Ep.5 HARUNA 2

「ああ、目的地はつぎの角を左折したところだよ……って、これ何?」

 カーナビをのぞき込んでいるシンイチローが、不審そうにつぶやいた。

「家が……ないよ」


 サビの浮いた古い鉄柵が歩道ぞいにえんえんとつづいている。丈高い雑草がびっしりとからまり、中の様子がほとんどわからない。建物の屋根の先っぽさえ見えないのだ。


 シンイチローがタブレットですばやくマップを呼び出し、航空写真に切り替えた。

「敷地が五〇〇〇坪近くもある。建物もちゃんと建ってるんだけど、まるで樹木の中に埋もれてるみたいだ」

 あたしもそれをのぞき込んで驚いた。広大だった白雪邸の記憶はかすかにあるが、これほどではなかった。都内にまだこんな大邸宅があったなんて!


 ようやく正門にたどり着き、シンイチローがインターホンごしに来意を告げる。人の力じゃとても動かせそうにない鉄製のゲートが自動で開くのを待つ間に、キャティはすばやく派手な化粧を落とし、髪もまとめて学校の先生らしく変身した。


 曲がりくねった私道を車寄せまで行き着くと、豪壮な洋風の邸宅がようやくその全貌を現した。庭は荒れ果てているわけではなく、イングリッシュガーデンとかいう自然を生かした造園になっているらしい。何十メートルもあるケヤキやイトスギが建物の周囲を取り巻き、街の喧騒も風景も遠ざけて、ここをどことも知れない静かな森の中に変えている。


「チューダー王朝風建築よ。かなり本格的なものだわ。でも、なんだか陰気アルね……」

 高くて尖った屋根と白い外壁に柱や桁が現れている変わった建物で、とても日本にいるとは思えないような雰囲気を漂わせている。

 出迎えた人物は、一見して〝執事〟とわかる、何十年も変わらない無表情を顔に貼りつけたような老人で、機械みたいに沈黙したままあたしたちを応接室へ通した。


「わたくし、聖エルザ学園のキャサリン・フナダと申します。本日は、長期欠席していらっしゃる娘さんのことについてお話をうかがいにまいりました」

 キャティがよどみのない教師らしい口調で挨拶した相手は、そのままフォーマルなパーティにでも出席できそうなきちんとした服装をした、無個性な夫婦だった。


『かなり由緒ある古い家柄だね。男爵の称号を持っていた旧華族だよ――』

 来る道中の車の中で、シンイチローがタブレットをのぞき込みながら、敏腕の弁護士らしい口調で事前に調べてきたことを説明してくれた。

『明治維新で官軍に参加し、その褒賞として東京郊外に広大な土地を手に入れたんだ。そのおかげで、没落するどころか、首都圏の拡大にともなって駐車場や貸しビルなどを多数所有して財を成した。いわゆる土地成金てわけだけど、歴史の重みがちがうなあ』


『じゃあ、女生徒の両親はぜんぜん働いてないの?』

『そうらしいね。貸し物件の管理は、不動産会社にいっさいまかせてある。そこからの上がりで十分豊かに暮らしていけるんだろう』

 古色蒼然とした雰囲気や、まるで止まった時間の中で生きているみたいな人物像も、それで説明がつくような気がする。


(あたしだったらたえられない……)

 こんな家に住んでいたら、息がつまってしまう気がする。それを不健康とも停滞とも感じさせないほどの経済的な豊かさがこの人たちを包み、外界から遠ざけているのだ。


 姫がファイルにはさんだ紙が白紙だったのは、進行中の出来事だったからにちがいない。そうしている間に、姫自身を不幸な異変が襲ってしまったのだ。だが、ウグイス色の紙が残されていたってことは、まちがいなく恋文屋ローレンスが関係しているという証拠だった。


「娘は退学になってしまうのでしょうか……」

 いかにも浮世のしがらみとは無縁な感じの父親が、不安そうにキャティに尋ねた。


 そこでシンイチローが身を乗り出した。

「私は、聖エルザ学園の顧問弁護士を務めている広岡です。私どもの学園は、さまざまな事情をお持ちの生徒さんにも寛容です。傷病などのしかるべき理由があったり、学園が認めた方法で補完的な学習が可能であれば、長期欠席を理由に退学になることはありません」

 キリリとした表情をして歯切れのいい口調でしゃべると、シンイチローもそれなりの風格を漂わせる敏腕な青年弁護士に見えてくるから不思議だった。


「でも、あの先生はぱったりいらっしゃらなくなってしまって……」

 母親のほうが、こちらも浮世離れしたおっとりした表情で言った。

「といいますと?」

 キャティが、何気ない風を装いつつも不審そうに問い返す。


「聖エルザから派遣された家庭教師の方ですわ。ご本人は学園の正式な教師ではなくて、どこかの大学の講師をなさっているというお話でしたけど。とても優秀でどんな科目もわかりやすく教えてくださるし、ふさぎがちな娘もそのときだけは生き生きとした表情をしておりました。あの方にずっと来ていただければよかったのですけどねえ」

 キャティとシンイチローが顔を見合わせた。キャティが下調べしてきた女生徒の資料には、そんな事実はまったく記載されていなかったのだ。


「そ、その人は、ローレンスと名乗っていませんでしたか?」

 あたしは思い切って会話に割り込んだ。

 聖エルザの制服姿でもないあたしは、どう自己紹介したらいいかわからなかったけど、相手はそんなことにはぜんぜん関心がなさそうで、そもそもあたしが同席していることにも無頓着だった。


「ローレンス? いいえ、外国の方ではなくて、三〇歳くらいのごくふつうの日本の男性に見えましたわ。ラフなブレザーがよくお似合いの素敵な方でしたけど」

「では、ひき続き家庭教師の派遣をご希望されるということで、後任につきましては学園に持ち帰って検討いたしましょう」

 シンイチローが、なんとかその場をうまく取りつくろってくれた。


 女生徒本人とはご家族抜きで面会したい、とキャティが申し入れると、両親はしぶしぶながらうなずき、老執事に二階の娘の部屋へあたしたちを案内させた。

 重厚なアンティーク家具がそろうたっぷりとした広さの部屋だったが、イギリス建築を忠実に模した造りのために部屋の大きさの割に窓は小さくて、昼でも灯されているいくつものキャンドルの豪華な光がかえって暗さを際立たせていた。


 女生徒は首から足元まで隠れる古風なワンピースを着て、ロッキングチェアを小さく揺らしながら、窓のほうにあまり興味なさそうな視線を投げていた。

 その少女――白河祥子があたしたちに気づき、ゆっくりとこちらをふり返る。

 その顔を見たとき、あたしはあまりの美少女ぶりに強い衝撃を受けた。


 すぐに連想したのが姫の若い頃の顔だったけど、少女の整いすぎた容貌には姫の最大の特徴である知的なきらめきがまったく欠落していた。

 ……いや、というか、見る者にどうしても冷静さを要求してしまう理性というじゃまものがないからこそ、少女のあられもない美しさがそっくり現れ出てしまっているのだった。


 少女の赤い唇がいたずらっぽく動き、かすれたささやき声で言った。

「ローレンス先生と会いたいの……」

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