Ep.3 MIHO
軽い昼食をすますと、わたしはタブレットを持っていつもの窓際の椅子にかけた。
どんよりとした曇り空の下に、ティーアガルテン公園の広大な緑地が広がっている。東の端には有名なブランデンブルク門も遠望することができる。ベルリンは、東京と比べたらずっと厳しい冬をまた迎えようとしていた。
日本とは八時間の時差があるから、おたがいに余裕を持って連絡を取り合える時間は限られている。今がまさにその時刻に当たるのだ。
でも、今日は特別な日だ。指先が緊張でちょっとふるえているのがわかる。タブレットの操作をまちがえたことなんかないのに、いつもよりよけい慎重になってしまう。
そう、この慎重さ、丁寧さがわたしの唯一の取り柄だ。それだけで聖エルザの学園長という重責をわたしなんかが長年にわたって果たすことができた。すべては理事長の姫――白雪和子のおかげ。わたしは彼女の言うとおりに行動しさえすればよかった。そして、すぐにためらいがちになってしまうわたしを優しく励ましてくれたのも姫だった。
姫の葬儀に間に合わせようと急いでフライトを予約したのに、まだ小さい双子が両方ともインフルエンザにかかってしまい、当日になって泣く泣く帰国を断念した。それ以来、なかなか帰るきっかけが見つからないままもう一年が経ってしまった。遠く離れた土地で暮らしているからこそ、姫のことは毎日のように思い出してしまう。
いくらも待たずにビデオ通話がつながった。ずっとそこで待っていたかのように、ニコニコと元気そうな顔が現れた。丸太を組んだ壁が背景に見える。
「チクリン!」
東京はもう夜の九時過ぎだ。チクリンは風呂上がりらしくかわいいパジャマ姿だった。
「なーに、ミホちゃんたら、こっちがまだ何も言ってないのにもう泣いてんの?」
「だ、だって、今日が姫が亡くなった日だと思うとね、つい……」
「ウン、わかるわヨ。あたしだって、もし一人でポツンと学園長室にいたら、ずっと泣きっぱなしだったかもしんない。だけど、ハルナのおかげで思い出深い一日になったわ」
「エッ、ハルナが聖エルザに来たの?」
「そーか、ミホちゃんには言ってなかったネ。ハルナには特別入学許可証を出したから、ほかの推薦入学の志願者たちとは別の日に呼んだの。モチ、あの子の内申書の成績なら、スポーツの輝かしい記録も含めて文句なしに合格だったけどネ」
「あの子もとうとう聖エルザの生徒になるのね。……もう、チクリンったら、意地悪ね。それを知ってたら、わたしも最初から晴れ晴れとした顔でチクリンに会えたのに」
「ゴメン。でもネ、あたしだって、ハルナのためを思って姫に会わせてあげようとこの日を選んだつもりだったのに、実はその反対だったってわかったのヨ」
「反対?」
「エエ。あの日以来閉ざしっぱなしだった理事長執務室に足を踏み入れられたのも、記念品展示室の姫の遺体に面会できたのも、あの子がいっしょにいてくれたからヨ。いいえ、むしろハルナに背中を押してもらった気がするの」
「ほんと?」
「あたし、学園長やってみて意外と人を見る眼があるなってわかってきたわ。姫の遺体があると知ったら、あの子はきっと一人でも会いに行ったと思う。三〇年前あたしたちはやむなく戦わなきゃならなかったけど、ハルナだったら仲間なんかいなくたってそうするかもしれない」
「そんなにたくましい娘になったの……!」
「たくましいっていうか、向こう見ずっていうか、こうと決めたら絶対引かないタイプなのはたしかヨ。いったいだれに似たのかしらネ。あたしには何も言わずに、こっそりウチのダンナに会いに来て何か聞き出そうとしたりするし」
チクリンはそう言いながらも嬉しそうに笑った。
わたしが最後にハルナに会ったのは、ヨーロッパで生まれた双子の顔を見せに帰った三年前のことだ。あのときはまだ小学生で、いかにもオトシマエに育てられているらしく、小さな空手着がよく似合う活発そうな女の子に育っていた。コックリさんがほとんど家にいないというのにさみしそうにする様子もなく、無邪気で天真らんまんな子には見えたけど……。
「双子のカツヤとアツヤは元気? なんたって、あたしたちクルセイダーズの二番めと三番めの子だからネ。日本語しゃべれないなんていったら泣くわヨ」
「だいじょうぶ。こう見えても語学教師なんだから。近所の友だちとはドイツ語を話して遊ぶし、英語もそこそこ使えるわ。ヨーロッパ中を忙しく飛び回っている若松クンも、たまの休みには漢字を教えてくれたりするしね」
商社マンになった若松クンとは、聖エルザのクラス会でバッタリ再会した。多忙な仕事なのは知っていたが、彼はクルセイダーズの集まりにもほとんど出席していなかった。
『オレ、おまえがいると思うと足がすくんじゃってサ……ついつい口実をつくって出席しないようにしてたんだ……乙島のアネゴに知られたら生きてられないし……』
純情な若松クンは、下を向いてゆでダコみたいに真っ赤な顔をしたまま小声で言った。
同窓会ほど公的な催しではない小さなクラス会くらいなら、学園長のわたしはさすがに来ていないだろうと顔を出してみたらしい。ところが、わたしはたまたま都合がついて、遅れているのは承知のうえで駆けつけたのだった。
わたしのほうも、負けないくらい真っ赤な顔でその遠回しな告白を聞いていたと思う。
熱血エリートに成長した彼に惹かれたというより、戦場のようなビジネスの場でもまれても、空手少年の一途さをぜんぜん失っていないところがいかにも若松クンらしかった。聖エルザを卒業して以来一〇年以上も経ってから付き合いが始まったのには、そういういきさつがあったのだった。
若松クンもまた聖エルザの日々を過去のものとしていない――そう思えたからこそ、わたしは彼と思い切って結婚したし、学園長を辞してまでヨーロッパについて来た。
「なにボーッとしてんの、ミホちゃん。ハハア。さては、出張に行ってるダンナのこと思い出してたな」
チクリンがいたずらっぽい眼をして画面に顔を近づけてきた。
「そ、そんなことは……」
「アラ、赤くなっちゃった。やっぱし図星だったわネ。それに、まだ『若松クン』て呼んでんだ。あんたたち、いつまでも新婚の熱々カップルのまんまネ。ごちそーさま!」
「そういうチクリンだって、力強くてものすごく優しい旦那さんがいるじゃない。春からはハルナもいっしょに暮らすんでしょ。うらやましいわァ」
「まあネ。あんたたちも、ハルナの入学式に合わせてもどって来られるといいね。姫の顔も見てほしいワ。そんときになれば、きっとすべてが解決してるだろうし――」
「え? すべてって何……」
「あ、イヤ、こっちのコト。あんたは遠くにいるんだから、よけいなことを心配しなくていいのヨ。学園のことも含めて、みんなこのチクリンにまかせといて!」
チクリンは、姫がいなくなっていちだんと学園長らしく頼りがいのある女性へと華麗に変貌しつつある。余裕たっぷりの表情でドンと胸を叩くと、笑いながら通話を切った。
ハルナの合格を聞いて、沈んでいた気持ちがいっぺんに晴れやかになった。合格もおめでたいけれども、聖エルザにふさわしい娘に育ってくれたらしいことが何より嬉しかった。
だけど、自然に浮かんでくる笑みに一点だけ小さな黒ずみが残ってしまったような気がした。
すべて……?
それはいったい何のことだろう。
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