7 いつの世も賢き人は:存さんの悲しみ。

 さっき「屋台階級」と書いたが、認められてもなお存さんの生活は余裕がないままだった。「県内地名新考」はカンパを募って自費出版し、出来上がった本をリュックに詰めて知人を訪ね売り歩いたのだというし(この時期は精神的に疲れた感じになってしまっていたそうで、自身も「何回も神経衰弱になりかけた」と語っていたという)、学者という肩書はあったにしてもやはり在野の人、出版人として食べていくしかない、という状況だった。

 例えば先生とかになってその傍らで続けていく、とかなら自分の本を背負って売り歩くなどという苦労はせずに済んだだろうが、存さんがそんな道を選ぶとも思えない。

 次から次へと湧き出てくるものがありそれを形にしようと奔走しているのに、自身にはそれを続けることへの喜びもあるのに。世間の大部分の人にとってはそれが意味も価値もないこと、もっといえば「お金にならないんだからどうしようもない」と掃き捨てられるもの、だった。存さんの頑張りは、世間一般でいういいこと=富、にはなぜかつながっていかなかった。

 伝えたいこと、手放したくないものがあってそれを主張し理解してもらえればそれで充分、というものでもないだろう。きちんと評価されていたし支えてくれる人がたくさんいるのは心強かっただろうけど、経済的な余裕のなさと手を切れないことに対しては、やはり人並みに悔しさ歯がゆさがあったはずだ。


 我暮し楽にならずというよりも

  暮しというもの我にありやなしや


 いつの世も賢き人は貧しなど

  なぐさの言葉諦めにならず



 一方で存さんにも、大出世を果たした建部遯吾同様「再興」「盛り立てたい」との思いはあった。「高志路」で、


「天成の福運芽出度めでたく、明治維新後の動乱期に家を継いだばかりに、家の没落の責任をすっかり私一身の素晴しい飲んべい振りに負わされている有様」(小林存伝 P78)


 などと冗談めかしてはいたが、そうなってしまったのはもしかしたら、世の中の諸々に対して彼が抱いたたくさんの思いに家への思いがかすんでしまったから、かもしれない。飄々とした優しい人柄でありながら何度かの戦いもあり、そういう意味では一匹狼だった。その一方で存さんを知る人は慕い、献身的に彼を支え続けた。

 もし存さんが目の前にいたら、私なら「存さんが存さんらしく生きて、生活は苦しくても充実していたし評価も受けたんだし、みんなから慕われていたんでしょ」と声をかけてあげたくなるところだ。でも會津八一からキレることを教わった存さんに「そんな薄っぺらいことを言うな」と一喝されてしまいそうだ、あるいは苦笑いか何かされるだろうか。

 存さんが名のある存在となっていた頃、横越組大庄屋屋敷には「跡」という一文字、がついていた。新潟市内に住んでいた存さんは故郷横越を訪れるたびに、阿賀野川にかかる横雲橋おううんばしの欄干にもたれて、屋敷のあった辺りをぼんやり眺めていたという。



 存さんは偉い人だったのか、民俗学者として大成したことは彼に幸せをもたらしたといえるのかどうか。考えていたら、だんだん分からなくなってきた。

 実家の没落が始まったのは存さんが新潟新聞に入る少し前のことだったというし、この際実家のことと存さん本人の人生を一緒くたにしなくてもいいような気もするが、時代を考えるとこの辺のことは鍵になってくるのかもしれない。でもさっき書いたように、存さん自身がその辺考えずにというか気づかぬふりというか、少なくとももっと違ったところに軸を置いて走り続けていた、年老いてから改めて家というものに目を向けた、のかもしれない。

 存さんが民俗学を究めたこと、その人生の中でやったこと、というのは彼自身が「みんなに何をもたらすか」を軸として走り続けた結果生み出されたものなんじゃないか。郷土への恩返しとか貢献、という意味を込めてこの学問に没頭しいろんなものを発信し、それを受け取り評価してくれた人がいて、そこからいろんな何かが生まれたのならそれも目標達成、といえる。

 一方で新しい学問にのめり込むというのは、実はニッチな世界に自分を埋没させる、ということでもあった。存さんの場合、民俗学の道に邁進することが「(さまざまな意味で)自分に何をもたらすか」という観点から眺めてみた形跡がない、ような気がしてどうしようもない。

 存さんだって、遯吾や八一のようにステレオタイプな「偉さ」について考えても、あるいは(この言葉はあんまり好きじゃないけど)画策してもよかった。それとも、それを望んでいながらそのノウハウがどうしても分からなかったのか、記者時代のトラブルがずっと引っかかって、そんな風に動くことを拒み続けていたのか。

 何冊もの著書を残し後継者を育て民俗学の裾野を広げた、でも存さんの手元に残ったのは形のないものばかりだった。それらはとてもきれいで尊いものばかりで、あんまりきれいではないけど多少は手元になければ困るもの、はなかなか集まってこなかった。それで周りに少し迷惑をかけたりした、「しょうがねえなあ」の一言を引き出せる人だったからよかったようなものの、これはこれで辛いことだ。

 新潟市の家を引き払って、ご先祖のお墓のそばに家を建て墓守として余生を送るのが夢だったというが、その夢はついにかなわなかった。



 存さんの同級生で、横越小学校長を30年近く務めるなど村の教育発展に尽力し、後に名誉村民となった人がいた。

 性格は真逆だったものの仲が良く、存さんの親友ともいわれていた彼も存さんの望みを知っていたが、「新潟市内に居を構えているから、小林君は話の分かる人間に民俗学者として敬われている。今から横越に帰ってきても、地元の人は身なりに無頓着な彼の姿を見て『名家を没落させた放蕩息子が帰ってきた』と後ろ指をさすだけだ。そう考えれば、今までどおり街なかに暮らすのが良いのだ」と言っていたという。

 これは意地悪で言っていた訳でなく、存さんの人柄も能力も知る人だからこそ、帰郷したために傷つくようなことがあっては可哀想だ、と思ってこんな言葉が出てきたのだろう。

 分かりやすい評価に恵まれる、ってそんなに大事なことなのか。

 と、今ふと思った。結局、人はそういうところで判断する。その悲しさに居座られたために、存さんの人生に余計な色どりが加えられてしまった。



 われこそは街の酒場のソクラテス

  君与へんか毒杯も亦


 存さんが詠んだ中で一番有名で、最初に碑になった歌だ。十日町を訪れた時、例の女性職人がいる寿司屋さんでよんだものだという。カッコつけている感もあるが、一周回って自虐的な気分から生まれた歌なのかな、という気がしないでもない。「毒杯も亦」って、本当は誰に、何に対して吐いた言葉なのか。

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