Ep.5 HARUNA 4

「な、何をしていたっていうの?」

 あたしは、たちまち心臓がドキドキしてくるのを感じながら問いかけた。


「何も。授業をしていただけさ。だが、僕でなくたって、どう聞いてもあの声は女を誘惑する者のささやきだった。妹はローレンスの顔を見つめ、うっとりとその声音に聞き惚れていた。いつ胸に手が延びるか、いつ唇が吸い寄せられるかと、僕は狂おしい思いでいつもそれを見つめていたんだ……」


「妹に近づくために家庭教師になったっていうのか?」

 あんな美少女と二人きりで個室に閉じこもることができるのだ。白河祥子の長期欠席のことを知り、ローレンスは聖エルザから派遣されたと偽ってなにくわぬ顔で白河家に入り込んだにちがいない。

 あのイケメン講師の容貌で、これまでに集めたローレンスの情報から推測できる話術をもってすれば、女子高生を夢見心地にさせるくらいぞうさもなかったことだろう。


「それ以外にどんな目的がある? 僕なりに〝恋文屋ローレンス〟の噂を聞き集めた。その名を称する者が、聖エルザの女生徒を何人もたぶらかしてきたというじゃないか」

 精確ではないが、ある意味ではそうとも言える。


「あいつは何度も『聖エルザにもどろう』と妹をけしかけてた。僕には自分のものになれと誘いかけているようにしか聞こえなかったけどね。あいつもさすがに、この家の中で妹に手を出すのはためらわれたんだろう。だけど妹は、外に出ることだけは頑として拒みつづけたよ」

 駒彦の眼に一瞬、勝ち誇るような笑みがかすめた。


 あたしはハッとした。

 そもそもの発端は、祥子が登校拒否をしていたことだ。どうして彼女が学校に行かなくなってしまったのかについては、駒彦も両親もいっさい触れていない。

 派手なカマロを乗り回していたり、ローレンスのことを尋ねまわったり、白河家の中では例外的に外向的に見える駒彦だけど、祥子を家に閉じ込めていた元凶は彼だったのではないだろうか?


 いかにも妹思いの兄のようだが、マジックミラーごしに二人をずっと監視しつづけるなんて異様だし、その描写ぶりだって奇妙だ。まるで、自分がローレンスに代わって妹にささやきかけ、その身体に触れたがっていたみたいじゃないか!


 だけど、こういう自己中心的な人間というのは、本人は隠そうともごまかそうとも思っていないのかもしれない。駒彦の本当の狙いがわかるまで、あたしは相手の好きなようにしゃべらせることにした。


「あいつがこの屋敷に現れなくなったのは、ちょうど一年前のことさ。いくら待っても何の連絡もないものだから、祥子は半狂乱になったものだ。僕も肩すかしをくった気分だった。しばらくして逆に気になって大学に問い合わせ、辞職後の足取りを追ってなんとか予備校までたどり着いた」

「じゃ、ローレンスと話したのか?」

「ああ。再会したローレンスは、祥子の名も知っていたし、教えた記憶もあった。だけど、それは無残に壊されたかけらのような、バラバラで意味を成さない過去の断片の一部にすぎなくなっていた。大学講師を辞めざるをえなかったのもわかる。彼という人間そのものが、残骸に成り果ててしまっていたんだよ」


「残骸……」

 まさかそれほどとは思わなかったが、たしかにあたしも同じ印象を抱いた。

 そうなってしまっては、彼独特の謎めいた動機も意図ももはや問うことはできないだろう。あたしが今までやっとのことで調べてきたことのすべて――奇抜で巧妙だったあらゆる行動の軌跡は、意味という色合いがぬぐい去られ、それによって形を成していた像は失われ、見分けのつかないジグソーパズルのピースの山になってしまったのか……。


(ああ、なんてこった……)

 あたしは恐ろしいほどの無力感に襲われ、思わずヤバいときのおふくろの口癖が出た。

 駒彦にさらわれたってわかったときだって、身の危険は感じても、いざとなったらなんとかするさと反発する気持ちが一方に確実にあった。

 だけど、ずっと探し求めてきた『恋文屋ローレンス』――あたしが駆けつづける心の支えでもあったローレンスという存在が、こんな風に消えてしまうなんて……。


「なんだか、ずいぶんがっかりしたようだね。ローレンスを追っているのは、きみにもあいつにイタズラされた忌まわしい過去でもあるからなのか? 祥子とはおよそ正反対のイメージだけど、きみにはピチピチとして張りきった健康的な魅力がある。実は、きみの姿と表情をそっとうかがっていたとき、僕の中にひらめくものがあったんだ……」

 駒彦がソファから立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。

 あたしは思わずキングサイズのベッドの上を後ずさった。


「僕は、ある悩ましいイメージにずっとつきまとわれてきたんだよ。それは、ローレンスと二人で祥子を中にはさんでこのベッドに横たわっているというものだったのさ。そうすれば、もしかしたら思いをとげられるかもしれない、と」

「お、思いをとげる、だって?」


「そうさ。僕は祥子のことをずっと思いつづけてきた……恋い焦がれるほどにね。妹が聖エルザに入って学園のだれかれのことを楽しげに話すようになったとき、僕は耐えきれなくなって登校することを禁じた。祥子の姿が不特定多数の他人の眼にさらされるなんて、絶対我慢できなかったんだ」


 なんて勝手な言いグサだ。他人の運命をあやつろうとするローレンスは不気味な怪物だと思ったけど、妹を自分のものにしておきたいだなんて、こいつはとんでもない変態だ。


「祥子は素直な子だからね、僕の気持ちをわかってくれたし、学校に行けないことにも抵抗感はなかった。僕らは小さい頃から、この屋敷の中だけで十分満たされることを知っているんだ。不浄な外界にうごめく、貧しくてくだらない常識にとらわれた一般人どもとは隔絶された、この高貴な小宇宙の中でね」

(やっぱりこいつも例外じゃない。時代錯誤で異常な白河家の一員なんだ!)


「ところが、クローゼットの奥に閉じこもっておたがいの身体をまさぐり合っても、地下の屋内プールで二人して素っ裸で泳いでも、イタズラでするようなキス以上のことがどうしてもできない。肝心なときに僕の身体は役に立たず、妹はすぐにプッと吹き出して離れていってしまう。僕が不甲斐ないのか、祥子にためらいがあるせいなのかはわからないが、それ以上進むことができなかったんだ」

 ごくふつうの兄妹のじゃれ合いでさえ、一人っ子のあたしには想像すらつかないことだ。あたしは固唾をのんで聞いていた。


「……そう、そしてひらめいた」

「な、何が?」

「ローレンスの力を借りるなんて、僕は絶対したくなかった。だけど、三人でなら祥子との間にある見えない壁が、魔法のようにいともあっさり乗り越えられるんじゃないかという予感があった。でも、もうローレンスはいないという厳然たる事実がある。そのことと、ローレンスを探すきみを発見したことで、僕にまったく新しいイメージがひらめいたのさ。……きみを真ん中にはさんで、僕と祥子が向かい合えばいい、と!」


「ええっ! そ、そんな――」

 駒彦の途方もない言葉に、あたしは息をのんだ。

 だけど、それですべてが明らかになった。あたしを予備校の前から拉致して白河邸に連れ込んだのは、そのためだったのだ!


「僕はすぐにこのアイデアを妹に話した。祥子は興奮して聞いていたよ。妹もきみにすごく興味を抱いていたんだ。きみはかならず予備校にやって来るにちがいない。さっそく翌日から僕は車で張り込みを始めたのさ。そしたら案のじょう……」


 得々として語る駒彦の言葉がふと途切れた。

 あたしは背中に冷気が忍び寄るのを感じ、ゾクッとして思わずふり返った。


 いつのまにかテラスに面した窓が開いている。鬱蒼とした樹々に囲まれ、街の灯りにじゃまされていない冴え冴えとした月明かりが射していて、そこにひとつの人影があった。

 薄い絹のネグリジェを透かして、月光がすらりとしたプロポーションのシルエットを浮かび上がらせている。


「お兄さま、約束どおり連れてきてくださったのね……」

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