Episode 4 Father, Oh, Dear Father! ―― 父よ! 父よ!
Ep.4 HARUNA 1
『ほんっとに、あの男はだらしないわヨ!』
チクリンママは腹立たしそうに言っていた。
『根っからの浮気性にもあきれるしね。キャティの結婚式じゃグデングデンに酔っぱらって披露宴を台なしにしちゃったし、ミホちゃんのときは始めから最後まで大声で泣きっぱなし。あたしが結婚指輪をはめてもらおうとした瞬間、あいつはなんと通路を駆けてきてパパに憤然と決闘を申し込んだのヨ。かないっこないっていうのにネ。ったくもう』
ママほど過激でなくても、ほかの空手部の連中だって、程度の差はあれオヤジのことについてはほぼ同意見だ。ミホ母さんは黙ってうなずくだけだし、おふくろに至っては他人事のように知らんぷりしたままだけど、それは反論の余地がないってことだろう。
でも、あたしが生まれる頃まではそれほどでもなかったらしい。クルセイダーズと空手部の仲間の中で最初に結婚したカップルだったから、当然盛大に祝福されたし、お似合いのカップルとしてだれにもうらやましがられたものだという。
あたしが三人の〝母親〟に恵まれ(?)、人の何倍もの幸せに包まれてすくすく成長するのと逆行するように、オヤジは周囲から孤立し、自分一人の中に閉じこもっていった。
たしかに、若松父さんが犬とじゃれるみたいに遊んでくれたり、水谷パパがいつも抱っこや肩車してくれたようなスキンシップがあったわけじゃない。でも、オヤジはほかの人には無愛想だったけど、あたしにだけは優しいまなざしを向けてくれていたと思う。
工事用のバンの窓から見憶えのある沿道の並木や看板を眺めていると、数年前の出来事が思い浮かんできて、それはけっしてあたしのカン違いなんかじゃなかったと思えた。
三バカが日曜日なら仕事は休みだというので、あたしは意を決して湘南のオヤジのところへ連れて行ってもらうことにしたのだ。今日もヤスダ、マツオカ、オオスギの三人が勢ぞろいしていて、あの日のままずっと待っていたんじゃないかと思うような同じ汚れた作業着とスーツ姿だった。
バンは今、ゆるく蛇行する長い登り坂を走っていた。
「たしか、このあたりで死にそうになったっけ……」
あたしが独り言のようにつぶやくと、隣のヤスダがびっくりした顔で見返した。
「東海道を走ったことがあるのかい? 箱根駅伝みたいにか!」
ヤスダの問いに、あたしはコクンとうなずいた。
小学六年のときのことだ。
寝坊して日曜の空手の朝練に遅刻したあたしは、町道場の師範代を務めるおふくろにこっぴどく叱られた。あたしは泣きながら道場を飛び出し、やけっぱちになって駆けつづけた。
いつのまにか、頭の上を高速道路が何本も交差するような場所に来ていた。そこは都心の日本橋あたりだった。見上げた道路標識に『東海道』という文字を見つけ、あたしは誘われるようにそっちへ向かって走りだした。
オヤジの実家のすぐ近くをその東海道が通っていたことに思い当たったのだ。この道はオヤジのところへ連れていってくれる――幼心にそう考えた。
途中で何度もへばりかけたが、「もうよそう」とは思わなかった。だいいち帰ろうにも方法がわからない。ひたすら前に進むしかなかった。
「ほ、ほんとかよ――!」
三人はあたしの話を聞いて、眼を丸くして絶句した。
「公園や広場があるとちょっと休んで、水を飲んだり頭から浴びたりしながら、最後は走ってんのか歩いてんのかわかんないくらいヘトヘトだったけど、なんとか走り切れたよ。自分にはマラソンの才能があるかもしれないって、そのとき初めて気づいたんだ」
感嘆の声を上げられるのは照れ臭かったけど、あたしはその光景を懐かしく思い出した。
あのときは、日没近くなってようやくここにたどり着いた。海岸通りに出て夕映えの防砂林ごしに白いペンキ塗りの木造の洋館建てを見つけ、あたしはやっと安心した。
汗とホコリにまみれてすっかり薄汚くなった空手着姿のあたしを見て、オヤジは何も言わずにボロボロと涙を流して迎えてくれた。あたしもいっしょに泣いたけど、泣きながらどっちからともなく笑いだしていた。何がおかしいのかもわからないまま、二人していつまでもゲラゲラと腹を抱えて笑いつづけたものだった。
(やっぱり、あんときと同じように走ってきたほうがよかったかなあ……)
チラリとそんな考えがよぎったが、『宇奈月医院』の看板がもう見えてきていた。
三人は親子の対面のじゃましちゃ悪いからと、「近くにいるよ。用がすんだら連絡してくれ」と言い残してバンを出した。すっかり人が変わってしまったオヤジと顔を合わせるのが気まずいのだろうと想像はつく。あたしは一人で「本日休診」の札がかかったドアに向かった。
オヤジは、よれよれのチノパンとざっくりしたシェトランドセーター姿で出てきた。眼をまぶしそうに細め、あたしを何者だというようにぼんやりと見つめた。
「オヤジ……」
元気か、とつづけようとして言葉につまってしまった。こんな調子じゃ、まともな会話になるかどうか心もとない。
オヤジはついて来いとも言わずに診察室に入っていった。さすがにきちんと片づいているが、あんまりきれい過ぎるのも、診てもらいにくる人がいるのかどうか疑わしくなる。
ちなみに表の看板は、小さな個人医院にもかかわらず「内科・外科・眼科・小児科・産婦人科」と、ちょっとした総合病院並みの表示になっている。
たぶん、一人でこれだけの資格を持ってるのはすごいことなのだろう。研究室に入ったり大学病院に勤めたりしても、また気が変わって何度も別の専門をやり直してきた結果だという。ありあまる才能をもてあましてどれか一つに徹し切れなかったのも、いかにもオヤジらしい。片手間で仕事するみたいに退屈そうに患者の相手をしている姿が眼に見えるようだった。
診察室を通り過ぎ、昔は入院患者用の病室だった部屋に入った。今はオヤジの書斎のようになっていて、一角にカルテや医学書などに取り囲まれた執務机が置かれてはいるが、大部分は雑多な趣味で集められた品々や膨大な書籍で占められ、足の踏み場もないほどだ。
オヤジは申しわけ程度にソファの上の雑誌などを取りのけ、わずかに空いたスペースに座るように言った。
だけど、あたしは突っ立ったまま窓のほうを眺め、それから高い天井に眼をやった。
三〇年前の事件の直後、ケガをした滝沢礼子が療養のために入院していたのがこの部屋だったはずだ。彼女はこの窓から湘南の海を見ていたことだろう。そして、一五年前、あたしが生まれた瞬間には、産んでくれた人がベッドに横たわって白い天井を見上げていたのだ。
聞きたいことは山ほどあったが、あたしの口をついて出た言葉は、やっぱりいちばん聞きたいことだった。
「なあ、オヤジ……あたしは、いったいだれから生まれたんだ?」
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