Ep.6 HARUNA 5

 老女の心づくしの昼食を終えると、若者はすぐに立ち上がった。

「きみは私にいろいろ質問がありそうだね。ふさわしい場所に案内しよう」


 ローレンスが連れていったのは、三階の全部を占める大きな部屋だった。

 錆びたスチール脚の丸テーブルと、詰め物がはみ出した一人がけのボロいソファが一対あるきり。電灯ははずされているし、あちこち壁がはがれ落ち、その残骸が床に散らばったままになっていたりする。

(なんでここだけ廃屋みたいに……)

 半円形のフロアの先には、天井から床まで届く大きな窓があった。何年も磨かれた様子のない汚れたガラス越しに鬱蒼とした庭の樹々の枝ぶりが見えた。


「ここは、私がローレンスとして思索にふける場所なんだ。『絵画の間』ともいう」

 彼が指さした壁には、額縁に入った絵がポツンと一枚だけかかっている。

「フェルメールを知っているかい? ほら、『真珠の耳飾りの少女』という絵で有名な画家さ」

 それなら知っている。青いターバンを巻いて大きな眼をした女の子がこちらをふり返っている、妙に生々しくて印象的な絵だ。


「これは、フェルメールのもう一つの傑作だよ」

 ローレンスに誘われるように、あたしもその絵の前に立った。

 少女の絵とはぜんぜん構図がちがう。二人の女性が中央に小さく描かれていて、一方はギターみたいな楽器を抱えて椅子にかけ、後ろに立つもう一人と顔を見合わせている。


「フェルメールの絵に共通するのは、静謐で、奇妙に秘密めいた雰囲気だ。それは、寓意が込められている――つまり、背景に何かのいわくや物語を想像させるからなのさ」

 たしかに有名な少女の絵も、見つめる先のこちらにいる人物と不安な密会をしているような、エロティックで魅惑的な絵だった。


「美術評論家なんていう連中は頭が悪いから、この絵の本質を見抜いた解説にはめったにお目にかからない。この家の娘か若い女主人が、小さな紙片を手にしている。これは彼女あてのラブレターなんだ。それを取り次いだ家政婦が勝ち誇るように笑っているだろ? つまり、主人の秘密をにぎったことで、心理的な立場が逆転したことを意味しているのさ」

 そう言われてみれば、家政婦を見上げる女の眼は、怖れか不安を宿して大きく見開かれているように見える。


「モップや洗濯かごが乱雑に置かれていることからも、もはやこの空間が家政婦に支配されていることがわかる。恋愛はだれもがおちいる普遍的な感情だけど、いったんそれが露見してしまえば他人につけ込まれかねない弱みとなる。……例えば、こうしたらどうだろう」

 ローレンスはゆっくりと横にいるあたしに視線を移し、ニタリと笑った。

 あたしは急に強い不安に襲われ、とっさに身を引こうとした。


 だが、ローレンスは眼にも止まらないすばやい動きであたしを壁に押しつけた。

 両方の二の腕をがっちりと押さえつけられ、下半身は密着してきた脚にはさまれてピクリとも動かせない。やっと顔を横にそむけたが、ローレンスが長身をかがめて顔を寄せてくるところにちょうどぶつかってしまった。

 アッというまに唇が重なった。


 駒彦たちに迫られたときだって、こんなことをされたら絶対相手の顔に噛みついてやると思っていたのに……。なんてことだろう、やわらかな温かい感触を持ったものに吸われるたびに、身体から力がどんどん抜けていく。

 そしてクラリと、全身が裏返されるような奇妙な感覚に包まれた。それが何度も押し寄せてきて、あたしは自分という形が崩れていくような不思議な解放感を初めて味わった。


 唇が離れたとき、水面に浮かび上がるようにようやく我に返った。

「……な、なにするんだ、いきなり!」

「きみのいちばんの特徴はその負けん気だね。人に恥や弱みを見せるのは耐えられない。ちがうかい? 私にキスされたとは、人には口が裂けても言えないはずだ」


「あたしが、おまえのことをパパたちに話せないって思ってるのか」

「すくなくとも、口に出しにくいことが一つはできただろう? 絵の中の女は恋人からの手紙を拒めず、同時にそのことを親か夫にも知られたくない。両方のカギを握る家政婦は、女のそういう心理につけ込んだのさ。もう一度絵を見てごらん」

 ローレンスはあたしの気持ちなどおかまいなく、平然として絵を指さした。


「ふん。何を見ろっていうんだ。おまえも、得意そうに笑う家政婦とおんなじじゃないか!」

「ちがうね。この絵は不思議な構図になっている。手前の女中部屋か物置のようなうす暗い場所からのぞく形になってるよね。仕切りのカーテンがたくし上げられていることで、こちら側にもう一人観察者がひそんでいることがさらに強調されてると思わないかい?」


 そういえば、絵の大きさの割に二人の女の姿は小さい。暗い手前のほうの空間を意識すると、そこから画家と同じ視点で彼らを見つめる姿なき者の存在感がグッと増し、不気味に彼女たちを陰から支配しているようにさえ見えてくる。


「この絵のタイトルは『恋文』というんだ。一通の恋文をめぐって、こんなにも複雑で緊張感をはらんだ構図ができ上がってしまう。フェルメールはそれを描いたのさ。画家はつねにモデルの前にいるものだ。自分の存在をわざわざ強調する必要はない。彼が暗示しようとした存在こそ、恋文を仕掛けた人物、つまり〝恋文屋〟さ。……そう、『恋文屋ローレンス』の名は、この絵から取られたものなんだよ――」

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