Ep.3 HARUNA 5
驚くのは当然だった。
あたしはちっとも気づいていなかったが、膝から下が血まみれになっていたのだ。
「聖エルザのことで話を聞きたい、ですって? そんなことよりはやく手当てしないと――」
あたしを暖かいリビングに上げてくれ、頭をふくタオルまで出してくれた。
ケガはかすり傷程度だったが、ほっといたのが雨でにじんで広がったために大げさに見えたのだった。
でも、そのおかげで、話の切り出し方によっては門前払いをくらってもおかしくなかったのに、親身に話を聞いてもらえそうな雰囲気が生まれた。何が幸いするかわからないものだ。
「……そう、聖エルザに推薦入学できそうなのね。私は一般入試を受けたから、発表を見るまでは不安でいっぱいだったのよ」
あたしのひざに大きめの絆創膏を貼ってくれながら、三〇代後半の主婦は微笑んだ。
あたしは自分の身分や詳しい事情は伏せたが、それ以外はほぼ正直に話し、『恋文屋ローレンス』が関わった事件について聞かせてほしいと言った。
「ああ、あのことねえ……」
ためらいがちに雨の庭を見やる横顔が美しかった。長いまつげ、形のいい鼻……姫の美しさには及ばなくても、学年一の美人と評判をとった面影は十分に残っている。
彼女が巻き込まれたのは、当時世間を騒がせていたストーカー事件の一つだった。学園は彼女から相談を受け、警察にも届け出たのだが、なかなか解決しそうになかった。
というのは、運の悪いことにストーカーが個人ではなくグループだったせいだ。四人組の男たちが、自宅近くからのバス、乗り継ぐ電車と地下鉄、ピアノ教室への徒歩の行き帰りなどをさまざまなパターンで分担しながら彼女につきまとった。
そのために彼女自身もなかなか気づけなかったが、わかってみればその四人につねに囲まれているような恐怖と不安にさいなまれた。
本人にははっきりそれとわかるのに、特定の個人のしわざではないからストーカー行為だと証明することが難しい。四人はしだいに大胆になり、わざと身体をすり寄せてきたり、顔をまっすぐ見すえてニタリと不気味な笑みを見せつけたりする。彼らはそうやって彼女を精神的に追い込むことで欲望を満たしていたにちがいない。
あたしは、なるべくイヤな記憶には触れないように話を先に進めた。
「あたしがいちばん知りたいのは、実は恋文屋ローレンスのことなんです。彼はどんな風にあなたを救ったんですか?」
「ああ、それはね……ある日の学校帰りのことだったわ。駅からずっとストーカーの一人につきまとわれていたんだけど、気がつくと前から別の男が来るのが見えたの。私がとっさに横手の公園を通り抜けて逃げようすると、こんどは公園の反対側の入口から三人めが現れたのよ」
「待ちぶせされてたってこと?」
「まちがいなくね。公園に人影はなく、両側は高いブロック塀で囲まれてるし、樹々もうっそうとして人眼をさえぎってる。私が途方に暮れて立ち止まりかけたとき、ポンと肩を叩かれた。四人めは公衆トイレに隠れていたのよ」
あたしは絶体絶命の場面を想像して胸の鼓動が速まるのを感じたが、相手の女性の口調はなぜか反対になめらかになってきた。
「ところがおかしいの。顔を合わせた四人はおたがいに怪訝そうな表情をして、『どうしておまえがここに』とか『そっちこそ』とか『今日はおれが……』とか言い合いを始めたのよ。その隙をみて逃げようとしたけど、たちまち捕まってしまってトイレの陰に連れ込まれかけた。するとそのとき――」
「ローレンスが現れたんですか!」
女性は大きくうなずいた。
「彼はたちまち二人を蹴り飛ばし、私を押さえつけている二人に迫ったの。彼は戦っている間もビデオカメラを構えたままで、余裕の笑みさえ浮かべていたわ。もちろん、男たちも撮影させまいとして必死で襲いかかったけど、回し蹴りとか飛び蹴りをくらって、彼の身体に指一本触れることもできないの。まるで彼は一人で遊んでいるだけで、四人はそれに運悪く巻き込まれたみたいに醜態をさらすばかりだった」
彼女は眼をキラキラ輝かせ、楽しそうにその場面を回想した。
そのうち騒ぎに気づいた通行人がだんだんと集まってきて、四人組はあわてふためいて逃げていった。
『ぼくも警察とは関わり合いになりたくないんだ。これさえ見せれば、もう君がやつらにつきまとわれることはないよ』
彼はそう言ってビデオカセットを彼女に手渡し、ヒラリと塀の上に跳び乗った。
『あ、あの……あなたのお名前は?』
『恋文屋ローレンス』
彼女を振り返ってニヒルな笑みを浮かべると、たちまち塀のむこうへ姿を消した。
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