Ep.5 HARUNA 3
(あれがほんとにローレンスなのか……?)
講義室の隅っこの席に隠れるようにして座ったあたしは、学生たちの背中ごしにやせぎすの長身の男の姿をジッとうかがっている。
東京郊外の白河邸を訪れたとき、聖エルザから派遣されてきた家庭教師を名乗る男がいたことを知った。
謎めいた美少女・白河祥子は「ローレンス先生」と呼ぶばかりで本名もろくに憶えてなくて、世事に関心の薄い両親も男の身元や身分についてはあいまいな記憶しかなかった。
ところが、その後に面談した使用人たちの中にこう証言してくれた者がいた。
『あの方はお兄さまの駒彦さんとは仲がおよろしくて、よくテラスでお話なさっていましたよ。そのとき『○○大学』という校名を耳にしましたけど……』
祥子の兄は、あいにくその日は不在で話を聞くことはできなかった。
そこで、スゴ腕ハッカーのヤスジローに連絡をとり、男が白河邸で名乗っていた名前と証言にあった大学名を告げて人探しを頼んだ。
驚いたことに、ものの数秒とかからずに返事が来た。
『聖エルザとの関係は、あそこの卒業生ってことくらいだね。西洋史が専門で、大学院ではルネサンスの研究とかをやってたようだよ。けど、かなり将来を嘱望されてたみたいなのに、今年に入ってすぐ大学を辞めてる。今は予備校で英語教師をやってるらしいよ』
あたしは学校に迎えにきたヤスダに頼み、その予備校に回ってもらった。
あちこちの高校の生徒や地方出身の浪人生などであふれた予備校は入館のチェックが甘く、教室にも怪しまれずにもぐり込むことができた。
高校の英文法なんてサッパリわからないってこともあるけど、盛り上がりも熱気も感じられないその授業は、あたしにはひどく退屈なものに感じられた。
その人のペースで淡々と進むというならまだしも、説明の途中でときどきフッと意味不明な間が空いてしまう。単語や文法用語が思い出せないというのではなさそうだ。
まるで、眼の前にかかったぼんやりしたベールのようなものを通して、なぜ自分がここにいるのかとか、いったい何をしているんだろうかと問いかけてでもいるような、不安そうなあやうい眼差しをする。
外見も、シャープですこし陰のあるイケメンなのに、それがぜんぜん魅力になっていない。というか、自分の頼りなさそうな姿を自覚する余裕すらない雰囲気だ。
白河祥子が、夢見るような眼をしてあたしたちに話してくれた魅惑的な人物像とは、およそ遠くかけ離れた人間がそこにいた。
(この人は自分を見失っているんだ)
一見オヤジに似た相貌をして、覇気が感じられないところも二人は共通しているけど、オヤジは、自分がどんな問題をめぐって悩み、打開できないでいるのかはわかっていた。不甲斐ない自分まで見失ってはいなかったってことだ。その違いは決定的だった。
愉快犯というのは、独自の強い嗜好や価値観にのみ従って犯罪を犯す者のことだろう。ローレンスを典型的な愉快犯というなら、自分を失って抜け殻のようになった人間では、何をどう意図してやったのか、筋道立てて説得力のある説明をすることは難しいだろう。すくなくとも、彼にはもはやローレンスの〝力〟がないことは歴然としていた。
それになぜか、あの人に触れてはいけない――今はそっとしておくべきだ、という説明しがたい気持ちに襲われ、あたしは途中で席を立った。
予備校前の車道には、駐車違反の車がびっしりと列をなしていた。数十メートル歩いてやっとヤスダが大口開いて居眠りしているベンツを見つけると、その手前に停まっている真っ赤なカマロのウィンドーがスルスルと下がった。
「きみ、ローレンスを探しているんだろ?」
育ちのよさそうな大学生風の青年にいきなり問いかけられ、あたしは思わず立ち止まった。
フワッと顔に何かがかかり、それが青年が手にした小さなスプレー缶から噴霧されたものだと気づいたときには、あたしの身体はもうくたくたと崩れ落ちようとしていた――。
赤い光の揺らめき方で炎に照らされているのがわかる。そちらのほうから心地よい暖かさが伝わってくるのも感じる。暖炉が焚かれているらしい。
明かりはほかにないんだろうか?
……いや、ある。たくさんのキャンドルがぜいたくに灯されている。同じ部屋かどうかはわからないけど、この光景には見憶えがあった。
「ようやくお目覚めのようだね。宇奈月春菜さんというんだな」
暖炉の横のソファにかけている若い男が、あたしのバッグの中身を探り、生徒手帳をめくりながら言った。
「あっ」
あたしは立ち上がろうとして、手足を縛られてベッドの上に転がされていることを知った。
「きみのケータイなら、ここに帰る途中で車から捨てたよ。GPSなんかで居場所を突きとめられちゃたまらないからね。助けを呼ぼうとしても無駄だよ」
「帰る……そうか、ここはやっぱり白河邸。てことは、あんたは駒彦なんだね!」
「そうだよ。よく知っているね」
「なんであたしを……」
「きみがローレンス先生にひどく興味を持っているようだったからね。親切にも、僕が知っていることをいくらか話してあげようと思ったのさ」
そうか。祥子の兄は、あのとき外出したふりをして、どこからかあたしたちのことを観察していたんだ。祥子の部屋にいるときも、会話を盗み聞きしていたにちがいない。
だけど、それだけなら、あたしを誘拐する必要なんかないはずだ。いったいこれはなんのマネだろう?
あたしはひじを使ってなんとか上半身を持ち上げた。
「予備校にいたあの人がローレンスなのか?」
「そうだ。……いや、〝だった〟と言うべきかな。あの男が以前ローレンスだったことはまちがいない。だが、〝ローレンス〟は消え失せてしまったんだ」
「どういうこと?」
駒彦はあたしのバッグを横の小テーブルに放り出し、おもむろに脚を組みかえた。
「きみもあいつの様子がどこかおかしいのに気づいたはずだ。どれほど変わり果ててしまったかをわかってもらうには、ローレンスがここでどんな風にふるまっていたかをまず話す必要がある。週一回あいつが授業に来る日は、僕はいつもいらついて何も手につかなかった。そこののぞき窓から……」
と言って、駒彦は壁に造り付けの鏡を指さした。
そのむこうに隣の部屋の明かりが見える。マジックミラーになっているらしい。
そうか、隣は祥子の部屋で、ここは駒彦の部屋なのだ。
「……あの二人がすることを、僕は黙って見守っているしかなかったものさ」
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