Ep.8 HARUNA 6
〈ハルナ、拳銃を拾え!〉
ローレンスが急きこんでささやきかける。身体のコントロールは、いったんあたしにまかせるってことだろう。
〈いや。こいつに背中を見せたら、それこそその瞬間におしまいだよ〉
あたしがためらいもなく迎撃の構えに入るのを見ると、男はキッと口の端をつりあげて不気味に笑った。
「見上げた根性だが、それを身の程知らずとも言うな。この私に勝てると思うのか……」
言いながら階段を降りてくると、いきなり鋭い手刀を放った。
とっさに首をすくめてかわしたが、なんとパーカーのフードのひもがスッパリ千切られた。
とんでもない技のキレに、あたしはあらがいようのない恐怖を感じた。
男にはこちらの出方をうかがおうとする気配すらなく、肘を左右に張った拝むような奇妙なポーズから、まるで殺人マシーンのようにつぎつぎ技をくり出してくる。
だけど、なぜかあたしにはさほど鋭い動きには感じられない。ローレンスが身体能力をアップしてくれたっていうのは、こういうことだったのだ。
肘や掌底で的確に受け止め、スキをついて急所にすばやく攻撃を加える。狭くて暗い階段という場所も相手の力を制限し、下段にいるあたしの不利をおぎなってくれた。
「せやっ」
男が前のめりにバランスを崩したところを見すまし、あたしは足首を取って一気に投げ飛ばした。
男は壁にじゃまされて体勢を持ち直せず、頭から踏み段を転げ落ちていった。
あたしは荒い息を吐きながら闇の底に眼を凝らした。男の靴の裏側がかろうじて見える。気絶したか、負傷して動けなくなったにちがいない。
〈おみごと! そうか、空手をやってたんだったな。自分の身体だし、やっぱりきみのほうが動きがいい。私は指示だけ出すことにするよ〉
〈わかった。でも、どうする? ドアは頑丈なバリケードでふさがれてて、簡単には外に出られそうもないよ〉
〈エルザハイツ内部への扉がある。そっちなら行けるかもしれない〉
自由なうえに力の倍増したあたしは、軽やかに階段を駆け上がった。
ローレンスの言うとおり、もう一つのドアからはすんなり出られた。小男の判断で、いざというときの脱出口に残してあったにちがいない。
〈こっちを小娘とあなどって油断してくれたのも幸いしたが、それにしてもみごとに倒したな。あいつは、双極拳という秘技の使い手で、陽の座の姉小路とペアをなす陰の座だったはずだ。たしか、三〇年前の事件では、水谷がやっとのことで倒したという手強い相手だ〉
寮が閉鎖されて何年も経つ無人のエルザハイツの中を進みながら、ローレンスが言った。
〈だったら、そいつは最後の戦いの最中にママを拉致して襲おうとしたやつだよ。パパが現れて助けてくれなかったらどうなってたかわからないって言ってた。それがきっかけでパパがみんなと協力して戦うことになったし、二人のなれそめでもあったんだ〉
〈じゃ、三〇年ぶりにチクリンママの仇討ちをしたわけか。えらいぞ〉
ローレンスは嬉しそうに言いながら、手すりに優美な彫刻が施された階段を昇っていく。
〈どこに行くんだ?〉
〈戦況がどうなっているかを見届けずに、やみくもに逃げるわけにはいかないだろう。今の話でちょうどいい場所を思い出した〉
ローレンスは四階の突き当たりのドアを開けた。
ママが聖エルザの編入試験を受けるために上京したとき、付き添い役を引き受けてくれたおふくろといっしょに泊まった部屋だという。ローレンスはそんなことまで憶えていたのだ。
ローレンスはためらいもなく奥へ進み、引き上げ式の窓を開いた。
レンガ塀をへだてて真下に温室が見える。屋根は半分以上壊れて白い気体が漂い出していた。
これだけの騒ぎが起こり、まだ何かがぶつかり合う音に混じってうめき声も聞こえたりするというのに、こちら側に面しているマンションのベランダには、様子をうかがおうとするような人影がまったくない。
〈たぶん、例の可愛らしい顧問弁護士が、火事とかガス漏れとかもっともらしい理由をつけて、あらかじめ住人を避難させといたんだろう〉
なるほど。さすがにパパたちのやることはソツがない。下の騒ぎも鎮静化しつつあるようだけど、煙がもうすこし晴れてくれないとよくわからない。
様子がわかるのを待つ間、ローレンスがあらたまった口調で切り出した。
「さっきの記憶を見てわかっただろう。学園で起こったある事件の調査に乗り出した姫は、その背後に私がいるのを鋭く突き止めた。大事なのは、彼女の鮮やかな推理でも、私がついに尻尾をつかまれてしまったことでもない。それをきっかけに、私と姫が間近に接するようになったことだ。時や状況は関係なかった。人間と人間の運命的なめぐり合いってことだよ」
「だから音も色も必要なかったんだね」
「そういうこと。彼女が人並みはずれて優れた人間だってことは、三〇年前の事件で痛いほど思い知らされていたが、何度も密会のような尋問を重ねるにつれ、自分が姫という女性にどうしようもなく惹かれていっていることを知ったんだ」
やっぱりそうだったのだ。
「姫のほうはといえば、私の不可解な動機をどうにか理解しようとして、しだいに私の途方もない生きざまに強い興味を持つようになった。私ももはや隠しだてする気はなかった。私の信じがたい能力や体験が聡明な理解者を得たことは、このうえない喜びだったよ」
そこでローレンスはちょっと言葉を切り、さもおかしそうに笑った。
「だけど、彼女はひどくウブでね。おたがいを結びつけているのが恋愛感情だってことに、なかなか気づかなかったんだよ。あくまでも知的な好奇心だと思い込んでいたんだ。私がほのめかすように誘いかけるサインにも、ニコニコと的はずれな笑顔で応えるばかりでね」
何でも冷静に鋭く見通す姫にも、思いがけないほど人間的な側面があったのだ。ローレンスはきっと、そういうところにも強く惹かれたにちがいない。
「ところが、私の来歴を理解するために二人して記憶の旅を重ねるにつれ、彼女も自分たちが恋人同士としてデートしているのだと気づきはじめた。きみも連れてってあげたけど、あれはほんの一部でしかない。姫とはあの何倍もの素晴らしい旅をしたんだよ」
「そうか……あんなに素敵なデートは、ほかのだれにも真似できないよ」
一安心したってこともあるけど、いつのまにかあたしたちは声を出して話していた。
ローレンスもあたしの口を借りて話しているから、はためから見たらきっと奇妙な光景だろう。だけど、二人きりならそのほうがずっと気持ちを自然に表現できた。
「ローレンスの人格があまり長く一人の人間の中にとどまるのは危険だと言ったよね。私は、姫のためにそれを覚悟のうえで、一五年以上にもわたって同じ人間――彼女が愛した先代のローレンスの姿でいつづけた。そして、姫の相談に乗り、いくつもの事件を彼女に望まれるままに解決してきたし、姫の母上を迎えに行き、滝沢礼子の捜索もしたんだ」
一五年……あたしの年齢とほぼ同じだ。それがどれくらい長い時間かは理解できる。
「姫が亡くなったとき、私も先代のローレンスのままでいることに限界が来ていることを痛感した。もうあの身体にとどまっている必然性もない。自分のすべてを無理やり引きはがすようにして、まったく新たに聖エルザの男子生徒へと転移したんだ」
「あの人が脱けガラみたいになっちゃったのは、そのせいだったんだね……」
「ああ。だから、きみはもうファーストキスを奪われたなんて悩まなくていいんだよ」
「え……どういう意味?」
「だって、娘とキスするくらい当然のことじゃないか。日本ではまだそういう愛情表現は浸透していないかもしれないが」
「て……てことは、もしかしてあんたが……あたしの父親だっていうのか? そ、それって……つまり、あ、あたしの本当の母親は――」
「そうさ。もうとっくにわかってると思っていたよ。姫――白雪和子こそ、ハルナ――きみを産んだ母親なんだ」
あたしはいきなり、今まででまちがいなく最大の驚きに直面していた――!
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