Ep.1 HARUNA 4

 姫のトレードマークのようになっていたメガネは外され、すっきりとした素顔のままで眠るように横たわっている。


 一点の曇りもない知性を宿す広い額、理想を貫徹する意志を表してすっと通った鼻筋、薄く微笑んだような愛らしい唇……。


 金属製の棺から伝わる冷たさと中にほのかに漂う白い気体さえなければ、今にも目覚めそうにも思えたが、命のともし火が消えているからこそかえってぞっとするほど美しい彫像のようなものとなって、姫は今もそこに存在していた。


 聖エルザの思い出と言えるものは幼すぎたあたしにはほとんどないけれど、残像のように浮かぶ断片的な場面には、彼女の神々しいまでの美しさをたたえた姿がかならずあった。あたしをかいがいしく世話する手や笑みを浮かべてのぞき込む顔のむこうから、聖母のような不変の愛に満ちた眼差しをして、静かにたたずんだり椅子に座ってこちらを見やっている。


(そうだ。あの眼は、あたしを抱いたりあやしたりしている母親たちを通り越して、あたしだけを見つめていた……)


『あなたは、私たちクルセイダーズみんなの子よ』

 そう言ったのもこの姫だった。


 クルセイダーズは遠い昔からつづく選ばれた血を引き、受け継がれてきた理想と誓いに導かれて聖エルザに集結した仲間たちだ。彼らが遭遇した大きな困難は、一人でも欠けたらけっして乗り越えられないほど過酷なものだった。学園全体を巻き込む大事件へと発展した学園乗っ取りの陰謀は、最後の最後でようやくクルセイダーズの勝利に帰した。そのとき、彼らは揺るぎない信頼と友情をたしかめ合ったという。


 三人の母親たちは全員が姫をリーダーとするクルセイダーズの一員だし、おふくろオトシマエの夫――つまりオヤジであるコックリさんは唯一の男性で五人目のメンバーだ。姫があたしを〝クルセイダーズみんなの子〟と呼ぶのは、だから不思議でもなんでもなかった。


 だけど、姫その人は生涯独身を通した。学園長の重責をになってきたミホ母さんやその後を継いだチクリンママを理事長として陰から支え、聖エルザを何度も窮地から救ってきたという。


 あたしも憶えているのは、学園にほど近い広大な白雪家の土地家屋をそっくり学園に寄付したことだ。姫は大手不動産会社にそれを売却し、学園の経営危機を乗り越えたのだった。その跡地には「エルザタワー」と名を冠した超高層マンションが建ち、姫やチクリンママや司書のキャティも優先的に入居した。

 姫は、そうやって全財産まで惜しみなくつぎ込んで聖エルザのために貢献してきたのだ。


『私は聖エルザと結婚したようなものだから……』

 二人きりのときに静かにつぶやいたことがあった。

『私だけがあなたの母親だと名乗りを上げられなかったのは、きっとそのせいね』

 と、生まじめな姫に似合わず冗談のようにつづけて言って、咲き誇る桜のような満面の笑みを浮かべていたのを思い出す。


 気がつくと、箱の向かい側でチクリンママが握りしめたこぶしを両眼に当て、子どものようにしゃくりあげながら涙をぬぐう動作をくり返している。


 そういえば、学園葬に参列したおふくろは、あたしには葬儀の様子やほかの列席者たちのことは何も伝えず、ただこう言っただけだった。

「チクリンは立派だったよ。ずっと姫のいちばん身近にいて、彼女の突然の最期を看取ったんだ。だれより強い衝撃を受け、つらい思いをしてるにきまってる。なのに、アタイみたいに取り乱したり、コックリみたいにめそめそ泣きじゃくったりもしていなかった。まるで姫の強い使命感をそっくり受け継いだかのように毅然として、最後まで葬儀を取り仕切っていた。あいつはまちがいなく本物の学園長だ」


 チクリン校長は、姫に代わる理事長の要職まで自分で引き受けてこの一年間やってきた。もしかしたら、人眼もはばからずに思いっきり泣くのは、これが初めてかもしれなかった。

 あたしはねばり強さが身上の長距離ランナーだ。彼女の嗚咽がおさまっていくのをじっと待ちつづけた。


「埋葬しなかったんですね」

 わたしが言うと、チクリン校長はコクンとうなずき、ようやく顔を上げた。

「だって、なんにも終わっていないのヨ。学園のことだって、自分のことだって、何一つもうこれでいいってところまでたどり着けてたはずがないのヨ。心残りがいっぱいあるにきまってる。だからこうして、姫のきれいな姿も、彼女の居場所だった執務室も、そのままにしてそっと残したの」


 そうか。チクリン校長にとって、時間は一年前で止まったままなのだ。毒リンゴを食べて死の眠りについた白雪姫を埋葬できなかったドワーフたちのように、悲嘆にくれながら奇跡が起こるのをひたすら待ちつづけていたにちがいない。


 だけど、そんなことが現実になるはずがない。いったいどうやったら姫の思いや願いがかなったことになるのだろうか?


「まっ先にあたしが駆けつけたとき、姫はもう苦しさを通り越してしまって、紙のように血の気のない顔をして息も絶え絶えだったのヨ。最後にやっと口にしたのは、『学園を頼む』でも、あたしたちへの別れの言葉でもなかったの」


「何て?」

「姫はあたしの耳元にこうささやいたわ。『一年経っても妹の礼子が姿を現さなかったら、どうか彼女を探し出してほしいの。手がかりは〝恋文屋ローレンス〟……』と」

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