2 温情を以て立つ可きものなるを:活躍、そして挫折。

 佐賀や新津の何やかや、そして結婚を経た明治37(1904)年。存さんは新潟新聞(後の新潟日報)に入社する。その数年前に、ある人物に論争を挑む投稿をしたところ当時新潟新聞社長だった坂口さかぐち仁一郎にいちろう(1859~1923。作家・坂口安吾あんごの父)に評価された、というのが入社のきっかけだった。

 入社後いきなり主筆(編集長)に抜擢されるほどの期待を受けていたが、存さん本人もその期待に応え、秋山郷あきやまごう三面みおもて銀山平ぎんざんだいらなどの県内探訪記の連載、またウラジオストクや樺太からふとでの海外取材記を執筆するなど大いに活躍する。

 この海外取材というのが新潟―ウラジオストク間直通航路開設を記念しての一大事業で、他の記者ともども実業団に帯同して1ヶ月近く取材をし、という大掛かりなものだった。

 取材中、存さんはメモを取るということを一切しなかった。みんなペンで帳面を削り取るように、見ては書き聞いては書きとやっているのに、存さんひとり手ぶらで「ふんふん、ははあ」という調子。

「あいつは何をしに来たのか」と陰口をたたく人も当然いたが、それでいて存さんの書く記事が一番正確、かつ分かりやすかったんだそうな。見聞きしたこと全てを瞬時にインプットして整理し、そして完全な形でアウトプットすることができる。そんな脳みその持ち主だったんだろうか、うらやましい。

 仕事上の能力という点だけでなく知識の蓄積という点でもすごかったらしい、この脳みそは。広く浅くどころではなく「学問的ドンファン」(川崎久一「小林存伝」)だから、何かに少しでも興味を持ったが最後徹底的に究め、それを繰り返して膨大な量の知識を蓄えるに至る。博覧強記は存さんの代名詞だったし、畑違いの人と飲んだって、やり込められるなんてことはまずなかったらしい。

「ドンファン」とはどういう意味か、と改めて調べてみたら「浮気者」「女たらし」と出てきた。さしずめ存さんは知識たらし、か。でもそれを武器に人をやり込めるなんてことはしなかった、どころか嫌いだったようで、


「(略)飲み屋でインテリぶった、キザな男に話しかけられると、一言も話すことなく、逃げ出し、他の飲み屋で飲み直しながら、乃公だいこう(一人称。「俺様」みたいな意味合いらしい。存さんはちょっとおどけてこんな言葉を使ったのだろう)は、ああいう奴は大嫌いだと、ブツブツ言っておられました。(略)」(小林存伝 P4)


 存さんの友達の息子さんで、幼い頃から彼を「おじさん」と呼び慕い、長じて俳人となった人がいた。戦後のある日、彼は存さんに呼び出されたので、行ってみたら存さんは彼を飲みに連れて行ってくれた。

 そのお金は、どこから出たのかというと。「存さんの脳はいったいどうなっているのか。さぞかし重たいことだろう」と興味を持った大学医学部の関係者が、失礼なのは承知の上で「亡くなったら解剖させてほしい。その目方を量らせてほしいのです」と申し出て、予約代といってはなんですが、と存さんにいくばくか包んで渡した。懐が温かくなった存さん、若者を呼び出して早速自分の脳みそを売ったお金で一杯やった、ということだったんだそうな。



 新潟新聞入社とほぼ同じ時期にお父さんになったし、烏啼うていと号して句作を始め、五七五調にとらわれない自由律俳句の先駆けとして名高い俳人河東かわひがし碧梧桐へきごとうと交流を持ったし、で記者時代の存さんは充実し楽しく過ごせていただろう。しかし、仁一郎に認められてから10年あまり、新潟新聞主筆を務めて8年が経った、大正元(1912)年の秋。

 存さんが勤めていた頃の新聞というのは、政党お抱えの機関紙としての一面もあった。政治がらみの争いから始まって、戦争が始まればそのスクープ合戦、はたまたスパイを使っての記事盗用や他紙関係者のバッシングまで起き、それらひとつひとつの騒ぎを巡って紙上での大バトルが繰り広げられ、というのが常だったらしい。

 そんな中で、存さんが金銭トラブルに巻き込まれるという騒動が起きた。空米(米架空取引?)疑惑に彼が一枚噛んでいるとされ警察に呼び出されたが、彼自身はシロだった、と後にはっきりした。今の何とかファンドみたいなもので、一般的に行われていたという米相場に存さんも興味を持った時期はあったらしいが、彼の脇の甘さにつけ込んだ誰かに利用されあらぬ疑いをかけられることになった。

 そこに県内のライバル紙がここを先途せんどとばかり食いついて、存さん個人に対するバッシングが起きた。

 それを受け、存さん不起訴を伝える記事が出た翌日の11月28日に「退社の辞」と題する長文が新潟新聞紙上に掲載された。この中で存さんは自身の不用心もあって今回の騒動が起きたことを認め、多くの人の信頼を裏切ったことを詫びたうえで、新潟新聞を去ることを表明する。

 文語体で書かれていたものをざっくりと訳し(ほぼ意訳という代物だと思いますが)、ポイントだけここに書き写してみた。


・今後新聞記者を続けていくとして、このややこしい世界で生きていけるかどうか自信がない。自由で楽しい面もあるが、人としてもっときちんと生きたい、というところで考えればこういう場にいるべきではない、という結論になる。

・政党機関紙でもある新潟新聞の記者を続ければ、これからも政敵だからというだけで相手を貶めるような文章を書き続けなければいけないだろう。それを受け入れて無駄飯を食らうなどという生活は耐えられない。

・メディアで自分の言い分とは違うことを報じられ、大変な思いをする人もいるだろう。そう思えばこんな仕事を続けるのは恥ずかしい、とさえ思える。

・ある者は、饗応きょうおうは受けても裏の頼みごとには応じないと言い、またある者はそういう頼みごとに応じれば報酬を受けるのは当然だろうと言い放ち、世間の感覚が分からぬのかと言わんばかりの顔をする。そして(そういう連中が)徒党を組んで私をこき下ろす。もう笑うしかない。


 人に利用されて大やけどしたこと、そのことがきっかけで袋叩きに遭ったこと。それらのことから、存さんが前々から感じていた疑問、「新聞記者の仕事(当時の)って、何なんだろう」という一言が形になって目の前に迫ってきて、それでやめるという結論になったのだろうか。

 世の中で働くほとんどの人が「そんなもんでしょ」「しょうがないよ」と飲み込んでしまっていること、そこから生じる疑問や怒りを腹の底に納めて苦笑いしながら生きていくこと。そこには偉いだの大したことないだの賢いだの馬鹿だの、そんなフィルターにかけた諸々ももれなくついてくる、上司にも部下にも、そして自分自身にも。でもそれが真実なのか、信じるに値するものなのかどうかが分かりづらい、そういう風にできているからなおさらややこしい。

 慣れれば「なかなか面白いもんだ」とさえ思えてきて、それらを楽しみながら世の中を渡っている人は実際多いのかもしれない。でも存さんは「俺、そういうの無理。じゃあね」ときびすを返した。その苦さ汚さを再認識し、何より彼自身がそのためにひどく傷ついただけでなく自身も傷つける側にいたと気づいた以上、留まることなどできないと判断したのだろう。


 予は従来全人類は相互に温情を以て立つきものなるを深く信じ新聞社に入りても殺人けんよりはむしろ活人劔となりて働き、あとう限り同情の手をもって社会及個人を扶持ふち救医きゅういするを期せり(略)予は玩愚がんぐいえども十年名節を砥砺しれいし天下の知己をあざむかざるを念とす。(「小林存伝」P294、原文ママ)

(私は元々、人というのはお互いあたたかい気持ちをもって接するものだ、と信じて生きてきた。新聞社に入ってからも、人を傷つけるより活かすようなやり方で働き、できる限り思いやりを忘れずに社会や個人の力になる存在でいよう、と頑張ってきた。((略))私はこれでも10年間、人を欺いたりなどせずに誠実な気持ちを持ち続けて働いてきた)


「新潟新聞退社の辞」は、こんな書き出しで始まる。存さんは生まれつきこういう人で、その後もこういう思いを曲げて生きたくはない、そのためにはどうすればいいんだろう、みたいなことを思ったんじゃないか。

 若い時に洪水の現場で見た古老のすごさ、新聞社で経験した人間の汚さ。例えば、先人の素晴らしさを教えてくれた地元に恩返しをしたい、と思ったところから歩みが始まっていたとして。たどり着いたのがすごく嫌な場所、だった。

 スタートからゴールまでの間にいろんなことがあっていろんな人と出会って、そんな中でも「何か違うな」と感じてしまうことは少なくなかっただろう。それは自分自身に対してもしかり、で、佐賀や新津でのある意味迷走といえる日々も含まれる。その後新聞記者として活躍したことで、これでいいんだと思えていた時期だってあっただろう。でも、そうじゃなかった。

 まず肩書きがすべてじゃないし(いい肩書きを手に入れた=出世や恩返し、だなんて冷静に考えればずいぶん短絡的な話だ。でも存さんはそんな勘違いをする人ではなかったはずだ、と思えてしまう)、やってることは半ば政治家の神輿みこし担ぎで、地元・故郷に貢献している要素なんて1ミリもなかった。そしてとうとう、存さんはトラブルに巻き込まれたのを機に新聞記者としての自分というものをすべて手放した。

 でも、すがすがしいような感もあったんじゃないか。リセットなんて言葉をあてがうとあまりに薄っぺらくなるけど、それに近い思い。

 先人の賢さに驚いたあの時に立ち戻って、彼らへの感謝・敬意を、自分の仕事、人生をとおして表現しよう。それを実現するにはどうすればいいのか、答えを改めて探す時が来たんだ、と。

 この時、存さんは35歳だった。

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