Epilogue
A Girl's Monologue for Epilogue ―― ある少女のモノローグ
(ここが、踏んばりどころだ……)
あたしは、ひたいに流れる汗を手のひらで払うようにぬぐいながらつぶやいた。
左手に市ヶ谷のお濠、真っ正面にエルザタワーがそびえているのが見える。たった今三八キロ地点を通過したところだ。残すはあと四キロと少し……。
そう――
あたしは今、東京オリンピックの女子マラソンを走っている。
数か月前まで、あたしは代表候補の候補でさえなかった。にわかに雲行きが変わったのは、アフリカの無名の少女がたてつづけに世界最高記録を塗り替えたことがきっかけだった。
少女は一四歳。成長過程の年少者にフルマラソンは過酷すぎるからと、多くのレースには年齢制限が設けられている。
しかし、世界記録を持つ者を最高の舞台に立たせてやらないのはおかしいと、さまざまな国々で年齢制限の撤廃を求める声が日に日に高まっていった。日本でも署名運動にまで発展し、驚くほど多くの人々がそれに賛同した。
盛んな議論の末、開催国の日本をはじめ、アメリカやヨーロッパなどの数か所で、年齢制限以下の選手を対象とした国籍を問わない特別選考レースが行われることになった。
オリンピック出場標準記録をクリアした選手にはその全員に出場資格が認められ、すでに代表が決定済みの国でも、特別枠ということで追加の参加が許可されることになったのだ。
あたしはその緊急の選考レースに出場するチャンスを得て、代表内定者を上回る成績を上げた。そして、晴れて念願のオリンピックへの出場が認められたのだった。
だけど、真夏のマラソンなんて初めての経験だし、場数を踏んでいる大人のランナーたちの駆け引きにも翻弄されて、ここまで思うようなレース運びができていなかった。
(あたしの前に、たぶんまだ二〇人はいるだろう。どうやらぶっちぎりで独走している者はいないようだけど……)
あたしは歯をくいしばった。
「ハルナぁ!」
「ハルナちゃーん!」
左右の沿道からいきなり聞き慣れた声が同時に聞こえてきた。
見ると、若松父さんとミホ母さんがそれぞれの観戦者の人並みのむこうを走っていた。
でも、伴走は禁じられているから、いくらも行かないうちに二人はそれぞれ係員に制止されてしまった。
すると、つぎにあたしの名前を呼びながら走りだしたのは、キャティとマツオカ、またそのつぎはチクリンママとシンイチロー(かヤスジロー)、つぎは水谷パパと伊勢さん……という具合に、どんどん応援がリレーされていく。
(な、泣いちゃダメだ!)
あたしは必死に涙をこらえた。
エルザタワーが見えなくなる寸前で走りだしたのが、おふくろとオヤジの二人だった。
「ハルナ、ボクはオトシマエのところにもどるよ!」
係員に取り押さえられてもがきながら、オヤジが必死に叫ぶ。
それに呼応するように、おふくろの叫び声も聞こえた。
「赤飯炊いて、二人で待ってるからな!」
と、そのとき、頭の中でもう一つの声が――
〈思い出すんだ、ハルナ、あの力を発揮したときの感覚を。私は何もしてやれないし、きみだってしてもらう気などないだろう。ただ、言ってやれることがあるとすれば、それは、きみが〝恋文屋ローレンス〟の娘だということだ〉
〈ローレンス……お父さん!〉
〈想像しろ。想像力をパワーに変えるんだ。きみにはそれができるはずだ。ローレンスの娘になら……〉
本当に聞こえたんだろうか?
もし聞こえたのだとしたら、それはたぶん、いざってときに再生されるように仕掛けられた残留思念というようなものだったのかもしれない。いくら呼びかけても応えないし、プツンと途切れ、それっきりもう聞こえなくなった。
だけど、どういうことだろう。
気がつくと、先行していたランナーたちがまるで後ろ向きに足踏みしているかのようにつぎつぎとあたしに接近してきていた。
いや、ちがう。あたしのほうが、彼女たちとはまったく別の空間を進んでいるかのように、ありえない速さで駆けているのだ。ランナーたちの姿が横に並んだと思うと、たちまち後方に遠ざかっていく。
風になったように身体が軽く、足に来はじめていた疲労もウソのように消えている。
一度も姿を見つけられなかったアフリカの少女の背中をようやく視界にとらえたとき、また別の、こんどは女の人の声が聞こえてきた。
〈あなたは、私たちの間に生まれた唯一の娘。だから唯一の希望――などとは思わない……〉
落ち着きはらった深いつぶやき。
そう、それはきっと――
聖エルザ Anniversary〈記念日〉 完
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