Ep.4 HARUNA 2

 先に椅子にかけていたオヤジは、その質問を聞いてハッと眼が覚めたように顔を上げた。

「だれから、だって……?」


 眼の前に立っているのが娘のあたしだと、やっと気がついたみたいだった。

「そうだよ。一五年前、あたしはこの宇奈月医院で生まれたんだろ?」

「あ……ああ」

 オヤジはひたいに手を当て、そんなことが本当にあったのかと悩むように眼を閉じた。


「だったら、取り上げてくれたのはオヤジにきまってるじゃないか。そんなことまで忘れるほど、オヤジはおかしくなっちまったのか?」

 残酷な言い方だとは思いながら、あたしは精一杯いたわりの気持ちを込めて言った。

 無精ヒゲが目立つ頼りなさげなオヤジを見つめて、あたしは悲しい気持ちになった。


 オヤジは細い記憶の糸を手探りしているのか、それとも口にしたくない気持ちと格闘しているのか、黙りこくったままなかなか返事をしない。

 初冬とはいっても、南向きの部屋を包む湘南の日差しはやわらかくて暖かい。だけど、陰に座ったオヤジの周りだけは冷え冷えとした空気が漂っているようだった。


「もちろん、忘れられるわけがないさ」

 ようやく話す決心がついたというより、単なる事実経過を説明するだけならなんとかやれそうだとでもいうように、オヤジはゆっくりと重い口を開いた。


「出産のときには、おまえの母親たちが全員ここにいた」

「全員が……!」

「そうさ。おまえが生まれた瞬間には、三〇年前にボクらが勝利したときと同じくらい盛大な歓声が上がったんだよ。『おめでとう』の声が飛びかって、代わりばんこに抱き合い、肩を叩き、手を取り合って喜びを分かちあった。もちろん、ボクもその輪の中に巻き込まれた」


 オヤジはようやく顔を上げ、あの頃の名残りのある天井を見つめて言葉をつづけた。

「新しい生命が生まれる瞬間っていうのは、動物だって感動的なものだ。神秘的でさえある。だけど、人間の場合は、そうやって生まれてきた子が、その誕生によって周囲のみんなを固く結びつけるという奇跡のような作用もする」

 なるほど、子どものあたしにだって、それが出産の場面に何度も立ち会ってきた産婦人科医らしい実感だとわかる。


「女は母親になり、男は父親になり、彼らの両親たちはそのとき祖父母になる。生命の連鎖に支えられた家族という仕組みの中で、それはだれにも疑えない厳粛な瞬間なんだ。そして、おまえが生まれたときには……」

「あたしのときは?」

「付き添っていた一人が産着にくるんだおまえを抱いて、ボクにむかって決然と宣告するように言ったんだ。『この子はクルセイダーズの子だから、自分たち三人がこの子の母親になることにする。これは、何回も相談して決めたことだ。あなたも同意してほしい』とね」


 あたしは息をのんだ。うすうすは想像していたことだけど、やっぱりそういう生々しいやりとりがあったのだ。

「とんでもない提案に、ボクだって愕然としたさ。でも、それが問題をすべて丸くおさめる方法なのだと説得された」

「問題?」

「ああ。もちろん、問題がなければそんな方法をとる必要はなかった。そして、そのおかげでずっとうまくやってこられたのも事実だ。母親たちは以前にも増して信頼と結束を固くし、おまえを育てることで生きがいすら得られた。そしておまえは幸せに包まれて育ってきた。だから、やっぱりそれがいちばんいい方法だったんだろうな」


「でも、どうしてそんなことをしなきゃいけなかったの? 問題って何?」

「ボクがそれを明かせるくらいなら、たいした問題じゃなかったってことさ。いや、それより、クルセイダーズが固く誓い合ったってことのほうが大きい。姫も同意した。だったら、ボクが異を唱えることなどできやしないさ」


 その場に滝沢礼子がいたのかどうかと質問しかけて、あたしは口をつぐんだ。カマをかけるような卑怯な手だし、オヤジはけっして答えてくれないにちがいない。

 オヤジの場合は水谷パパとは違う。生みの親を知っていながら三人の母親を認めたのだ。しかもクルセイダーズの誓いを守らなきゃならない。オヤジから本当の母親についてこれ以上の話を聞き出すのは無理だろう。


「姫の遺言は知ってる? あたしはチクリンママから聞いたけど」

「ああ、もちろんさ。これでもクルセイダーズの一員だからな。妹の消息がどうしても気にかかっていたんだろうけど、ボクに言わせれば、姫も最後には血迷っていたんだろうな。恋文屋ローレンスを頼ろうだなんて」


「オヤジはローレンスのことを知ってたの?」

「会ったこともあるし、後になってやつだとわかったこともある。とにかくなれなれしいんだ。『私の言ったとおりだったろ』とか『またもう一ついいことを教えてやろう』とか言って近づいてくる。だが、そのたびにまったく別の人物に身をやつしているんだ」

 そうか。やっぱりオヤジは直接ローレンスと接触したことがあったんだ。


「変装?」

「いや、変装なんかじゃあんなに完璧に他人にはなりすませない。ボクが思うに、〝恋文屋同盟〟とでも呼ぶべきローレンスを名乗る者の系譜が、聖エルザの中にめんめんと受け継がれているんだと思うな」

〝ローレンス〟という存在の異様さに、あたしはゾクッとした。

「秘密結社みたいなものなのか?」

「というより、ローレンスの考え方、生き方に賛同しそうな者が次々選ばれて、ローレンスの名を継承していくんじゃないかな。膨大な情報をそっくり譲り渡すような形でね」


 だとしたら、集団を相手取るわけじゃない。顔はわからなくても、それらしい人物を一人特定すればいいことになる。

 もちろん、それも気の遠くなるようなことだけど、おぼろげながら見えてきたローレンスの像は、あたしに新たな闘志をわかせた。

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