Ep.5 CAMERA EYE 2
その男が出かけようと立ち上がりかけると、ケータイがコール音を発する。
「やあ、きみか。久しぶりだね。元気だったかい?」
男は即座に気安い感じで応える。
「なんだか声が若返ってるな。やれやれ、また別のやつを相手にすることになるのか」
相手の声からげんなりした感じが伝わってくる。
「いや、〝ローレンス〟という人間は一人だと思ってくれていいよ。その証拠に、ちゃんときみの声を聞き分けただろ」
「それくらい、着信音や表示でわかるだろう。だったら、ボクがどんな用件で電話したかも承知しているはずだ」
「そうだね……」
謎かけを楽しむように、男はしばらく沈黙する。
「……では、可愛い娘さんと会ったってことだね」
「ああ。湘南の病院に訪ねてきて、やっぱりおまえのことを質問したよ」
「ほう、そうか。ついに――」
男の声にわずかな興奮の響きが混じる。
相手は警戒するような口調のまま、話をつづけた。
「そのことにどんな意味があるのかわからないけど、これを伝えたら、例の質問に答えてくれる約束だぞ」
「そうだったね。きみの娘さんの本当の父親がだれなのかってことか」
もったいぶった口調で、相手の性急さを面白がるように言う。
「そのとおり。ちゃんと答えてもらおう」
「ちょっと待ってくれ。それを知ったら、きみは自分が元のように立ち直れると、本気で思ってるのかね?」
「ああ。すくなくとも、あのときに抱え込んだ、どうにもならないモヤモヤした気持ちは晴れるだろう。そうしないわけにはいかないんだ」
「なるほどね。……ところで、娘さんが来たとき別口の来客もあっただろう」
「ど、どうしてそのことを?」
「なに、ちょっと前にそっちのほうからも連絡が入ったのさ。これから会いに行くところなんだ。いよいよ面白くなりそうだ。きみへの回答は、その件が片づいてからでいいよね」
「約束がちがうぞ!」
「一五年も待ったんじゃないか。一週間や一〇日はあっという間さ。もしかしたら、そんなにかからないかもしれない。楽しみにしててくれたまえ。じゃあね――」
男は一方的に通話を切り、長めの革のトレンチコートをはおる。
ドアノブに手をかけたところで、その眼が他者にはうかがい知ることのできない確信と期待でキラリと輝いた。
フェイド・アウト――
フェイド・イン――
郊外型の大規模家具店の、グラウンドのように広い駐車場の真ん中である。
夜霧にかすむ水銀灯のまぶしい光が降り注ぐその真下――そこが、待ち合わせの場所だった。時刻が来たのを確かめ、女はドアを開けて車の外に降り立つ。
深夜とあって、駐めてある車はポツンポツンと数台に過ぎない。待ち人は、そのうちのどれかにひそんでいるのか、あるいはこれからやって来るのかもしれなかった。
するとハンドバッグのケータイが振動する。
「ええ、約束の場所にいるわ。姿を現してちょうだい」
だが、女は怪訝そうに眉をひそめる。そこから移動しろと言われたのだ。
先に来て様子をうかがっていた手下がほかの車にいるし、駐車場の外にも待機させている。女を警護するのはもちろん、成り行きしだいでは相手を強引に拘束する必要が出てくるかもしれないからだ。それを嗅ぎつけられたのか?
女が意を決して言われるがままに歩き出すのを、カメラが背後から追う。
駐車場の端のフェンス際まで来ると、一台のママチャリが立てかけられている。
「まさか、これに乗れって言うの?」
「そのとおり。後ろをごらん。いちばん左に赤い車が見えるだろう。それをAとして、順にB、C、D……という風に位置を憶えてくれ」
「な、何をさせるつもりなの――」
「いいから、言うとおりにしてもらおう。じゃないと、私には会えないよ」
女はしぶしぶサドルにまたがって走り出す。
相手の気を引こうと、切れ込みの深いチャイナドレスを着てきた。胸の膨らみと脚線を見せつけるために、上には短めのファーコートをはおっているだけだ。たちまち夜風が身にしみ、脚は太ももまであらわになる。
相手の指示は、点在する車の間をぬって駐車場内を走れというものだった。順路もなにもなく、〝の〟の字や〝8〟の字をでたらめに描かせられる。
ケータイを耳に当てたままでは、つねに片手運転になる。それでカーブを切ろうとすればどうしてもフラついてしまう。腰の近くまで脚が丸見えになるのはしかたないとすぐにあきらめたが、ドレスの裾が風であられもなくまくり上がるのを防ぐには、あわててケータイを持った手で押さえつけなければならない。
女はとうとう自転車を停め、ケータイに怒りの声をぶつける。
「こんなことして何の意味があるの! どこかで私の格好を見て笑っているんでしょ!」
「たしかに、あなたのような美しい人を好き勝手にあやつるのは最高に楽しいし、いい眼の保養になったよ。それに、あなたが連れてきたお仲間の位置がほぼつかめた――」
女はアッと声を上げそうになる。
手下たちは、女の予測不能な動きにつられてそちらをついつい眼で追ってしまい、その間に、彼らがひそむ場所と人数を相手に察知されてしまったのだ。
「でも、走りつづけてもらうよ。あなたとは二人きりで会う約束だからね」
言われるとおりにするしかない。女は唇を噛み、いらだたしげにペダルを踏みつける。
女がスピードを上げて駐車場のゲートから飛び出すと、黒スーツの男たちはあわてて車に乗り込んで後を追おうとする。
しかし、ママチャリはすぐに建物に沿って曲がる。フェンスとの隙間はせまく、車は入り込めない。男たちは呆然として取り残される。
女は指示されたとおり、店舗と倉庫の間をすり抜けた。
「止まって」
声はケータイからではない。
ハッとしてふり返ろうとすると、背後から抱きすくめられて口をふさがれる。ケータイはたちまち取り上げられてスイッチを切られた。
「悲鳴などあなたには似合わないよ。そうでしょ?」
耳元にささやきかけるとあっさり拘束を解き、エスコートするかのように腰に軽く手を回して前を歩くようにうながす。女のあつかいに慣れきった、優雅とも言える仕草だ。
相手の男は運搬用トラックをつける倉庫の間の真っ暗な袋小路に入り込み、外付けの鉄階段を昇っていく。いくつめかの踊り場に達すると、女に壁際に座るように命じる。
これでは下から彼らの姿を見つけることはできない。
いくつもの足音が入り乱れて聞こえてくる。
「バカ、そっちは行き止まりだ。むこうの従業員用の駐車場に回れ!」
あせって指示を飛ばす声がして、足音が遠ざかりかける。
女が手下を呼ぼうと声を上げようとした瞬間、口がやわらかいものでそっとふさがれる。
足音が聞こえなくなり、相手の唇が離れると、女は恍惚として思わず「ああ」とうめく。
「お上手ね。クラッときて我を忘れそうになったわ。こんな口づけをされたのはいったい何年ぶりかしら……」
「それは光栄なお言葉だね。あなたは、こんなことには反応しない、サディスティックで鉄のように冷たい女だとばかり思っていたよ、ミス・ランドルフ――」
「な、なぜそれを……」
「聖エルザで起こったことで、私の知らないものなど何一つない。最大の事件を引き起こした一味の主要人物を、忘れるはずがないだろう」
女は恐怖に見開かれた眼で男の顔を凝視する。
だが、濃い闇にまぎれ、長めの無造作な髪型がわかるだけで、その顔や体型の輪郭すら見分けることができない。
「察するところ、これはあなたの単独行動だね。『若』ならもっと用意周到だろうし、やるなら果敢で徹底的だろう。となると、私と手を結ぶ代償はかなり高くつくかもしれないよ……」
男の声が、からみつくようなねちっこい口調に変わっていく。
「し、承知のうえよ」
「きっと、あなたのご自慢の肉体だけでは足りないな」
「何をしろというの?」
「あなたは宇奈月京平の娘の行動を逐一見張らせているね。彼女は、こんどはおそらく白河邸へ向かったにちがいない。そうなんだろ?」
女はもはやごまかそうとしても無駄なことをさとり、素直にうなずき返す。
「あなたの狙いは何……白河祥子なの?」
「いいや。私が欲しいのは、宇奈月春菜さ――」
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