Ep.6 HARUNA 4

「まあ、お目覚めね」

 眼が開いたとき、細くて高い声が横のほうから聞こえた。


 薬で眠らされた不快感はなく、ぐっすり安眠した後の爽快な感じがだんだんともどってくる。カーテンが引き開けられ、明るさに眼をパチクリすると、窓辺に白髪の老女の姿があった。


「ここは……どこ?」

「さあ、どこなんでしょう……」

「はあ?」

 老女はくったくなく笑っているが、どうやらからかっているのではなさそうだ。


「どんどん忘れていくのよ。前の晩に作ったばかりの料理をまた翌日作ったりしてね。ご主人によく笑われるわ」

 老女はまた上品にホホホホと笑った。耳にはちゃんとイヤリングをしているし、胸には小さなペンダントも見える。女性としての身だしなみは忘れていないようだった。


「ご主人というと?」

「ああ、いけない。もうすぐお帰りだわ。お食事の支度が途中だったのよ」

 あたしの質問には答えてもらえず、そそくさと部屋を出ていく。あたしも寝かされていたベッドから抜け出し、隣のキッチンについていった。


 手なべからスープのいい香りが立ち昇っている。老女はサラダにするキャベツを刻み、あたしは二脚しかないチェアの一方に腰掛けた。

 家は頑丈な鉄骨造りらしいがかなり古びていた。木製サッシの窓の外の庭には樹木が密生し、そのむこうは隣の高い建物の壁がそびえていて薄暗い。でも、上から射す光が高い枝ごしに気持ちよく窓辺まで届いている。食堂とリビングも兼ねているらしいキッチンは広くないが、きれいに片づいていて二人暮らしなら十分そうな住居に見えた。


 横の棚に毛糸玉と編みかけのマフラーがのっているのが眼に止まった。

「ああ、それはね、ご主人のために編んでいるの。まだ冷たい雨も降らないというのに、もうすぐ冬が来るらしいわねえ……」

 コールスローの味見をしながら、老女が優しげな笑みを横顔に浮かべて言った。


 とんでもない。おとといはすごい雨降りだった。キャティが、初冬の夕立ちには〝時雨しぐれ〟っていう風流な呼び方があるんだと教えてくれたので忘れっこない。

 痴呆気味の老女が外を出歩くことなどめったにないのだろうし、天候なんかたいして気にならないのかもしれない。でも、同じように浮世ばなれしていても、あり余る財産によって愚かしく生かされているような白河邸の人々と比べると、そういう老女のほうがあたしにはなぜかずっと好感が持てた。


 壁の時計が正午を少し回ったところで、横のドアがギイッときしんで開いた。

 入ってきたのは一人の若者だった。髪型は無造作だがそれなりにキマっている。皮肉を言いたそうに唇をとがらせた表情が個性的で、美形であることは否定しようがない。

 何よりあたしがドキッとしたのは、その服装だった。〝枯葉色〟と通称される色使いと伝統のたっぷりめのシルエットが特徴のブレザー――そう、聖エルザ学園の制服だったのだ。

(この人がご主人?)


「宇奈月春菜さんだね。身体の具合はどうかな?」

 落ち着いた物腰だけど、全身から匂いたつ若さはたしかに高校生のものだ。

「え、ええ……まあ、大丈夫そう」

 ものやわらかな声と言葉につられ、あたしは思わず応えていた。

「まあ、手も洗わずにお行儀の悪いこと。お嬢さん、あなたも洗ってらっしゃい」

 バゲットに手を伸ばしかけた若者が老女に叱られ、あたしもいっしょに洗面所に立った。


「きみは顔も洗ったほうがいいね。ほっぺたにまだゆうべのキャンドルのススがついてるよ」

 後ろから若者が言い、戸棚から新しいタオルを出してくれた。

(そうだ、あたしは事件の直後にキャティの車からさらわれたんだった!)


「てことは、あ、あなたは……」

「ああ、自己紹介させてもらうよ。私の名はローレンス――恋文屋ローレンス」

 若者は鏡ごしにニッコリ笑い、あっさりとその名を告げた。

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