3 途方もない計画だ:フリー出版人に、そして民俗学と出会う。
新潟新聞退社の辞で「誰かの好奇心のために自分を曲げて、善悪の見境なく誹謗中傷するような仕事はきっぱりと辞め、穏やかであらぬ疑いをかけられることのないような生活を構築したい」と綴っていた存さん。小さな出版社を立ち上げ、今でいうフリーライターのようなフリー編集者のような道を歩み始めた。
キャリアも信頼性も充分だっただろうが、それでも当時、こういう仕事で食べている人はいたのだろうか。しかも東京ならいざ知らず、新潟という田舎町だ。
私などが今さら心配しても仕方ないが、当時の存さんは1年のうちに2冊も本を出したり文芸誌を立ち上げたり、はたまた満州・朝鮮を訪れた時のことを本にまとめたりと、精力的に活動していた。
この時期の著書は川崎久一さんの「小林存伝」の中の引用しか読めていない。それらには元新聞記者らしく国内外の動向への強い思いがあるし、政治的な視点だけではなく存さんの根底にあるもの、ヒューマニティともいえるものが
さっき「精力的に活動」と書いたばかりだが、新潟新聞退社以降数年間の存さんの軸、モチベーションってどの辺にあったのかな、と思わなくもない。自ら雑誌の編集長になったり請われて記事を書いたり、メディアに身を置いてそこそこやってはいたが、その一方でいきなり生命保険会社の支店長に就任したり(これは存さんの暮らしを心配した人が紹介してくれたものらしい)もしている。やっぱりフリーは大変で、というのは明確にあったと思う。
でももうひとつ、これでいいのかな、みたいな迷いはなかったか。自分が書いていること、作っているものは自分の思いにぴったり沿っているか、自由にやっているようでいて何か違う、みたいに感じたりはしなかったか。
佐賀や新津での日々を失礼ながら迷走と書いたが、やはりほんの少しそんなものを感じる。その割に、ひとりの人間としての
で。いきなり話が変わるけど、横越のもう一人の秀才・
存さんと遯吾、歩いた道も人間像も真逆な気がする。今は二人とも横越の偉人として語り継がれる存在だが、根っこにほぼ同じものを持っている分、毛色の違いみたいなものが際立っているように思えてどうしようもない。
遯吾が思い描いたもの、彼なりの人生の鍵が存さんとは真逆だったのかな、とふと思った。早い段階で実家が没落した分だけ大庄屋という家柄の嫌な面を見ずに済み、それが却って彼のモチベーションになったのかもしれない。遯吾にとっての人生の鍵とは、まずは家の再興、もっといえば、敬われる日再び、と言いたくなってしまうようなイメージだったんじゃないか。
「敬われる」の幅もまたひとつあって、自分が偉くなれば故郷の建部家が敬われるようになると思ったのか、それとも。遯吾が思い描いたものは彼自身にしか分からないが、この人が行きついた先というのはステレオタイプすぎるというかなんというか。
存さんと、彼の6歳年上で17歳の時に上京した遯吾に、大人になってから接点があったのかどうかはよく分からない。とにかく上を目指し、思いっきり遠いところ、それこそかすんで見えないほどの場所に行ってしまった、あるいは近くにいたとしても直視できないような存在になってしまった遯吾を、存さんはどう思っていたのだろう。存さんも遯吾の苦労や思いを理解していただろうし、飄々としたイメージの彼らしく「俺は俺」と思えていただろうか。
それ以前に小林家も大庄屋でなくなったという共通点がある以上「もしかあんにゃ」の存さんは遯吾と全く同じ頑張り方をするべき立場、まさにキーパーソンだった。でも遯吾は高いところから、存さんはすごくフラットなところで。それぞれが、自分にできるものを追求し続けていた。
存さんは、彼とは真逆の姿を敢えて目指したのではないか、とも思える。
「(略)彼が生まれた大庄屋という家柄は、強大な権力を持っていた反面、その地位はきわめて不安定であったことから、彼は権力の空しさと虚飾を体得していたのかも知れない。
(略)彼の資質的なものがもちろんあったことは確かだが、彼の家柄が、むしろ反面教師の作用をしたのではないかと思われるふしがある。(略)小林自身が支配階級に生まれた反作用ではないかと思われるのである。」(「小林存伝」P87)
威張る人が嫌いだったという存さんは、敬われるもなにも、という感じで、自分にできること、やりたいことに少しでも近づけるように、という思いだけで走り続けた、ということになるかもしれない。でも「俺はこう思うんだ、こうしたいんだ」の答えを示すツールをなかなか見つけられずにいた。
そんな風に転がり続け、60の声を聞く手前の昭和9(1934)年。
存さんは以前から「東北時報」という週刊誌に顧問として迎えられコラムを連載していたが、ある時正月行事のことを書いてみたら編集者が気に入り「こういうネタで今度座談会でもやってみないか」と言い、また坂口安吾の姉の嫁ぎ先の人が「学問のジャンルとしてはまだ新しいけど、雑学の大家である存さんに向いているのではないか」と勧めてくれたこともあって、存さんはようやく民俗学に出会う。その後座談会は実現し、民俗学研究グループ「高志路会」を結成。半年後の昭和10(1935)年に郷土研究誌「高志路」を創刊する。
俺は、ついこの間まで我が家が先祖代々支配していた人達のところに降りていくから、という姿。彼らが、先人がどれだけ賢く尊い存在なのか、それを徹底的に検証し追及し社会に示していきたい、という姿勢。そういうことだったんだろう、と思う。存さんがずっと考え続け、探していた「答えとして示せるもの」は。
「(略)編者の狙いは編者の学問的な立場の上から在来の政治史的な知識、事件よりは広く常民の生活を基礎とした村の体験的記録を作りたいと思う所にある。それには編者自身村に生れ村に近く生きていて一日も村を忘れたことのないのが一つの重要条件になる。」(「横越村誌」P5)
新潟市江南区横越東町の蒲原横越組大庄屋屋敷跡に、「小林存生誕之地」碑とともに建つ句碑に、こんな句が刻まれている。正直あんまり綺麗なイメージではないけど、すごくわくわくしているような、喜びに満ちているような句だから大好きだ。
桃の汁滴らし途方もない計画だ
碧梧桐から習った自由律俳句だから字余りでもいいし、「滴らし」を普通に「したたらし」と読むのか新潟風に「たらし」と読むのかも分からない、でもどっちでもおかしくない。
いつ頃よまれた句なのか、それすら私には分からない。でもこれが民俗学と出会った時の喜びを表現したものだったとしたら、こんなドラマチックなことはないと思う。
桃は夏の食べ物で、民俗学の座談会が始まったのは昭和9年の初夏、6月17日。その後毎月17日に集まると定められたが、何度目かの会合で誰かが持ってきた桃の薄皮を指先で剝き、切りもせずにかぶりつきながら、「このグループを今後どうしていこうか」なんてわくわくする相談をしている、そんな情景が浮かんでくる。「途方もない計画だ」と頭を抱えるポーズをとりながらも楽しみな気持ちが収まらない、なんだか走り出したくなるような気持ちを表現したものなんじゃないか。
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