6 今良寛 vs 秋艸道人:會津八一とのこと。
一方で、存さんにも不仲というか、反りの合わない人がいた。新潟市出身で、書家・歌人として名高い
新聞社社長、もっと遡れば大学教授という肩書もある八一だが、東京帰りの彼は余技であるはずの書で名声を得た。請われれば書いたものに値段をつけて渡していたが、「あなたの書を」という人が引きも切らず、とうとう価格表を作った。もっともこれは対応が面倒くさくなって、依頼を断るための小道具的なもの、だったらしい。
4歳年下で早稲田大学の後輩でもある八一のそういうところを、存さんは正直あまりよく思っていなかった。東京で焼け出されて帰郷したという事情はあるものの、本職を投げ出し書家として評価され、しかもそれで収入を得ているのがどうも面白くない。大学の同窓ということで「彼の書がほしいから仲立ちを」と頼まれればふたつ返事で八一宅に出向いた存さんだったが、そんな時に嫌な思いをしたこともあったらしい。
八一は八一でプロの書家だという自負があったし、存さんがそんなことを言ってたよ、なんてのが耳に入れば「ふん、またか」という調子。「言わせておけばいいよ」とばかり完全スルー、だったらしい。
鷹揚な存さんと気難しい八一では、反りが合うはずもなかった。孤独を愛し、気に入らない人にはキレてみせることもあった八一を「俺もこんど、生意気な奴がいたら『この青二才何を言うか』と怒鳴ってみよう。やあ、いいことを覚えた」と存さんは
それでも二人は顔を合わせれば至って穏やかに、お互いがいわば大人の対応をしていたから表立ったトラブルは起きなかったものの、どうも嫌な火花が散る関係、だったようだ。
一方で、存さんが新潟日報文化賞を受賞した時。八一は、推薦の言葉というのを寄せていた。
「(略)今年に入って「県内地名新考」を出され、さらに前著「越後方言考」の訂正版も用意されて居り、これらの二書は、後世に伝えるべき標準的の名著といえる。そこで私は、私の古い友人で民俗学の権威であるところの柳田国男君や折口信夫君とともに、この度この文化賞に小林君を推薦した。
学問に志す人は多いが、或いは小成に安ずるか、或いは途中で飽きて中止してしまうか、いつまでも、いつまでも気長に研究をつづけて終身の仕事にする人は実に少ない。小林君の一生の如きは、こんな点からも厳しい教訓となるであろう。」(「小林存伝」P190)
存さんの実績や学問に対する姿勢を高く評価し、東京時代の人脈を使って名誉ある賞が受賞できるよう後押ししていた。
そうかと思えば、存さんの喜寿祝いに研究施設「新潟県民俗学館」を贈ろうと奔走していた人からカンパを頼まれた八一は、何やら言い訳がましいことを書き連ねた手紙を送りそれを断っている。
「(略)さて小林存君のための事業も、御力により次第に完成に御近づきのことは、まことにめでたく存じ
そんな八一だったが、彼が書を売ってお金を得ていたのは帰郷後に始まったことではなく、早稲田大学で教授を務めていた頃から、だった。彼は美術史に関する資料を買い集めて学内に集積し学生の研究に役立てよう、彼らには少しでもいいものに触れて見る目を養ってほしい、と考えていたのだ。そして自らの書を、その足しにした。早稲田大学にある「會津八一記念博物館」は、彼が教え子を思う一心で集め、いつしか一大コレクションとなった品々を集約したものだ。
いってみれば、書で稼ぐお金の使い道が学生のための資料収集から自身の生活費に変わっただけ、だった。故郷とはいえ何を土台にして生きればいいか分からない状態での帰郷だっただろうし、戦後のどたばたを考えれば仕方がない。民俗学館への寄付を断る手紙も、彼が書で食べていくようになった本当の理由を打ち明けているようにも、存さんに「こんな生き方もあるのだ」と暗に示しているようにも思えてくる。
書の確かな腕前があったことや「これで食べていこう」という開き直りができたこと、それ自体がむしろ八一にとってラッキーなこと、だった。セルフプロデュースなんて言葉があるがそれができる人でもあったのだろう、元大学教授で書の大家、となれば手探り状態の新潟での暮らしにもなんとか目鼻がついてくる、と。
そんな彼が存さんに抱いていた本音の本音は、どんなものだったんだろう。
学級の徒であることに対して真っ向すぎる存さんが自分に対して抱いた反感が名声へのやっかみなどではないことは分かっていただろうし、そういう純粋さにイラッとすることもあっただろう。「いいですか、世渡りというのはこういうものなんですよ。あなただって、そういうのを少しは覚えなきゃいけない」とガツンと言ってやることができたら、「飯の種という観点から物事を考えたって罰は当たりませんよ」なんて皮肉ってやることができたらどんなにすっきりするだろう、なんて思いながら墨をすっていたかもしれない。
でも後輩だから、そんな態度をとることもできない。どうももやもやするし、存さんに言ってやりたいことを表現する手立てがない(先輩だからというだけでなく、存さんに対してはツンデレみたいな感情があったんじゃないか、とも思えてしまう。そう考えるとおかしいけど)。思い出せばどうも落ち着かずイラッとした後、変に心配になる、というところだったんじゃないか。
そして、もうひとつ。
八一の心のどこかに、存さんをやっかむような羨むような、そんな気持ちはなかったか。自分のような割り切りを知らず(八一だって美術史家の道を全うしたかっただろう)、苦しみながらも自分の信じる道を邁進している、そんな彼はたくさんの理解者に囲まれ、慕われ支えられている。でも存さんをそんな風に思っていると
存さんが、八一の胸の内を推し量ったことがあったどうか。とりあえず、開き直りや割り切りなんていう言葉は純粋すぎる彼の辞書にはなかっただろうけど。まあ天国でその辺のわだかまりが解けて仲良くやっていればいいか、というところだ。
存さんが急病で倒れた翌月の昭和31(1956)年1月、八一は日記にこう綴っている。
「一月五日(木)
朝、日報の校正課長渡辺来る。小林存の経過を聞く。
(略)小林の
存さんはその後快方に向かうが、八一は体調を崩して日記を書くこともままならなくなり、その年の秋に亡くなった。好きなのか嫌いなのか分からない先輩の病状を気遣う一文が、八一の最後の日記になった。
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