Ep.1 HARUNA 3

 特別入学許可証に受理の署名と捺印をすますと、チクリン校長は顔にママの満面の笑みを浮かべて立ち上がり、しぐさには学園長らしい威厳をこめてあたしの手をしっかりと握りしめた。

「おめでとう。これであんたは、晴れて聖エルザ学園に合格したわ!」


「えっ。もう終わりなんですか? あたしはまた、これからいかめしい顔つきの偉そうな先生たちが何人も居並ぶところに出て、緊張しながら面接を受けなきゃいけないとばかり思っていたのに」

「そうよ、一般の推薦入学志願者ならネ。だから、あんただけ日を三日早めたの。それと、今日は特別な日だから――」

「とくべつ?」


「こちらへいらっしゃい」

 チクリン学園長は廊下に出て、あたしの前を進みながら小声で話しはじめた。

「あんたも、ちょうど一年前に起こったことは憶えているでしょ、ハルナ」

「というと、もしかして……」


「ええ。あれは、あたしたちクルセイダーズの仲間にとって……いいえ、聖エルザ学園に集う生徒や教師はもちろん、この三〇年の間にここを巣立っていった数多くの人たちにとっても、けっして忘れられない悲しい出来事だったわ」

 そうつぶやいたとき、ただでさえ小柄な身体がさみしそうにさらに小さく縮まっていくかのように思えた。わたしは、ちょっと伏せられたオカッパのその頭に昔はウサギの耳のヘアバンドがのっていたという話を、不謹慎にもなぜか思い出してしまった。


「学園理事長の――」

「そう……姫の死よ」

 チクリン校長は、やっとその言葉を言った。


 姫――聖エルザ学園の理事長を代々務めてきた白雪家の跡継ぎ娘で、学園を文字通り大黒柱となって支えていた白雪和子は、執務中に心臓発作で急死した。

 三人の母親は、それぞれがあたしにとっていちばん身近に感じられる人たちだったけれども、つぎに親近感を覚えるのは、なぜか彼女たちの夫でありあたしの父親である人たちよりも、姫という神秘的な人物だった。


 あたしは大事なレースを控えた強化合宿のまっ最中だった。いくら親しい間柄でも家族や親戚以外の不幸では抜けるわけにはいかず、結局葬儀にも参列できなかった。

 聖エルザは混乱をきわめ、翌日を臨時休校とせざるをえなかったという。個人を特別あつかいしない流儀だった姫の遺志にもかかわらず、在校生やその家族、卒業生たちの多くの声に圧され、白雪和子の葬儀は学園葬として盛大に執り行われたのだった。


「今日がまさに姫の命日に当たるのヨ」

「あれからもう一年……」

「ええ。大げさなことにはしたくなかったから、あたしだけこっそり黒のスーツを着ることにしたんだけど、図書館司書のキャティだってそうしてきたわ。みんな姫の死を悼む気持ちはいっしょなのヨ。ここよ、ハルナ――」

 小声でささやきながら、チクリンママは重厚なドアに鍵を差し込んだ。ドアの上の黒塗りの表示板に『理事長執務室』という文字が彫られている。

 あたしはドキリとした。

 母さんが言っていた。聖エルザの支配を目論んだ『若』――姉小路征司郎という男は、この執務室をまるでローマの宮殿の一室のように改造して根城とし、悪辣な計画を練り、手下たちに指示を飛ばしていたという。


 しかし、開かれた扉の中はひっそりとして、壁面をおおいつくす書籍類のほかには目立った装飾品もなく、来客を迎えることを想定したチクリン校長の学園長室と比べるとかなり質素な印象だった。


「姫が倒れていたのはそこヨ」

 指さしたのは、白いレースのかかったソファの上だった。レースはずれてクシャクシャだし、ローテーブルが敷物の上に横倒しになっているのは、まっ先に駆けつけたチクリン校長が姫の横にあわててしゃがみ込んで押し倒してしまったのかもしれない。


 そうすると、この部屋は一年前のあの日のまま、まったく手をつけずに保存されてきたことになる。ぐるりと見回してみると、机の上には本が開かれっぱなしだったり、書きかけのメモの横にペンが投げ出されていて、冷え冷えと淀んだ空気には人の残した気配のようなものがまだかすかに漂っているようにも感じられる。

 整理させなかったのはママの意志によるものだろうから、彼女には白雪和子が生きていた痕跡を消してしまうのが耐えられなかったのにちがいない。


 だけど、ママにはその記憶はまだ生々しすぎるのか、視線を伏せるようにして部屋を横切り、別のドアに向かった。

「こっちが記念品展示室」

 聞いたことがある。ふつうの学校なら優勝旗やトロフィーとか賞状などが自慢たらしく飾られているだけの場所だろうが、聖エルザには戦時中に女生徒たちがひそかに書きつづった『反戦詩集』なんていうものまで保存されているという。


 その部屋の窓には分厚い遮光カーテンが下ろされ、執務室よりさらに冷たい人工的な冷気が漂っていた。どこからかモーターが稼働しているような低い音がかすかに聞こえている。

(機械? いったい何のための……)


 周囲の展示棚や壁のおびただしい額縁などはそのままの印象だが、上部にガラスのはまった展示台や置物の数々は部屋の隅へと片寄せられていた。

 代わりに、中央には白い布ですっぽり覆われた大きな箱のようなものが台の上に載せられていて、それがあたしの眼をいやでも引いた。機械音はそこから聞こえているようだった。


 チクリン校長はカーテンを開け、部屋いっぱいに晩秋のやわらかい光を導き入れてから、儀式めいた神妙な手つきで白い布を取り除いた。

「あっ――」

 わたしは思わず声を発してしまった。

 金属製の頑丈そうな箱の中に安置されていたのは、姫――白雪和子の遺体だった!

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