Ep.8 HARUNA 3

 記憶のドアをくぐって見えてきたのは、夜の聖エルザの構内だった。

 ところが、どうも何か違和感がある。しかも、あたしたちがいるのは、楕円形の体育館・オーバルホールの高いギャラリーの窓辺だった。


「なんか変な雰囲気だよ。あたしがまだ聖エルザになじんでないからかなあ……」

「もうすぐわかるよ」

 ローレンスがかすかにふくみ笑いしながら言った。


 すると――

 カーブを描く体育館の壁面のすぐ横を、セミロングの髪を振り乱して全速力で駆けてくる少女がいた。その後方には、ただならぬ形相の数人の男女の姿が見える。

「た、滝沢礼子……それに、追ってるのは、おふくろやママたちだ!」


「そのとおり。ほら、むこうをごらん」

 ローレンスが指さしたのは、パパとママが建てたログハウスがあるはずの場所。

「な、なあに、あれ……?」

 夜の闇の中に黒くうずくまるように建っているのは、朽ちるままに放置された古めかしい木造建築だった。


「旧講堂さ。三〇年前にももう荒れ果てていた。滝沢はあそこに逃げ込み、クルセイダーズの追跡からまんまと逃走に成功するんだ。彼女が利用するのは、今は水谷たちが『聖エルザ防衛軍』とかいう組織の基地として改造した地下通路なんだよ」

 ローレンスが防衛軍基地の存在を知っていることにはもうさほど驚かなかったけど、それでようやく、あたしがまだローレンスの記憶の中にいることに気づいた。


 さらにローレンスが見せてくれたのは、敵の手先として学園に送り込まれた水谷パパとおふくろオトシマエが対決する手に汗握るシーン、ミホ母さんがキャティや双子と懸命になって生徒総会開催のための署名集めに励んでいるところや、その生徒総会での驚くべき逆転劇など、彼が目撃してきた三〇年前の場面の数々だった。


 話にだけ聞いていたのとではやっぱり雲泥の差がある。

 あたしは、ごくふつうの高校生が一人の例外もなく真剣に戦う姿をありありと眼にすることができた。あの日々があったからこそ、今も彼らが強い絆で結ばれていることの理由が理解できる。彼らにとって、まちがいなく全員でくぐり抜けた〝通過儀礼〟だったのだ。


 そして最後はやっぱり、強制夏合宿最終日の壮大な仮装パーティ。

 ローレンスは、姫と『若』の息づまる論戦や、学園の正統な後継者〝えるざ〟の名乗りを上げるミホ母さんの神々しい姿を、遮光カーテンの裏にひそんで悠然と見物していた。


 姫の展開する論理に対して、滝沢こそ本物の〝えるざ〟だと真っ向から主張する『若』の理屈が打ち砕かれると、ローレンスは「ちぇっ」と小さく舌打ちした。今でもそれがトラウマになっているのかもしれないが、すぐにさも愉快そうな笑いの気配に変わった。

「これが三〇年前の大騒動の顛末さ。残るのは、姫についに私の存在が突き止められてしまった件だけど……」


 と、ローレンスが言いかけたとき――

 あたしは横っ腹に強烈な衝撃を受けるのを感じた。

(な、なんだいったい? あたしに何が……起こったんだ!)


 ひどい苦痛に身をよじりながら、あたしは強引に現実世界へと引きもどされた。

「眼を覚ませ、このガキ!」

 ぼんやり見えてきた尊大そうな男の顔にはどこか見憶えがあった。

 ローレンスとの記憶の旅の最後に目撃した、生意気で才気に満ち、過剰な自信に輝いていた若者の相貌が、ふとそこに二重写しになる。

(そうか。こいつこそ……)


「ぼくの名前くらい聞いたことがあるだろう。おまえの――何人いるんだか知らないが、親だと称するやつらの最大の宿敵さ。そう、姉小路征司郎だよ――」

 なんと、あたしの前に立ちはだかっている長身の男は、『若』だったのだ。

 シャレた三つぞろいの白いスーツなんか着込み、鬼面のように口の端を凶悪に吊り上げて笑っている。


「この女を泳がせといて成功だった。恐るべきはバケモノ女の執念ていうやつかな。ご苦労にも、わざわざ我々をここに案内してくれたよ」

『若』が床に横たわる女を邪険に蹴りつけた。

 ミス・ランドルフは恨めしそうに『若』をにらみつけるが、彼は気にするそぶりすら見せない。彼女はあたしが結束バンドで縛ったときのままの状態で、しかも声を上げられないように口に粘着テープまで貼られて転がされていた。


 ローレンスが言ったとおり、気を失ってからそれほど時間が経っていない証拠に、ロウソクはまだ十分に燃え残っている。

 あたしが拘束されているのは、最初から座っていたほうのソファだ。

(てことは……)

 あたしは、『若』に蹴りつけられた痛みでまだ思うように動かせない身体をなんとかひねって横を見た。

 そこにはやっぱり、ローレンスが長い手足を投げ出すようにして倒れていた。


 胸が赤く染まっているのも、ソファが大量の血にまみれているのも前と同じだ。

(ローレンスは、あたしに心配させまいとして、シャツは新しいのに着替えたとか、自分は不死身だとか言って強がっていたんだ)

 ヴェルサイユ宮殿に通じていたドアのほうは、壁面から跡形もなく消えている。つまり、もうあの時点で、ローレンスの記憶というか、思考の中に連れ込まれていたのだ。


 あたしを心配させまいと無傷のふりをしていたにしても、あんなに長い記憶の旅に連れて行ってくれたんだから、ローレンスの精神はまだ生きているにちがいない。でも、現実の彼の身体はピクリとも動かない。このまま放っておけば彼の命はいくらも持たないだろう。


『若』はそんなローレンスにはもう関心をはらわず、しきりに窓のほうばかり気にしている。周りには、何人もの黒服がものものしい拳銃やライフルを手にうろついていた。『絵画の間』は静謐な廃墟のたたずまいから一変し、戦場のような緊張感に満たされている。


 階段ホールから急いで上がってきた背の曲がった奇妙な小男が報告する。

「『若』、エルザハイツに通じる通路を発見しました。建物の外壁に面した物置のドアから出られるようになっています。それと、だいぶボケた老女を拘束しました」

 そうか。こいつは、三〇年前にも『若』の右腕となって暗躍していた男だ。

「では、人員はその通路と庭に配置しろ。やつらはどちらかから突入してくるしかない。待ち伏せするほうが有利にきまっている。外に戦闘の気配がもれては、公安に察知される恐れもあるからな」

「はっ」


「『恋文屋ローレンス』という名は、何代にもわたって同類のふざけたやつらによって受け継がれてきたにちがいない。ランドルフが撃ち殺したこの若造が、現代の恋文屋ローレンスだったってことだろう。私の手で殺せなかったのは返すがえすも残念だし、聞き出せずに終わってしまったこともあるが、もうしかたあるまい。ババアは元いた部屋に閉じ込めとけ。人質はこの娘だけで十分だ」

『若』は、あたしの救助に駆けつけてくるパパたちを迎え撃つつもりなのだ。


 キャティが、自分と公安の伊勢以外の空手部は全員、緊急事態に備えて秘密基地に泊まり込んでいると言っていた。超小型通信機が床に踏みつぶされて砕けているのが見える。こっちから助けを求めることはできないけど、そのうちヤスジローが通信がつながらないのに気づいてあたしの今夜の行動を打ち明ければ、パパたちはそろって駆けつけてくるにちがいない。


(でも、それじゃ手遅れになってしまうかも……)

 ローレンスのほうにまた眼をやる。半開きの眼にはもう光がない。ボタンダウンのシャツを毒々しく染めた血も乾きかけている。ほんとにまだ生きているんだろうか?

 ……と考えてきて、あたしはハッと気づいた。

(じ、じゃあ、あたしと旅に出たローレンスは、いったいどこにいたんだ……?)


 そのとき――

〈やっとわかったようだね〉

 どこからかローレンスの声が聞こえた。

「ロ、ロー……」

〈シッ。声を出すんじゃない。しゃべらなくても、きみが考えることは全部筒抜けだから〉


〈もしかしたら、あたしの……中にいるのか?〉

〈そういうこと。きみにキスしてもらったのは、この世のお別れに、なんていうセンチメンタルな理由じゃない。きみに転移するためだったのさ〉

 なんてことだ。ローレンスは、あたしの中に逃げ込むことで生き延びていたんだ!


〈ごめん。こうするしか方法がなかったんだ。でも、そのおかげで私も久々に楽しい旅ができた。きみが失望したように、たしかにあれは夢みたいなものだ。しかし、共有した相手がいるんだから、それは事実以外の何物でもない。そうだろ?〉

〈そうか……たしかにそうかもしれない。だけど、あんたはもうすぐあたしの身体を乗っ取ってしまうんだろ。そしたら、あたしの人格は消えてなくなっちゃうんじゃないの?〉

 あたしは、『若』に不審に思われていないかちらりと見やり、心の中で質問した。


〈このままでは緊急事態に対処できないから、ほんとは完全に脳を支配してしまうのが手っ取り早いんだがね。私ときみがなんとか共存する工夫を今してるとこさ。……そうだ、水谷たちが突入してくるまでにはまだいくらか時間があるだろう。姉小路にじゃまされて伝えきれなかったことを、今のうちに見せてあげよう。きみがここにもどってきた目的は、あくまでもそれだったんだからね〉


 ローレンスがそう言うと、こんな危機的な状態におかれているというのに、あたしは意識がまたやすやすと遠くへとさらわれていくのを感じた――。

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