Ep.1 CHICKLIN

 ハルナを先に行かせると、あたしはていねいに白い布を元どおりにかけ、ふたたびカーテンを閉じて理事長執務室へもどった。


 この部屋をあの日のままで保存したいと望み、いっさい手を触れずにきた。なのに主を失った空間はホコリが積もり、空気がよどみ、何もかもがバラバラにされてしまったかのように無情に荒れ果てていく。


 姫のために、と思ってそっとしといたはずなのに、実は、自分が一人で取り残されたんじゃないと思い込みたくてそうしてきたんじゃないか――そんな風にふと考えてしまったりする。


 姫ならこうするだろう、姫ならこう言ってくれるだろうと、つねに姫が背後からあたしを支えてくれてると信じ、一年間なんとかやってきた。問題なく過ごせたのは、姫が遺した学園の形がしっかりとしていたおかげだ。あたしの手柄にできることなんてこれっぽっちもない。


 だけど、姫の存在は、この部屋と同じように時々刻々と光が失せていき、たそがれていこうとしているのだ。そのことを、一年ぶりにドアを開けてみてドキリとするほど強烈に感じた。正視できずに足ばやに通り過ぎてしまったのはそのせいだ。


 そして、ハルナといっしょに見た姫の遺体。

 あらためて姫がもう生きてはいないのだと思い知らされた気がする。あんなに泣きじゃくったのは、姫が亡くなって以来初めてのことだった。ハルナがいてくれなかったら、棺にすがりついたまま二度と展示室から出てこれなかったかもしれない。


 あたしは思い直してポケットからケータイを取り出した。コールした相手はすぐに出た。

「おお、チクリンか。これから店がかきいれどきなんだ。要件は手短に頼むぜ」

「わかった。ハルナに合格を伝えて帰したところヨ。姫とも会わせてあげたわ」

「そーか。今日は姫の命日でもあったんだな」

 初めて気づいたような口ぶりだが、そうでないことは声の感じでわかる。


「姫の遺言のことも教えてあげたわ。……ねえ、あたしたち、たとえ何があってもハルナの母親でいようネ。約束してくれる?」

「なにをあらたまって……もちろんじゃねえか」

 単純なオトシマエだから、たちまち声が湿っぽくなった。

「ありがとう」

 あたしは心からそう言って通話を切った。


 もう一本電話をかける。

 相手が出ると、あたしはほぼ同じ内容のことを伝え、最後につけ加えた。

「……もしそうなったら、お願いネ」

「わかった」

 電話のむこうの声は短く言って切った。


 これで止まっていた時間が動きだすことになるだろう。聖エルザは、新しい時代に向けて歩み始めるのだ。


(あたしも歩きだすわヨ)


 涙の跡をツバをつけたハンカチでふき取り、あたしは執務室のドアを押し開いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る