Ep.2 HARUNA 2
「あっ!」
「おっと……」
その人物は、あたしと衝突するのを避けようとして両腕に抱えていた大きな紙袋を落としかけ、地面すれすれですくうようにキャッチした。みごとな運動神経だ。
建物の裏手のレンガ塀に、この家専用らしい新しい通用口が作られているのが見える。ちょうど買い物から帰ってきたところだったのだろう。
「ハルナじゃないか。面接試験はもう終わったのか?」
「う、うん。ビックリするくらいあっさりとね。特別入学許可証とかってもののおかげ」
「それはよかった。中に入れ――」
チクリンママの夫、つまりあたしの〝パパ〟は、雲を衝くような大男だ。欧米人用サイズのログハウスのドアをくぐってもほとんど違和感がない。
ママは超小型だから、二人の取り合わせは子どもの眼にも奇妙に映った。『相手のどこに惹かれて結婚したのか?』とは、だれもが抱く疑問だ。二人はけっしてまともに答えようとはしない。ママは「あははは」と笑うばかりだし、パパはむっつり黙ったままだ。
でも、たとえ小学校の低学年のときとはいえ、いっしょに暮らしたあたしにはよくわかる。二人の間は一ミリの隙間もない信頼感でつねに満たされているのだ。それはたぶん、結びつきなんてものを越え、二人には空気のようにあってあたりまえの感覚なのにちがいない。その中にすっぽり包まれたあたしが幸せでないはずがなかった。
パパはあたしをダイニングテーブルに座らせ、買い物袋から取り出した食材や調味料などを手際よく仕分けし、一つひとつ棚や冷蔵庫に収めていく。
高校時代の彼は、見かけどおりの恐しい戦闘マシーンだったという。敵には恐怖の存在だったはずだが、味方にとってはこれほど頼りがいのある人間はいない。
ありあまる力をセーブしながらのそのていねいな仕事ぶりには、どこか見ている者をいやす力が秘められている。いつもなら、黙ってこうして近くにいるだけで落ち着いた気分になれるはずだった。
でも、聖エルザに足を踏み入れてからずっとひどく緊張していたし、パパの前にいるというのに、その緊張がやわらぐどころかかえって強くなっているのがわかった。
「ハルナ、ケーキ食べるか? 落としかけたんでちょっと崩れてるが」
人気の洋菓子店の箱を開けながらたずねた。
「パパが買ってきたの?」
この人がショーケースをのぞき込んでいる姿は、さぞシュールな光景にちがいない。
「もちろんさ。チクリンは忙しくて売り切れ前に買いに行くのはとても無理だ。いつもおれが代わりに学園を抜け出して行ってくるのさ」
パパはこともなげに言った。
パパ――水谷薫は、用務員という地味な役職名で呼ばれているが、歴史的建造物と言っていいほど古くて立派な校舎全体の維持や管理を担当している。それも大変な仕事にちがいないし、放課後には空手部と柔道部のコーチも頼まれているらしい。しかし、うまく調節すれば時間の自由もきくのだろう。
「でも、黙って食べちゃったらママに悪いよ」
「かまわんさ。どうせおれはフォークの先っぽをちょっとつけるだけだ。その分をおまえにやる。いつもなら残りはあいつが嬉しそうに食ってしまうんだがな」
あたしは皿にのせてくれたものを素直にいただくことにした。
パパはいかにも彼らしくお茶をいれたりせず、ペットボトルからミネラルウォーターをコップに注いであたしの前に置き、自分は大きなテーブルの向かい側に座った。
「なんでここに来たのかって聞かないの?」
「合格が決まったんだろ。だから部屋を見に来たんだと思ってた。高校生になったら、深川からここへ移ってくる予定だったじゃないか。おまえの部屋はちゃんと用意してある。机も本棚もベッドもチクリンとおれが作っといた。今日からだってここに泊まれるぞ」
「あ……そうか。でも、まだいいよ。服とか学用品とかいろいろあるし……」
「なら――何かおれに個人的に話があるってことだな」
パパはズバリと斬り込むように言った。
チクリンママには話しやすいがものすごいマイペースだから、そのスピードに押しまくられて話の半分もすまないうちにぜんぜん別の話題に飛んでたりする。残りは、どんなにつまらないことでもパパが最後まで聞いてくれるのだった。
あたしがためらっていると、パパは先回りするように言った。
「深川の家のことか? コックリは実家の湘南の病院に閉じこもりきりだそうだな。おまえが家を出ると、オトシマエが一人になってしまう。それを気にしているのか?」
「う、うん。それもあるけど……」
あたしはついに話さなければならないときが来たことを悟った。パパはなんでも聞いてくれるけど、それは隠しごともできないってことでもある。
あたしは跳ね上がりそうな心臓を手で押さえ、意を決して言った。
「あたしは……本当の母親がだれなのかを知りたいんだ」
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