パンダ
千石柳一
パンダ
我が家ではパンダを飼っていた。
といっても本物のパンダではない。けれどそれは極めてパンダのようなペットだった。
そのパンダは犬だった。品種はボストンテリアと言うらしい。しかしこのボストンテリアはずいぶんと丸かった。できそこないと言ってはかわいそうだが、ほかのボストンテリアのような体躯や顔つきを、いやむしろ犬のような体躯や顔つきをしていないのだ。確かにパンダ――ジャイアントパンダのほうだ――に近い。見れば見るほどパンダに見えてくる不思議さがその犬にある。そして見ていると気が抜ける。
九歳年下の妹はそのボストンテリアに「パンダ」という名をつけてかわいがっていた。かわいがるのはいいが、パンダはどう思っているのだろう。私だって一応人間なのに、おいインパラ、などと誰かに呼ばれたとしたら、それがどんなに近しい人間の冗談であっても決して喜びはしないだろう。
私はパンダのいる動物園に行ったことがなかったので、パンダに抱いているイメージは竹を食べるか寝ているかのどちらかしかないのだが、どうもこいつはパンダではないくせにパンダらしいのだ。私が持っているパンダのイメージとほとんど同じようにこいつは振舞う。竹を食べたりはしないが、なぜか海苔を食べる。ほかにもいろいろ食べる。ドッグフードが主食であることに変わりはないのだが、なぜか本物のパンダのように雑食なのだ。
いつだったか私がとても遅く家に帰って、寝静まった家族を起こさないように静かに一人で晩酌をしているとき、私は酒のつまみに銀杏を食べていた。たまには銀杏もいいなと思っていると、このパンダはいつの間にか私の足元、椅子の横に現れ、物欲しそうにちょうど私の箸に刺さっている銀杏を眺めていたのだ。
ためしに銀杏を顔の近くまで持っていくと今にも食いつきそうに首を伸ばしてきた。銀杏は食べ過ぎると中毒を起こすことがあるため少し不安だったのだが、私は小さく切ったものを自分の右掌に置いて再度パンダの顔の近くへ持っていくと、彼は何の迷いもなく食べてしまった。そうそう、そのパンダはオスだったのだ。
食べ終わると、もっとよこせとばかりに私を見上げる。子供でも銀杏を七粒食べると危ないと母に聞かされていたことをその時思い出し、少し迷ったが結局二粒分与えてしまった。その後どうしたかというとどうもしない。パンダは何日経ってもいつもと同じように食べるか寝ているかだったのだ。
犬らしくなくてパンダらしいことと言えばもうひとつ、このパンダは滅多に散歩に行かないのだ。妹がパンダにリードをつけ散歩に連れて行こうとしても、パンダはかたくなに抵抗する。ようやく家から出ても、家のそばの電柱にしがみついたかと思うと動かないのだ。やがて妹はあきらめてパンダと一緒に家に戻ると、リードを外され自由になったパンダは真っ先にお気に入りのクッションの上で寝転がるのだ。それがいつもの散歩だった。というより彼は自分の意志では外を一歩も歩いていないのではないか。
というわけで、こいつは本当にパンダらしい犬だ。ある意味本物のパンダたちと一緒に暮らしていたとしても仲良く暮らせるのではないだろうか。まあ、パンダは小型哺乳類も食するというから無理かもしれないが。
犬もパンダも同じ哺乳網ネコ目というところまでは同じだし、実際に私もそいつがだんだん犬よりパンダに見えてきたので、「パン公」などと呼ぶようになった。流石にパンダのままなのはかわいそうだから少しだけ変えてみたのだが、パンダは呼ばれると嬉しそうに尻尾を振ってこちらに向かってくるのだ。だが銀杏はあれきりあげていない。体の中にまだ銀杏の毒がたまっているのかもわからず、次に中毒を起こしたら大変だからである。
そもそもこのパンダはどういう経緯で我が家にやってきたのかも、だいぶ前のことなのでよく覚えていないのだが金を出して手に入れたのではないことだけは私の頭の中ではっきりしている。最近のペットは下手なパソコンより高い。ペットのためにそんな大金を出すなど私が絶対に許すはずがないからだ。拾ったか貰ったかのどちらかだと思う。
そんな風にパンダがすっかり家族の一員と化した中で私は結婚し、しばらくは妻も私たちの家に住んでいたが流石にこれで子供が生まれたら家は一気に狭くなるだろうと思い、結婚二年目で私と妻は家を離れ東京に住むことにした。家には大学生の妹と老いた両親とパンダが残され、狭いはずの家は広くなったと後で妹から聞かされた。
不思議なことにこのパンダは私と妻がいなくなることを知っていたかのように、引越しの準備を進めている中、私や妻によくなついた。そして引っ越す二日ほど前、妹がいつものように無駄と分かっていながらもパンダを散歩に連れて行こうとしていた。私はこのあたりの景色もしばらく見られなくなるだろうと思い、妹たちと一緒に外へ出た。するとパンダは、今まで抵抗していたのが嘘のように自分から歩き出し、私と妹はあわてて後を追った。これも後で妹から聞かされたことなのだが、パンダが散歩をしたのは生涯あのとき一度きりだという。
引っ越す準備がすべて終わり家族に見送られるとき、パンダも妹の腕の中にいた。彼のさみしそうな顔は不思議と私の胸を打った。パンダは腕を妹に無理やり振らされていて、それが私の最後に見たパンダの姿だった。
私と妻が新生活を始めて、やがて私たちの間に子供が生まれると、それと入れ替わるかのようにパンダが死んだと母親から電話で聞かされた。私はパンダの年齢は覚えていなかったが、老衰らしくずいぶんと長生きしたらしい。
パンダは実家からやや遠くにあるペット専門の寺で葬儀された。私もそのときたまたま仕事が忙しくなかったので立ち会った。位牌にパンダちゃんと書いてあるところがなんとも気が抜ける。まさにうちのパンダらしい。妹は二日くらい号泣していたと聞くが、流石に今日この時は落ち着いていた。たまにすすり泣いていたが。
さらに数年後、子供がすくすく育ち、あるとき私は妻と子供と三人で動物園に行った。そこで初めて私は本物のパンダを見たのだが、妙なことに、どうもそいつはパンダのくせにパンダらしくないのだ。
私はなんとなく思い立って、柵越しに、おいパン公と呼んでみた。するとパンダはのそっと起き上り、黒い部分にある黒い瞳でじっと私を見つめてきた。
そのまなざしは、パンダの――うちにいたあの犬のものによく似ていて。
私はその時、妙に納得した。
ああ、やっぱりあいつはパンダだったのだと。
パンダ 千石柳一 @sengoku-ryu1
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