一〇、九
笠原先生と共に来宅され菊の節句に酒を呑み大気いん(注:気いん→気炎。楽しく飲んでテンションが上がった状態なんだと思います)にて、タンザク
百和堂主人呈
菊日和菊の節句に菊作る人の宿訪ひ菊酒汲むも
(略)
「菊の節句に菊作る」のあたりに、花などを丹精こめて育てることを生業とする弥五郎さんへの敬意が感じられて、信頼関係を結んだ者同士が過ごす和やかで賑やかなひと時が見えてくるようだ。
穏やかな性分で聞き上手だった弥五郎さんは、文人達の話に興味深く耳を傾けた。(癖が強すぎる一面もあっただろうが)知的好奇心を大いに刺激してくれる彼らとの対話を楽しむ時間は、弥五郎さんにとって心豊かに過ごせる貴重なひと時だったはずだ、何もかもが落ち着かず余裕がない戦後の混乱期だったからなおさら。
存さん達が初めて百和堂を訪れた春祭りの日を境に文人と地元の人々の交流は深まり、大人はもちろん子どもが顔を出しても招き入れ茶菓を出してやったりと、どんな者にとっても敷居の高い場ではなかったという。
百和堂には存さんがしたためた短歌がそこそこたまり始めて、弥五郎さんは「いつか存さんの歌を集めて歌集にしてみるか」と思い始めた。
その頃、弥五郎さんの息子さんは戦争から帰って亀田の郵便局に復職していた。歌詠みを趣味とする同僚に存さんの話をし、「親父によると、存さんの和歌の先生は郵便局勤めの若者らしい、本人がそう言っているようだ。つまり君が小林存の師匠ということになるが本当か」と尋ねた。
そんな事実はないから同僚氏は面食らったようだが、なんでも存さん、この人がちょくちょく新聞に投稿していた歌を目にし「よし、俺もやってみよう」と思ったのが始まりだった、つまり一度顔を合わせた程度の若者(昭和21年、青年は村で開かれた講演会の手伝いをした時、開演前の時間を持て余した講師・存さんの時間つぶしの碁の相手をしてやった。大いなる頭脳の持ち主であり大いなる奇人として知られていたが、初めてその姿が目に飛び込んできた時は「物乞いか、あいつは」と思ったそうだ)への私淑が作歌のきっかけになった、ということだ。さらにいえばこの新聞というのは存さんが主宰していたものであり、「よければうちの新聞に投稿して」と存さん自身が声をかけていた。
青年は、その後存さんが歌を詠むようになったのをまったく知らなかった。天才だといわれてはいるが、果たして歌の腕前はどうなのか。同僚氏はちょっと
自宅の蔵を文化サロンとして開放し存さんら文人墨客を招きもてなした弥五郎さんだが、彼ら文人とあたたかく交流するだけでなく、時には救いの手を差し伸べることもあった。農家とはいえ花卉や果物が専門だから有り余るほどの米を持っているわけでもなかった、それでも弥五郎さんは存さん達が困っていると分かれば、近隣の家から購入して融通した米を手土産に持たせてやったこともあったという。
ある時は例の津川の画家の絵を買い取る相手を探してやったりもしたが、例えばマージンを取ったり自分の懐をも温めるようなことは一切せず、ただ仙人じみた彼の暮らしを少しでも上向かせるためにやっていたことだった。彼の作品をはじめ書画の類など山ほど目にしていたし、作者達からそういった品々の見方について学ぶこともあっただろう、なによりそういうものが好きだっただろう。
彼自身、文化的なことに興味があり食べる心配をしなくてもいい状況だった(農業従事者以外の人々は今日の糧を得るために駆けずり回っていた時代だ)とはいえ、こんな時代にこういう人達を招いてどぶろくを振る舞い、時には米まで持たせてやる。果ては作品の買い手まで見つけてくる。文人との関わりがもはや交流の域を超えて、支援の域にまで達している。
周りの人の目に、弥五郎さんはどう映っていたのか。「このご時世に生産性ゼロの先生方と仲よくしてどうするのか」「たかられてるんじゃないか」「自分もインテリに見られたいんじゃないか」等々、ネガティブな視線を向ける人もいただろう、と心配になってしまう。本当に大丈夫だったのか。
正直、文人墨客というのは(みんながみんなそうではないだろうが)。
存さんもしかり、名家に生まれてたくさんの学びの機会に恵まれ、その中で自身が興味をそそられたものを究めていく。でも明治維新で庄屋制度が廃止された時のように、第二次大戦終結後の農地解放で、名家云々という肩書を引っぺがされた家もあった。彼らなりのいい時代、が終わって、新しい世の中に置き去りにされる時代の到来が目前に迫っていた。
そんな訳で食うや食わず(津川の画家もそれなりの家に生まれたが、婿入り先の没落、借金など苦労続きだった)、見た目にも影響が出てしまったり。きっと「見ろ、あのざまを」と指さしたくなる人は一定数いただろう、と思う。人間だからどうしても、そういう嫌なものが噴出して「ああ愉快愉快」とかなってしまう瞬間がある。
終戦ですべてが引っくり返った時代、新しい波にいかにして乗っかっていくか、と必死な者ばかりだっただろうし、立派とは言い難い姿を面白がる者もいただろうし(下手すれば溜飲を下げる者も)、見たままの姿がすべてだとばかり、安易な判断で切り捨てにかかる者もいただろうし。
人間はどんな時代でも簡単にカテゴライズしたがるもので、彼らは「負け組」にカテゴライズされる方が分かりやすいし、印象というのは余程のことがない限り覆ることはない(存さんの和歌の先生たる郵便局の若者は後に存さんの歌に触れ、そこから豊かな才能や秘められた心に気づいて、失礼過ぎる第一印象を覆すことになったが)。
なんというか、人を安直に判断すること、勝手な視点で人をジャッジするのはやっぱりおかしい。特に存さんは(しょうもないエピソード満載だったとしても)大いなる知識人であり、なにより人間性の面で――絶対に威張ったりしない、権力に恋々としないし屈しもしない(若い頃に新聞社を辞めなければよかったんじゃないの、あの時うまくやっとけばよかったんじゃないの。特に今時の人なら、大部分がそう思うはずだ。でもそうすべきではない、と存さんが思ったのだ。今の世の中にも、彼の決断に首肯できる者がどこかにいる)――市井の人々に心底から思いを寄せて、自らの知識を威張る材料に使ったりせず、きっちり世の中に還元しようとしている。物理的な幸せにつながらなくても後ろ指を指す者がいても、その生き方を手放そうとしない。
きっと、人としての存さんのかなり深い部分にある要素(抽象的で申し訳ありません。ここまで書いてきたものとはまた違うイメージですが、うまい言葉が見つかりません)。それをこそ尊い、と思っていたのではないか、弥五郎さんは。
新たな世の中が動き出そうとしている時に、こういう人達を置き去りにすることで何らかの「間違い」が始まってしまう、と考えたのではないか。そんな気がしてどうしようもない。
存さんがやっていた民俗学とは、市井の人々が生きる中で紡いできた文化を検証していく学問、だとしたら。それを教えてくれ、さらにたくさんの人々に伝えようとしつつもなかなか結果を出せずにいる存さんを置き去りにすることは、弥五郎さんにとって市井の人(=彼ら自身)の根っこをないがしろにするのと変わらないのでは、という疑問と、なんらかの悪事をはたらくような、ざわついた思いを呼び起こすことでもあったのかもしれない。
本編に書いたとおり存さんは昭和30年に脳出血で倒れ、同年に津川の画家もこの世を去った。存さんが最後に百和堂を訪れたのは昭和34年の秋、ちょっと不自由になった体をおしての訪問だった。
弥五郎さんは昭和50年代まで北山の地で暮らした。かつての百和堂、つまり自宅の蔵の2階には弥五郎さんが集めた民具類や仲間達の手による書画類がずっと残っていた。晩年の彼は、ともに暮らした家族から見れば少々気難しい人、に映ったそうだ。
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