8 晩年の日々。

 それでも存さんの周辺は相かわらず賑やかで、昔馴染みの仲間との絆も相かわらず、だった。

 故郷横越の隣町である亀田かめだに住む男性の家には月に1度は必ず訪れ(例の津川の絵描きさんと連れ立って、というパターンが多かった)、大いに酒を飲み歌や俳句の話をした。またこの男性は存さん来訪時のことを綴った「小林日誌」をまとめており、存さんも彼のもとには自作の歌を添えた年賀状を毎年送っていた。


「昭和二十八年一月一日

 御慶ぎょけい、あなたはおいくつにおなりですか、御家内に御変わりはありませんか、私は明治十年六月六日生まれ数え年七十七歳、俗に所謂いわゆる喜寿と云う年廻りに達した次第ですから、何か嬉しい頼りのあるような気がしてなりません。


 何事をなさんたくみもなけれども

  ことしの春にのぞみかけつつ


 年末になって又失望せねばよいがと思い万事皆さまの御支援を待ち上げます。右年頭の挨拶まで。」


「昭和二十九年一月一日

 敬頌けいしょう新禧しんき 四海春風という言葉の夢ならぬことをねがい今朝をお祝い申し上げます。命も要らず名も要らず、金も要らぬ奴は天下の大馬鹿者だが、そうゆう大馬鹿者でなければ一大事は成せないと西郷南洲(※西郷隆盛)ははっきり言っている。私は初めからそのような大それた野心をたない人間だから何も好んで南洲翁の所謂大馬鹿者の真似をして生きなくともよかった訳だが、これまでは因果とそれに近い生活がついて廻った。併し今年数え年七十八歳の高齢までひょっこり生きて見ると今更命が惜しくなり、したがってもう少し賢く生きて行こうとする気持ちになりました。


 野菜根やさいこん七十余年み馴れて

  少し飽きたるこのごろのわれ


 菜根を咬んで百事成就するというのは古語の成文ですが私はまだ事の業績もない。お察し下さい。以下拝年の辞に代えます。」(「小林存伝」P338~339)


「今年はいいことありそう」とわくわくしたり、自分を客観的に見てちょっと反省モードが入ったり。やっぱり若い、なおも前向きだ。

 普通なら、喜寿くらいになれば失礼ながらもっと違う形で近い将来を思い描くものなんじゃないか、今ほど寿命が長くなかった当時ならなおさらだ。ところが存さんは「喜寿だから」いいことがありそうだと期待してその勢いで一首作り、翌年には老いた身に伸びしろさえ見つけている。

 でもそんな若々しい思いの裏には、もしかすると「事の業績もない」ことへの悔しさがあり、「命が惜しく」もあるからとにかくもう一花を、という焦燥感にも似た心境があったのかもしれない。

 存さんにも人並みに、なんていうとひどいけど、老いや死への恐怖、というものがあった。戦中戦後の混乱を経て評価された頃の若々しいモチベーション、それと表裏一体をなす形で、もうひとつの原動力になっていたのかもしれない。

 そんな思いを遠回しながらも吐露できる仲間との和歌談義などを楽しみつつ、存さんは夕刊紙での連載や「中魚沼の物語」増補版など、取材に執筆にと忙しい日々を過ごしていた。



 昭和30(1955)年12月、亀田の友人宅に存さんが差出人になっている葉書が届いた。脳出血のため倒れてしまったことの報告と、それまでの厚情への感謝を伝えようと、誰かに代筆してもらったものだった。

 同時期に新潟大火が発生し懇意の印刷所が焼けてしまったこともあり、この時に「高志路」は3回目の休刊を余儀なくされた。しかし1ヶ月ほどの入院を経て回復し、存さんは我が家に戻ることができた。元気になった存さん、多少の衰えはあったが「水原すいばら郷土史」執筆や「高志路」復刊など相かわらず精力的な活動を続ける。

 そして會津八一の寄進お断り事件なんてことがあったものの、設立に向けて動き始めてから3年を経た昭和32(1957)年、ようやく「新潟県民俗学館」は新潟大学農学部内の一室を提供される形で開設された。当初は喜寿祝いのはずだったが、開設時には存さんは80歳になっていた。

 学館ができた当時の新大農学部は存さんが住む街なかからは離れていたが、彼はたまに顔を出しては民具収集に興味を持つ大学教授(後に新潟県民俗学会会長になり、アンギンの研究にも携わった)との交流を深めた。また、存さんはたまに学館に「横越の青年が荷物を持っていくから」と連絡した。そうすると50代ぐらいの、存さんから見れば青年だろう、みたいな年代の人達が古い民具などを持ってきたのだそうだ。

 民具研究のためにもそれらを集積するスペースが必要だと考えていた存さんは、かねてからの望みが叶えられたことと、民俗学に興味を持つ新しい仲間と出会えたことに大喜びした。


「『新潟県民俗学館』の設立計画は、私の生涯の事業に締めくくりをつけて、もう余り多くもあるまい余生を、出来ることなら好きな日本民俗学を楽しみつつ死なせたいという先輩有志の甚大な御同情で、私の喜寿記念に成立したものだ。(略)私の病気はもともと不治の病であるからなおりっこはないが、これで安心して死ねる。」(「小林存伝」P217)



 また同じ頃、横越の人が「存さんの歌集を出そう」と動き始めた。病気をしてからも大好きな和歌に精進していた存さんだったが、民俗学者という肩書がある以上それを一冊の本にまとめようなんていう気はさらさらなかった、ようだった。「會津八一にも言ってやったことがある。君ほどの学者が書などで有名になることはある意味不幸なんじゃないか、と」なんて意地を張っていた。というか、やはり八一のことを引きずっていた。彼からは「あなたは歌よみになる素質はあるが、時々歌よみの作れん歌を作る」とダメ出しされたこともあったらしい(これはもしかすると八一の照れ隠し、自分にないものを持っている存さんへの賛辞の裏返し、だった気がしないでもない)。

 でも横越の人は「あなたの場合はあくまでも余技なんだから、八一のように有名になる心配なんて無用だ」と答えてみた。そう言われた存さんは「趣味で、ということなら誰も文句は言わないか」と破顔大笑したという。実は満更でもなかった感、もある。

 そして、言い出しっぺでなおかつ自分が存さんが和歌を始めるきっかけとなった人物だ、と自認していたその人は、仕事の合間を縫って存さんがよんだ和歌の収集を始めた。存さんもたまに人に頼まれて短冊や色紙に一筆したためることはあったから(彼の場合はもちろん無償、だ。味わい深すぎる字は没後大いに惜しまれ、「書いておいてもらえば」と悔しがる人は多かったらしい)そういうものを保管している家などを訪ね歩き、1年半の間に400首以上を集めた。

 そうこうしているうちに「存さんの歌を集めているそうで」と協力者も現れ、昭和33(1958)年、存さんの歌集「玉石ぎょくせき同架どうか」ができあがった。

 天衣無縫で図々しくて、繊細さなんてかけらも持ち合わせていないようなキャラでもあった存さんの内面が、一瞬顔を出す。それらは玉石などではなくひとつひとつすべてが輝いている、というような歌ばかりだった、少し悲しいものが多い気もするが。


「(略)「玉石同架」を読むとき、なり振りかまわぬ祖父に、こんな情熱的なところ、浪漫的な面があったのかと改めて祖父をみなおしたりしました。」(「小林存伝」P222)


 孫娘は、そう回想したという。



 昭和34(1959)年、冬。存さんは、地域紙社長の招待を受けて十日町を訪れた。ちょうど十日町雪まつりの真っ最中だった。

 当時の存さんは足腰がかなり弱っていて、駅から介添えを受けながらようやく歩いてきたという状況だったが、雪を固めて作った陳列台に当地の民具を展示するイベント(こういう催しをやったのも、存さんが十日町に民俗学の種をまいたからだろう)をやっていた目抜き通りで立ち止まり、そこから動かなくなった。

 民具ひとつひとつを見、名称を示すプレートなどもチェックし間違いを見つければ指摘した。通りすがりの人が興味を示せばそれらの由来や用途を説明し、とやっているうちに雪が降り出した。それでも存さんは1時間以上、雪の目抜き通りに留まった。

 存さんが最後に十日町を訪れた時のエピソードだ。



 昭和36(1961)年3月10日。彼だけにしかできない生き方を貫きとおし、誰からも愛され慕われて生きた存さんは、静かにその生涯を閉じた。83歳だった。

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