Episode 1 St. Elza Revisited ―― 少女、学園へ還る

Ep.1 HARUNA 1

 狭い洗面所の鏡に向かい、顔をピシャンピシャンと叩いて気合いを入れた。

(よおし、なかなか凛々しいぞ――)

 それからニカッと笑顔もつくってみる。

(そうそう、この感じだ。アピールするにはまず、女はあいきょう……)


「ハルナぁ。支度できてんのか!」

 店の厨房から、愛嬌とはまるで無縁な怒鳴り声が聞こえてきた。

「うん。とっくに!」

 あたしは慣れた手つきでシューズのひもを結び、バッグを肩にかけて店の土間に出た。

 

「なんだ、そのカッコ?」

 おふくろが仁王立ちしてあたしを見下ろした。長身でたくましいくせに無駄な肉がいっさいついていないグラマーだから、そうされるといつも圧倒されそうになる。

 あたしは自分の姿を確認した。まちがいない。いつもどおりの登校スタイル――ジョギングウェアだ。


「おまえなあ、今日がどういう日かわかってんのか? 推薦入学の面接試験だぞ。ちゃんと制服着て行かなきゃダメだろうが」

「わかってるよ。教科書とかいらないから、空っぽのバッグにきちんとたたんで入れてある。近くまで行ったらどこかで着替えるんだ。心配ないって。じゃあ行ってくる」

 捨てゼリフのように言って前を通り過ぎようとすると、いきなり首筋をつかまれた。


「待て。おまえ、神棚の上を見てねえだろ。いちばん大事なものを忘れてるゾ」

 あたしはアッと声を上げ、ピュッと回れ右した。

『宇奈月春菜様』と墨色も鮮やかに宛名が記された封筒がのっていた。

「そいつがあるのをすっかり忘れてさんざん苦労したあげく、あやうく不合格になりかかったやつもいるからな。いいか、絶対落とすんじゃねえ」

「わかった。そんなマヌケじゃないよ」

「そのマヌケに、もうすぐ会うことになるんだよ」

 苦笑しながらわけのわからないことを言うおふくろに見送られ、あたしは表に飛び出した。



 大通りに出たところで習慣で腕時計のストップウォッチに指をかけたけど、思い直してスイッチ入れるのをやめた。いつもとはコースも距離も違っている。時間を測っても意味がない。ちゃんと地図見て下調べしたから、迷うようなことはないはずだ。それに、指定された時刻は一〇時だ。ゆっくり流しても十分間に合うだろう。


 冬の到来を予感させるような、冷え込んでくっきりと高く晴れ上がった朝だった。長距離ランナーには最適な季節だ。あたしは川面を渡ってくる横風を心地よく頰に感じながら隅田川にかかる橋を疾走し、都心に入っていった。


 山手線をくぐるまでは大渋滞で歩行者も多く、なかなか思うように進めない。信号待ちで足踏みしていると、身体にぴったりフィットしたスパッツにつられて、案のじょうイヤらしい手が伸びてきた。ビックリしたふりをして間髪入れずにヒジ打ちを食らわす。

「あ、ごめんなさぁい」

 中年のサラリーマンはしたたる鼻血を押さえてグウの音も出ない。ザマアミロ。

 おふくろは、あたしと同じ中三の年に全日本女子空手で優勝した経験の持ち主だ。これくらいの早ワザはあたしには朝飯前だ。


 皇居の周回道路はジョギングのメッカだから走りやすいだろうと思っていたが、まっ昼間なのにジョガーの群れがゾロゾロいる。それをかき分けながらスピードを維持するのがむしろ大変だった。半蔵門から新宿通りへ折れると、まもなく目的地に着く。


 中央線が下を通過していく四ッ谷駅の広い陸橋の上に立ち、息をととのえながら汗が引くのを待った。そこからは、外濠公園の木立ごしに赤いレンガ造りの一群の建物が眺められた。あたしを待っている新しい学校、『聖エルザ学園』だ。


 塀に沿って静かな通りを歩いていくと、ようやく正門が見えてきた。守衛室で受験票を示した。どこかに電話をかけて確認し、すんなり通してくれた。


(これが、あこがれの聖エルザかァ)

 校門を一歩入っただけで大都会の喧騒がかき消え、まるで別世界のような落ち着いたたたずまいの空間が広がった。ポプラやイチョウの古い巨木からはひらひらと枯葉が舞い散り、左右の建物の間を優雅にぬって蛇行する舗道を色あざやかなジュータンのようにおおいつくしている。さすがは伝統と格式を誇る名門校の風情だ。


 あたしがここに来るのは、実は初めてじゃない。だけど、どこを見回しても記憶にある風景はぜんぜんなかった。自分に深いゆかりのある場所なのだと、ずっと聞かされて育ってきただけだ。

(かまいやしない。あたしが生徒として通うのはこれからなんだから)


 あたしはドキドキしながら指示された建物に入っていった。管理棟というところらしく、廊下の左右に各学科の教務室が並んでいる。途中にある木製の古い階段を昇って三階へと達する。学園長室はすぐにわかった。ノックすると一呼吸おいて応えがあった。

「入って」

 くぐもっているが耳に心地よく馴じんだ声だった。


 背の高い重いドアを引いて中に入ると、後ろ姿の人影が一つあるきり。

「宇奈月春菜です。推薦入学の面接を受けに参りました」

 あたしは一言ひとことはっきりと、持ち前の元気さが伝わるように声をかけた。


 学園長はこちらに背を向け、大きな執務机をはさんだ窓際に立っていた。その窓からは学園が一望でき、真下に中庭が見下ろせる。もしかすると、舗道を歩いてくる自分の姿を見られていたのかもしれない。


「歳月っていうのは、ある意味ザンコクなものヨ」

 彼女はいきなり、ポツンとそんなことをつぶやいた。

 あたしはどう言葉を返していいかわからず、そのまま黙って聞いていた。


「とくに、厚い友情や信頼に結ばれて、特別あつらえの濃密な時間を共有した仲間たちにとっては、ネ。あれがクライマックスの瞬間だとしたら、その熱はどんどん冷めていくばかり。口にする思い出だって手あかがついちゃうし、いつのまにか色あせていってしまうものヨ。このごろはちょっぴり寂しさも感じるの。そして気がついてみると、仲間と会う機会もずいぶん間遠になってしまってる――」


 ようやく、あたしにも彼女が何を言おうとしているかがのみこめてきた。

〝あれ〟というのは、三〇年前にこの学園で起こった一連の出来事のことだ。

 学園長と、そして彼女が〝仲間〟と呼ぶ人たちは、一人の例外もなく、あのことをけっして「事件」とは呼ばない。何が起こったかではなくて、そのとき自分が何を感じ、どんな場面でだれとどう行動したかということのほうが、ずっとリアルで大切だからだという。


 そうやって薄れていく記憶を惜しんで追いかけるような眼差しを、彼女たちはときおりする。すると、あたしは置いていかれたような気持ちになり、彼女たちが今というこの場所にもどってくるのを黙ってしんぼう強く待ちつづけることになる。あたしが育ってきた時間というのは、ある意味ではそういうものだった。


「ごめんネ。あなたがとうとう聖エルザにやって来る日が来たんだと考えはじめたはずなのに、いつのまにかずっと昔のことに心がさらわれてしまっていたわ。でもね、あなたという存在がいるからこそ、あの遠い遠い日々が確実にあって、そしてちゃんと今日という日につながっているんだと実感できるのヨ。あなたは、あたしたちがまちがいなく仲間だったという大切な証しなの――」

 彼女の声のトーンが急に上ずった。クルリとふり返った大きな眼には、涙がいっぱいにたまっていた。


「よく来たわ……いいえ、よく帰ってきてくれたわね、ハルナ!」

 胸の奥からやっとしぼり出すように言うと、フワリと身をひるがえして執務机の横をすり抜け、あたしをヒシッと抱きしめた。


「ママ!」

 あたしもたちまち涙声になっていくのがわかった。

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