Ep.8 HARUNA 4
(これって……どういうことなんだ?)
記憶のドアも通らず、あたしはいきなりこの場面に放り込まれた。
姫が、あたし――つまりローレンスの眼の前にいる。ずーっとだ。でも、何も聞こえない。音声ってものがいっさい入ってこないのだ。
姫が何かの書類と数枚の写真をテーブルの上に広げているが、ローレンスの視線はチラリとそれを見やっただけでまたすぐ眼を上げる。
姫は微笑んだり顔をちょっと傾けたりしながら、さかんに話しかけてくる。何かを聞き出そうとしているようだ。
(これじゃ、何もわからないよ……)
何か事件が起こって、それについて姫がローレンスを問いつめているところなのだろうということは推測できる。
姫はスーツ姿で、場所は見憶えのある理事長執務室。意識的に親しそうに問いかける姫の表情や返答を聞くときの優しげな眼ざしからすると、ローレンスは生徒なのかもしれない。
でも、わかるのはそれくらいだ。しかも、なんとモノクロ! いくら昔の場面だからって、これじゃまるで古い無声映画だ。
ローレンスは、あたしの人格をそこなわずに転移する工夫とかでこちらに向ける余力がないか、それとも単にあわてて忘れたのか……。
〈おーい、ローレンス! 色と音がついてないぞー!〉
何回呼びかけても、ウンともスンとも応えがない。
そのうちにも姫とローレンスの面会は数回におよんだ。変化といえば、姫の表情が少しずつやわらかくなり、親しさが増したことくらい。
たしかに姫はとびきりの美人だし、三〇歳くらいに見える年齢からいってもいちばん輝かしい美しさを誇っていた頃だろう。そんな彼女が、ローレンスを説得しようとしてさまざまな表情を見せてくれるのだから、見あきないことは事実だ。そういえば、ローレンスもほとんど視線をそらそうとしない。
やっと別の場面になった。
ローレンスが校舎の廊下でクラスメートらしい男子と話している。すると、むこうからやっぱり書類を抱えた姫が歩いて来た。
ローレンスに気づいてにっこり微笑みかけるが、他の生徒の手前をはばかってか、何も言わずに通り過ぎていく。なのにローレンスの視線は、姫のさっそうとした後ろ姿が階段ホールに消えるまで、ずっと食い入るように見届けている。
(ち、ちょっと待って……)
『ちゃんと見ようとも考えようともしない』
ローレンスが言った言葉が思い浮かぶ。
(ひょっとしたら……声も色もいらないんじゃないだろうか? 見るべきもの、理解すべきことを受け取るには、色彩や言葉は必要ないっていう意味なのかも……)
そう考えて見はじめると、急に眼の前に展開される出来事がちがう風に見えてきた。
ローレンスは、あきらかに事件とか尋問とかに関係なく、姫の表情の変化やちょっとした仕草にばかり注目している。困ったようにふと伏せられるまつげのかすかな動きを至近距離から見る視点では、あたしでさえドキッとさせられた。
(ローレンスは姫に恋してるんじゃ……)
唐突な思いつきだったけど、それはすぐに確信に変わることになった。
いきなりどこかの行楽地の場面になった。
遊覧船の上で、ダークなコートに身を包んだ姫が、風になぶられる髪を可憐な仕草で押さえ、楽しそうにかすかな微笑みを浮かべながら風景を眺めている。濃いサングラスをかけていても、すっきり通った鼻筋から愛らしい唇にかけての優美な曲線が際立っている。
ローレンスの眼差しは、もうはっきりとあこがれの人を見る熱い視線だ。もしかして人眼を避けたデートなんだろうか?
こんどは夜の公園らしき場所だった。人影がほとんどない一画に置かれたベンチで、目立たない服装をした姫が清楚な姿勢で座っている。
ローレンスが近づいていくと、待ちこがれていた風情で嬉しそうに立ち上がる。もうまちがいなく恋人同士の密会の雰囲気だ。
やっぱりサングラスをかけているけど、ローレンスの手がそっとそれを髪の上に持ち上げる。姫はちょっと緊張した面もちで、おずおずと眼を閉じる。
(キスするのか……!)
と思った瞬間、ローレンスの手が姫の額に当てられ、場面がクルリと切り替わった。
(こ、これって――)
忘れっこない。カサノヴァに転移したローレンスに連れられて行った、フランス宮廷の舞踏会の場面だ。
ローレンスが手を差し伸べると、ポンパドール夫人が嬉しそうに手を添えた。
すると、それを合図のように、いきなり生演奏の音楽が鳴り渡った。ダンスが始まったのだ。
気がつけば、同時に色彩も復活している。しかも豪華絢爛なサロンだから、まばゆいばかりの華やかさだ。
ローレンスとポンパドール夫人はその場の主役として堂々と振る舞い、踊りの輪の中央で軽やかなワルツを踊っている。
すると、いったいどういうことだろう。
いつのまにかポンパドール夫人の顔が姫に変わっていた。姫がこちらに微笑みかける親密な表情からすれば、カサノヴァのほうもローレンスに変わっているにちがいない。ローレンスには、そんな風に記憶を加工することさえ可能だったのだ。
だけど、姫の生き生きとした楽しげな表情は、とても作りモノとは思えない。
(そうか。これは、ローレンスが姫といっしょにここを訪れた記憶なんだ!)
姫がうっとりと眼を閉じる。
こんどこそ唇が重ねられる……。
と思ったとき、あたしの夢想はいきなり破られた。
テレビのスイッチを切るように視界が暗転し、別の世界にむかってまた意識が急速に引き込まれていく――。
〈眼を覚ませ、ハルナ〉
〈な、何が起こったんだ?〉
あたしの眼の前で何人もの黒服が身を低め、窓のほうを警戒している。
〈上の温室のほうで動きがあったらしい。『若』が下から増援を呼んだんだ。いよいよ突入が始まるぞ!〉
その瞬間だった。
庭の真上で眼もくらむような閃光が発した。落葉しつつある樹々が、降り注ぐ白い光に不気味なオブジェみたいに浮かび上がる。
つづいて、下をめがけて煙の尾を引きながら何かが撃ち込まれた。庭からたちまちもうもうと煙が上がる。
「催涙弾か、煙幕か。水谷め、いきなり派手にやりやがったな。ガスマスクを!」
『若』のほうも抜かりはない。全員にガスマスクを装着させ、それと同時に狙撃銃を抱えた男たちを窓際に呼び寄せ、窓ガラスの前で迎撃の態勢を作らせる。
ついに戦いが始まったのだ――!
〈水谷のやつ、賭けに出たな〉
こんな場合だというのに、ローレンスがさも楽しそうに笑いを含んだ声で言う。
〈それ、どう言う意味だい?〉
(きみを拘束しているのが私なのか姉小路なのか、どちらでも対応できるように、いちかばちかの先制攻撃を仕掛けたんだ。しかも、こんなのは手始めにすぎない。すぐ次が来るぞ〉
〈どうしてわかる?〉
〈きみを楯にとる余裕を与えないためさ。ほら――〉
ローレンスが言うが早いか、庭の空間に充満する白煙をついて前よりさらに強烈な閃光が炸裂した。
黒メガネをはずして上の温室にむかって狙撃銃をかまえていた数人は、たまらず顔をそむけたり思わず眼をおおう。
ほぼ同時に何か黒い影が接近してきたと思うと、窓ガラスが派手な音を上げて砕け散った。
ロープに結びつけた大きなコンクリートブロックがたて続けに二個、三個とぶつかってきて、ガタついていた窓が鉄枠ごと吹っ飛ばされる。
粉々になったガラス片が部屋中に飛び散り、ひん曲がった窓枠が何人もの黒服を巻き込んでこちら側に崩れ落ちてきた。窓枠やブロックに直撃されなかった男たちも、たちまち迎撃態勢を乱して後退する。
ローレンスは最初のブロックの影が見えた瞬間、あたしの足で床を蹴りつけて身体をくるりと回転させ、ソファの後方にすばやく避難していた。
『若』たちはブロックやガラス片から身を守るのに手いっぱいになっている。
そこにひときわ大きなコンクリートブロックの塊に乗って飛び込んできた巨大な人影――。
(パパっ――)
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