Ep.1 HARUNA 2

「こうして抱き合うのって、何年ぶり? 四年……いえ、あなたが深川のうちに引き取られてからだから五年ぶりになるの?」

 ママはいつもながらのせっかちさで立てつづけにたずねた。

「ちがいますよ。深川のおふくろのところに行く前はミホ母さんと一年だけいっしょにいたから、ママと暮らしてたのは小学校低学年だった六年前です。でも、その後にも何回か会ってるし、ママはそのたびにあたしを抱きしめてくれたじゃないですか」


 たちまち母娘の会話になってしまったけど、あたしはいちおう受験生としての立場をわきまえて、ていねいな言葉づかいをしようと心がけた。おふくろのベランメエ調と毎日やりとりしているうちに、あたしの地のしゃべくりはすっかり男言葉になってしまってる。


「そうだったっけ……。でもまあ、とにかくカンムリョーだわヨ。あたしがこの日をどんだけ待ちわびたと思ってんの。アラまあ、あんた、いつのまにかあたしよりずっと背が高くなっちゃってるじゃないのサ」

 ママの口調のほうは、あっさりと八〇年代風オトメチックトークになった。やっぱり、ママにはそれがいちばんお似合いだと思う。おかげで、あたしも心置きなく小学校低学年の甘えんぼうの気分になれる。



 そうなのだ――

 あたしには三人の母親がいる。生みの親、育ての親、戸籍上の親とかいうんじゃなく、〝本当の母親〟が三人いるのだ。

 小さい頃、あたしは本気で三人が力を合わせて産んでくれたんだと信じていて、母親が一人しかいないどこの子より幸せだと思い、ありあまるほどの幸福を全身で感じながら育った。


 三人はそろってこの聖エルザ学園の教師だったから、授業が空いているだれかしらがかならずあたしの面倒をみて、ミルクやオムツの世話をしてくれたという。そして、あたしを背負って毎日代わりばんこに自分の家に連れ帰っていたのだ。


「母さん」と呼ぶミホ先生は英語の教師で、学園長の要職も兼ねていた。

 育ちのいい上品な女学生そのままのようなおっとりした性格で、いつも優しい笑みを浮かべている印象だった。学園のどこにでも顔を出して気軽に語りかける彼女は、少しも偉ぶるところがなくて生徒たちに慕われたという。

 あたしも母さんに叱られたり、怖い顔をされた憶えが一つもない。いけないことをして諭されたときだって、なぐさめられているか励まされているとしか思えないほど嬉しかった。


「おふくろ」のオトシマエ先生は、家業の佃煮屋を継ぐことになるまでは、いかにもの熱血体育教師だった。

 体罰はさすがにしなくても、眼をつけられたら授業でコテンパンにのされるにきまっている。汗にまみれたグラマーな肉体美に青臭い妄想を刺激される男子もいただろうが、軟弱な生徒はたいがい恐れをなしていたらしい。

 でも、あたしには大きな乳房は気持ちいいクッション代わりだったし、その背中はぐっすり安眠できる揺りかごだった。


 三人めの「ママ」がこのチクリン先生。

 技術家庭科の教師で、長崎の料亭の娘という生い立ちにふさわしく料理の腕はシェフ並み。それより得意なのは工作で、ノコギリやハンマーを自在に振り回してデッキチェアでも本棚でもたちまち作り上げてしまうという器用さだった。あたしが今も使っているベッドや勉強机は、ぜんぶ彼女のお手製だ。

 小学生がそのまま中学生に、高校生になり、とうとう大人になってしまったような外見のこの人があたしを抱いたりおぶったりしてくれたなんて、今では想像もつかないが、こうして抱き合った感触はまぎれもなくママのものだ。


 成長してよけいな知恵はたくさんついたけれど、頭がどれだけ常識に支配されようが、あたしにはまったく疑う余地のない〝母親〟の肌のぬくもりが、まちがいなく三つあるのだった。



「そーか。ミホが双子の男の子を妊娠したのがわかったのと、旦那さんの若松クンの海外勤務が決まったのが同時で、ミホはしかたなく聖エルザを休職してヨーロッパについて行くことにしたのヨ。それで、三年間ずつあんたを育てるって予定がくずれてしまい、一年だけあんたを預かっていたミホから、オトシマエが前倒しで引き取ったんだったわネ。そのときあたしがミホの代わりに学園長になったんだから……ああ、あれからもう五年も経っちゃったんだ」

 ママ――チクリン先生は感慨深そうにため息をつき、あたしを来客用のソファに座らせた。


 学園長のチクリンママは、テキパキとあたしの入学願書や添付の必要書類をチェックし、どんどんハンコとか署名を片付けていく。


 彼女がミホ母さんの後任の学園長に任命されたときには、だれもが驚いたという。

『あいつがミホの代理? ジョーダンだろ。あいつは、おしゃべりでヤバいことを平気でチクるからチクリンて呼ばれてたんだぜ。学園長ってガラかよ』

 おふくろは腹を抱えて笑ったものだった。

 たしかに、学園長どころか、へたをすると中等部の生徒に間違えられかねないほど、見かけも言動も行動もおよそ教師らしくなかったからだ。


 しかし、意外なことにチクリン先生は、本人がまったくそれ以前と変わったわけではないにもかかわらず、堂々たる学園長ぶりを発揮した。

 マイペースさは決断の早さと迷いのない意思の強さに、気安く話しかけることができて冗談さえ言えるキャラは生徒や教師との垣根をなくすのに大いに貢献した。不思議なことに、ミホ先生にはまったく備わっていなかった学園長らしい威厳さえ、チクリン学園長にはそこはかとなく感じられるようになってきたという話だ。

 今では、全校朝礼のあいさつが終わるときまって万雷の拍手が巻き起こるほどの人気ぶりだというし、だれも小栗学園長なんていう堅苦しい言い方はせず、「チクリン校長」と親しみをこめて呼びかけるのだという。


「あれ? これでいいのかなァ。なんかもう一つ足りないよーな……」

 チクリンママが、一度きちんとそろえた書類の束をまためくり返している。


「あっ、いけね。あれだ!」

 あたしはバッグの内ポケットに入れてあったものをあわてて取り出した。

「そ、それヨ。あー、よかった。あんた、あたしと同じ目に合うところだったわ」


「同じ目?」

「そう。『特別入学許可証』は、学園長か理事長の特権で数年に一度くらいしか発行されないものなの。これがあれば無試験無審査で聖エルザに入学できる。なのにあたしはあこがれの東京に行けるって完全に舞い上がっちゃってて、そんなもの持たされてることにちっとも気づかず、編入希望の手強いライバルたちとまともに張り合うことになったワケ。しかも、敵がさし向けた超強力な刺客までまぎれ込んでたの」

「ほんと!」


「あら、オトシマエから聞いてない?」

「ええ。おふくろは思い出話なんかする柄じゃないですから」

「いえてるわネ。そのとき親身になって面倒みてくれたのが、オトシマエ。あたしは持ち前の強運と実力で受かったんだと言い張ってきたけど、今となれば素直に認められるわ。彼女が助けてくれなかったら、あたしはこの学園の生徒になれてなかったばかりか、命さえアブナかったのヨ。ましてや、そのあたしが学園長になっちゃったなんて。歳月はそんなイタズラもしちゃうものなのネ」


 なつかしそうに潤んだ眼をして虚空を見上げるチクリン校長に、あたしは吹き出しそうになるのを必死にこらえた。出がけにおふくろが「そのマヌケにもうすぐ会うことになるんだよ」と言ってた意味がようやくわかったからだ。





    

 

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