5 存さんと、素敵すぎる仲間達。

 存さんの友達のひとりに、津川つがわ(現東蒲原ひがしかんばら阿賀あが町)に暮らす日本画家がいた。博覧強記でお酒好き、やもめ暮らし(存さんは戦中に夫人と死別)で服装は至って適当、実は経済面でも、と存さんとの共通点は少なくなかった。

 彼は絵が売れれば新潟に出てきて存さんを飲みに誘ったが、そういう約束をしていなかったある日、新潟の目抜き通りでふたりはばったり出会った。その途端ふたりは「ここで会ったが百年目」とばかり何ごとか言い合い始めた。ちなみに第四だいし銀行本店の真ん前だったそうだ、ここは新潟市随一の繁華街・古町にほど近く、柾谷まさや小路こうじという賑やかな通りに面している。

 周りの人は、身なりのよろしくない二老人がハイテンションでわあわあ言っているものだから心配になり、喧嘩にでもなってはいけないと様子を見守った。しかし、話の内容は純粋な議論だった。ひやひやしていた通りの人も「この爺さん達、いいこと言ってるじゃないか」と思えてきてつい話に聞き入った。次第に野次馬の興味の先は議論の内容そのものに移って、ギャラリーは増える一方。とうとう警官が様子を見に来るほどの騒ぎになりましたとさ。

 こんな感じのお友達だけでなく、存さんには各界にたくさんの仲間がいて、陰に日向に彼を支えていた。いつの間にか民俗学者デビューしていた例の高校教師のような愛弟子まなでしをはじめ、取材先で出会った人、民俗学研究グループのメンバーやその子供、記者時代にお世話になった人、縁戚の人や幼馴染など横越ゆかりの人も。

 安吾が出た坂口家とは縁が深かったようで、存さんの才能を見込んで新潟新聞主筆に抜擢したのは安吾の父・仁一郎だったし、民俗学との出会いのきっかけをくれたのもその親戚筋の人だった。そして仁一郎の長男で安吾の長兄にあたる坂口献吉けんきち(1895~1966)も、晩年の存さんのそばにいるひとり、だった。

 献吉は、戦後開局したラジオ新潟(TBS系ローカル局新潟放送:BSNの前身)の社長だった。漢詩をよむ詩人でもあった亡父・仁一郎が生前書いた詩を存さんが解説してくれ、その解説文に同封されていたのか、献吉はこんな手紙を存さんから貰ったことがあった。


「(略)もっと詳しく説きたいのですが、あなたの所のラジオが例の通り邪魔になって、これだけしか出来ません(略)」


 その後、献吉の回想がこう続く。


「お前のラジオが邪魔になってなどと、大人たいじんの面目躍如たるものがあります。」(「悼 小林存先生」高志路別冊 P14~15) 


 楽しいからついつい聞いちゃって、という意味であることは間違いないが。ちなみに献吉、「二代にわたる深い因縁が」とも書いていた。

 存さんとの関わりは、亡父から「大事にしてやって」と言われていたからだったのかもしれないし、存さんの姿に破天荒すぎた弟・安吾の面影をダブらせる瞬間もあったのかもしれないし。それでも、存さんがわざわざ「ラジオが邪魔で」などと書いたのも「いつも聞いてるよ」というメッセージ、存さん流の優しさだったのだろうし、献吉もユーモアをもってその存在を振り返ることができるのはお互いが心を開いていたからこそ、だ。

 存さんは出先で見知らぬ人の家の風呂が沸いていると分かれば(昔のことだから煙突の煙で分かったのだろう)上がりこんで一番風呂をいただいてしまうこともあったし、横越村の助役を務めていた人のところに押しかけて「温泉に行ってくるからバス賃を」とせびることもあった。世話になった人が亡くなった時には手持ちがなく、香典に出すためのお金を借りて葬儀に参列するつもりが、故人と別れる辛さに耐えられなかったのか途中で飲み屋に寄って全部飲んでしまった。さすがに帰るだろうと思いきや、そのまま葬儀場に行き「香典はツケで」と頼んだという。

 温泉に行くからバス賃を、というのはひょっとすると取材に行くから等の事情があったのかもしれないが、お金をせびられた助役も、


「普通の人があんなことをしたら、ずいぶんひどい野郎だと思われ、こちらも胸クソが悪く、二度と金など出す気はなくなるでしょうが、小林さんだと、ちゃんとそれがサマになっており、少しも後味が悪くないんですよね。そして金を取られたという気にならないんだから不思議ですよ。」(「小林存伝」P44)


 と語っていたそうだ。サマになるというのもまた存さんマジック、かもしれない。

 また別の人も、


「新潟で文化人といえば、會津あいづ八一やいちが来る前は小林存くらい。みんなで大切にしようという気風があった。食事や酒を出す家には事欠かなかった。」(略)自分で要求しなくても、お布施のように物や金が集まる人徳があった。(「幕下りるとき」小林存編 P52)


 文化人だから大事にしよう、何でもかんでも恵んであげよう、ということでもないだろう。やっぱり存さんマジック、または人徳。存さん自身はまさかそれが当たり前だとは思っていなかっただろうが、周りの人にとってはそれが当たり前、だった。

 ずるずるの着流し姿で飄々と現れ、どうも常識が通じないおかしな人だったりするが、高い能力と情熱、それから存さんの心に関しての深いところ。多分、最後の要素については誰でも理解できたのだ。だから「しょうがねえなあ」の一言が出てしまう。

 そしていつの間にか「しょうがねえなあ」の輪ができ上がり、その中心で存さんは嬉々として取材をし、執筆を続けることができた。

 良寛りょうかんという僧侶が、江戸時代にいた。新潟県内なら知らない人はいない、というかその名前は浸透し過ぎて一種のアイコンのようになっている。そういう人なので、というのもおかしいが、大した説明をできない私は怒られてしまいそうだ。

 出雲崎いずもざきの名家に生まれ、その跡を継がなければいけない人だったのに10代の頃に出家して遠くの寺で修行し、その後は小さないおりを結んで貧しい生活を送りながらも仏教を分かりやすく説き、村人に慕われていた。同時に、書家としてたくさんの書を残した人でもある。無欲で何ごとにもとらわれず子供のように無垢で、また彼らと遊ぶのを好んだ。隠れんぼをして誰にも見つからなかったものだから、そのまま翌朝まで隠れていた、などの逸話をもつ人でもあった。

 存さんはそんな良寛を彷彿とさせるということで、今良寛、と呼ばれていた。

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