1 もしかあんにゃ、のち高等遊民。その時代のこと。

 私がいつの間にか勝手な親しみを込めて「ぞんさん」と呼んでいる人、民俗学者の小林ながろうさんという人は、仲間うちからは「ゾンさん」と呼ばれ、故郷横越に帰れば「ナガ様」と呼ばれていた。なぜ地元では様づけで呼ばれていたのかというと、彼の実家は明治維新まで新発田しばた藩横越島113ヶ村(現在の新潟市江南区ほぼ全域)を支配した大庄屋、だったからだ。普通の庄屋なら113ヶ村の中のひとつをまとめる家でそれだけでもすごいが、存さんの実家はそれ×113、だったというわけだ。明治10(1877)年、存さんはこの家に8人きょうだいの末っ子として生まれた。

 しかし自身の兄達は相次いで早世していたため、せめて彼には生き永らえてほしい、という願いから「ながろう」と名づけられ、「もしかあんにゃ」として大事に育てられた。もしかあんにゃ、というのは長男に生まれたわけではないがもしかするとあんにゃ(跡取り)になるかもしれない男子、という意味だ。

 横越には、大庄屋の家というのが2軒あった。存さんの実家である小林家と、そこに隣り合うようにしてあった建部たけべ家だ。この2軒が1ヶ月ごとの交代制で大庄屋の職を担っていた。普通はこの規模のまとまりになると大庄屋の他に村人たちの教育面を担当する(識者を招くなど学びの場のセッティングをする)役職があったが当地にはそれ専門の係を置かず、代わりに両家が両方の職を兼任するという独自のスタイルになっていたらしい。

 横越は「教育村」の異名をとるほど向学心の強い土地柄で、江戸時代には学者を呼んで庄屋宅に住んでもらい子弟の教育をしてもらった、お坊ちゃま達ばかりではなく百姓の子も等しく学ぶことができたそうだ。横越島を統治する新発田藩がそういう気風だったらしい。

 このもう1軒の大庄屋・建部家には、存さんの6歳年上で後に社会学者となり中央政界にも進出する建部遯吾とんご(1871~1945)という人がいた。彼は幼少時から神童の異名をとったが、明治維新を経て庄屋制が廃止され建部家が大庄屋から普通の家になってしまったため、進学を諦めて16歳の頃には姥ケ山うばがやま小学校や母校の横越小学校で代用教員として働き家計を助けていた。

 しかし彼を田舎教師で終わらせるのは惜しい、と考えた当時の横越小学校長が支援の手を差し伸べ、遯吾は17歳の時に上京し政治や理数などを学び始める。後に東京帝国大学を卒業し、ドイツに留学し近代日本の牽引者となるべく社会学の研鑽けんさんを積み、帰国して母校の教授に迎えられた。

 存さんだって負けてはいなかった。長じて東京専門学校(後の早稲田大学)文学科に進学し、坪内つぼうち逍遥しょうようから直々にシェークスピアの講義を受けたり後に詩人として名を成す蒲原かんばら有明ありあけと出会い同人誌を作ったりと、東京での学生生活を謳歌おうかする。存さんは最初期のみならず新潟県下でほぼ最初、の早大OBだ。教育村横越からは、同じ境遇に生まれ育ち同じ時代を生きた二人の大エリート、が出たわけだ。

 がっつり勉強して故郷に戻り、地域の指導者となるべく大いに活躍するのか、と思いきや。存さん、帰郷はしたがすぐには就職せず、今でいうニートみたいな日々をしばらく過ごした。

 高等遊民という言葉が流行ったのはいつ頃なのか分からないが、とりあえずこの時代なら、良家の子弟は東京のいい学校で学んで帰郷しそれなりの肩書を得て大威張り、という当たり前のコースがあった。座る席など半ば決まっているようなもので、故郷へ戻れば大威張りの日々が確約されるような話が向こうから転がってくる、みたいな時代だった。

 そういう流れには乗っからなかった存さんだが、その後、何を思ったか蒲原有明の紹介で佐賀に赴き、英語教師として教壇に立った。生徒と年が近かったせいかとても慕われたいい先生で、彼が亡くなった時には新聞で訃報を知ったかつての教え子が泣きの涙で綴った手紙を送ってきたそうだ。

 かと思えば2年ほど後に新潟に舞い戻り、今度は新津にいつの石油会社に就職。しかし「高志路こしじ」(存さんが後に作った郷土研究誌)の存さん追悼号の年譜によれば「山師にいじめられて」辞めてしまった、とあった。ご本人が生前そう語っていたらしい。

 これが本当なら新津もんの私としては100万回お詫びしてもまだ足りないが、不遇というかどうにもアカン人というか、そんな一時期が存さんにもあった。



 存さんのニート時代、明治29(1896)年に横越を洪水が襲った。同じ旧横越村にあり、村の南側を流れる小阿賀野川こあがのがわの氾濫にたびたび見舞われていた木津では既に堤防決壊が起きていた。これは江戸時代から大正時代まで13回起きた「木津切れ」のひとつに数えられる大水害だった。木津で決壊が起きれば、横越だけでなく近隣の亀田郷かめだごうと呼ばれる標高の低いエリア一帯に浸水が及び、また横越の阿賀野川あがのがわの堤防で同じことが起きれば被害はさらに大きくなる。

 存さん、すわ一大事と地元の破堤を防ぐべく阿賀野川のほとりに駆けつけたが、堤防内側のある場所にモグラか鼠が掘ったような小さな穴から水が勢いよく噴き出しているのを見つけた。「この穴を塞がなければ」と他の若い衆と大騒ぎしていたら、市村という老人が穴を見て「これはそのままにしておけ。周りに副堤防を作るのだ」と一同に命じた。

 図もないので私にちゃんと理解できているかどうかあやしいが、全部がちがちに固めてしまうと増水が続いた後どこかで必ず決壊が起きる、だから小規模な水の逃げ場を作っておけば破堤を防ぐことになり大規模な被害をこうむらずに済む、という意味だと思う。

 この理屈と同じことを、存さんは東京の学校で学んでいた。


「(略)水圧の平均の物理学上の原則も正にその通りで、現代の人達はよく科学的生活などといいたがるが、昔の村人はそんなことは別に言わないでもこの位の生活技術は身につけていたのである。編者は市村老人の期待に背きその後放浪の身となって村のために尽くしたことは何だってないのだから大いにはじ入るが、村の生活伝承のあり方のどういうものだったということはこの一つでも理解出来よう。(略)」(「横越村誌」P7)


 19歳の存さんがここで見たものは、横越の村人のリアル――うんと昔から受け継がれてきた知恵、常民の底力みたいなもの、だったんじゃないか。かつて我が家が先祖代々支配してきた人々にはこんなすごさ、賢さがあった。彼の家も建部家同様すでに庄屋家ではなかったものの、まだ家には余裕があり高等遊民を気どることができた存さんが初めて目にし、何かを強く感じさせてくれた光景、だったかもしれない。

 引用の中で「市村老人の期待」とあるのは、副堤防を作るくだりで老人が「あなたは将来村の指導階級となるべき方ですから今日の事態にかんがみよく記憶しておきなさい」と存さんを諭してくれたことを指すが、存さんはその後かなり違った方向、というか当時誰も歩いたことがなかったような道に進み始める。本人的にはかなりな寄り道だった、というところかもしれない。

 それでも、後に存さんがたどった道のりを考えれば。この出来事はずっとずっと胸に残っていた、彼のバックボーンになったといってもいいほどだったんじゃないか、と思えてくる。

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