Ep.8 HARUNA 2

 それを皮切りに、あたしとローレンスは、ヨーロッパ中にまたがる、そして何百年にもわたる彼の遍歴の断片を、つぎつぎとたどっていった。


 なんだか妙に人間臭い哲学者ルソーは、エミールという息子のやんちゃぶりばかり嬉しそうに話していた。後でローレンスに聞くと、なんとその子は、ルソーが『エミール』という教育論の本を書くためにでっち上げた架空のキャラだったのだという。


 前に名前を聞いたレオナルド・ダ・ヴィンチやフェルメール、デカルトといった人物とも、もちろん会った。あたしが理解したのは、天才たちというのは、頭がいいのはあたりまえだけど、何かを無性に面白がる人間なのだということだった。それが、だれにも真似できない斬新な作品や独創的な思想につながっていくのが実感としてわかった。


 驚くほど多方面の分野に強い関心を抱いていたダ・ヴィンチは、ローレンスが人格転移できると知ると、「私に転移してアイデアのすべてを受け継ぎ、ぜひ実現してくれ」と真剣な顔で懇願した。

 ローレンスはそうする代わりに彼の頭に手を当て、脳に何か作用するような刺激を与えてやっていた。


「これで彼は、一般人の何倍も頭脳を使いこなせるようになったのさ」

 と、ローレンスは得意そうに言った。

 シンイチローとヤスジローに施したのも同じような技だったという。大学入試の受験勉強ていどなら、ほんのちょっと感能力を高めてやるだけでよかったのだ。



 偉人や天才に会っただけではない。『動物の部屋』とか『音楽の部屋』とか『絶景の部屋』なんてものにも寄り道した。

 例えば、ワーグナーの歌劇『ニーベルングの指輪』は、全曲演奏するのに一五時間もかかるというシロモノだが、ローレンスは最初から最後まで完璧な記憶を保存していると言った。

 いやはや……とてもついていけない。あたしはローリング・ストーンズの六〇年代のワイルドで緊張感に満ちた録音風景を観せてもらっただけで十分に満足した。


『絶景の部屋』では、春のオランダに連れて行き、見渡すかぎりのチューリップ畑の中を、点在する大きな風車を眺めながら散歩させてくれた。

 夏のアルプスでは、白い綿毛みたいに羊が点々と草を食んでいる斜面の牧草地に横たわり、ゆっくりひなたぼっこした。


「ねえ。これだけたくさんのすごい人々やさまざまな景色に出会えるなんて、転移できるって最高だね。しかも、人生のつらい境遇を嘆く必要はないし、いつも自分好みの年齢でいられるんだし」

「そうかなあ……」

 万年雪に白く輝くユングフラウを見やり、ローレンスは沈んだ声でポツリと言った。


「私はたしかに人のあらゆる基準を超えた存在だ。貧富も名誉も関係ない。死の恐怖すらない。だけど、それは欠落でもあるんだ」

「どういうこと?」

「いちばんわかりやすいのは、同情する、共感することができないってことだろう。私の身体も身分もつねに仮のものでしかない。一回限りの人生を生きる人間が抱える苦しみや悲しみや喜びといったものは、私とは無縁なものなのだ。もちろん、私にも感情はある。だが、それはまったく別の性質のものなのだよ。わかるかい?」


 あたしはコクンと小さくうなずいた。同じ感情を共有することができないってことは、たしかに人間としての決定的な欠落だ。それは絶対の孤独を意味するだろう。

「私の心が強く反応するのは、〝面白さ〟とか〝美しさ〟といったものに対してだけなのだ。どちらも、大部分の人間にとって一時的に心惹かれることはあっても、いちばん軽視されがちなものさ。私だってちゃんと生きている人間なのだから、あらゆる感情を持っているはずだ。なのに、もうこの数百年涙を流したことがない……」

「ほんとか?」

 横でローレンスがうなずく気配がした。


 一点の曇りもなかった空から雪が舞いはじめ、たちまち猛吹雪に変わった。世界は灰色の雪雲の中に憂鬱に閉ざされていく。どこからかまぎれ込んだ雪山の記憶なのにちがいないが、風景にも感情があるのだと、あたしは初めて思った――。


 気を取りなおすように空中に別のドアを出現させ、ローレンスは言った。

「私にも、うまくいかなかった例がいくつもある。そういうのも見せておこう」

 それは二〇世紀に入ってからの事件だった。


 あたしたちが訪れたのは、ロシア帝国の酷寒の首都ペテルブルク。

 ローレンスは、『怪僧ラスプーチン』と呼ばれる見るからに怪しげな人物に身をやつしていた。彼は祈祷で皇太子の病気を治したことでロマノフ王家へ巧みに入り込み、皇后と五人の子どもをたぶらかし、国政にも悪影響を与えた極悪人とされて暗殺された。


 だけど、ローレンスによれば真相は違う。

 王朝に復活されてはまずい新政権によって、一家は全員が命を狙われていた。彼がラスプーチンになったのは、革命の動乱の中から王家の罪のない子どもたちを救い、国外へ逃亡させようとしたからだった。

「もちろん、私は殺される寸前にとっさに別人に転移して逃げのびたから、今もこうしていられる。その後も監視役の軍の将校などになりすましてロマノフ家を守っていたのだが、革命が終結してもう安全だろうと油断が生じた。その翌年、一家は惨殺されてしまったのだ」


「ひどい話だね。王朝が復活するなんて見込みはなかったんだろ?」

 ローレンスは悲しそうにうなずいた。

「私はあの子たちが好きだった。とくに末娘のアナスタシアがね。きみとよく似ていたな」

「どんな娘だったんだ?」

「可愛らしくて、そして札つきのオテンバだったよ」


 ちなみに、あたしが『音楽の部屋』で見たのは、ローレンスがその後ロシアのブルガーコフという作家に自分の秘密と体験を教え、それを翻案して作家が書いた小説から、こんどはストーンズのミック・ジャガーがインスパイアされて作ったといういわくつきの曲『悪魔を憐れむ歌』のレコーディング風景だった。


 もちろん、ミックに小説を読ませ、曲のイメージを植えつけたのもローレンスだった。

 世界的に学生運動をはじめとする革命の機運が高まり、ベトナム戦争が泥沼化するなど不穏な空気に包まれていた当時に、ローレンスはわざわざイギリスまで出かけていって若者たちの感情をあおるようなたくらみをしていたのだ。

 あんなに悪魔的で不気味な曲は、あたしは今まで聞いたことがない。アナスタシアが殺される恐ろしい場面もその中で歌われていた。(だけど、最高にカッコよかった!)


 ローレンスとあたしはその後、フィレンツェに住んでいたイギリス人作家のD・H・ローレンスの元を訪れた。

 彼はそれ以前にイギリスでその作家と知り合っていた。作家は、領主の妻と森番の男の恋愛を通してイギリス社会の厳格な身分制度を批判する作品を書いた。ローレンス(恋文屋のほう)は、もっと大胆な性描写を取り入れれば革新的な作品として大衆受けし、その成功が主張を後押ししてくれるはずだと力を込めてアドバイスする。


「ところが、出版された作品はワイセツ文書とされ、やむなく大幅にカットされた修正版を出さざるをえなくなった。ようやく無修正版が出た三〇年後にも裁判ざたになった。私は偉大な才能を一つ殺してしまったのだ……」

 彼が『恋文屋ローレンス』と名乗るのは、だから意外にも、作家ローレンスに対する深い悔恨の気持ちを込めたものだったのだ。


「さて、そろそろ日本にもどろうか」

「そういえばもう一週間以上も旅してるよ。なのに、一回も寝てないし、食事もぜんぜんしていない」

「いいや。現実の時間は、まだ一〇分も経ってないはずだ。ほら、いくら長い夢でも、実際には眼が覚める直前の数分間に見たものだというだろう。あれと同じことさ」

「ほ、ほんとか……?」


 不思議なことにはもう慣れっこになっていたけど、それはいちばんショックだった。

 記憶という異世界めぐりを長く共にしてきて、あたしはローレンスという人間がいかにとてつもない存在なのかを実感し、その人間性や生き方にも強い共感を覚えはじめていた。その貴重な経験が、夢みたいにはかないものだったなんて……。

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