3話「日曜日の結末」⑥-1


       6 七月一六日(日曜日)――新しい日



 七月一六日、日曜日。よく晴れた空に、ケイは飛行機雲をみつけた。

 小さい頃に比べて、飛行機雲をみつける確率がずっと低くなったような気がする。そういう種類の飛行機が、最近あまり飛ばなくなったのだろうか。それともただ、空を見上げることが少なくなったのだろうか。

 久しぶりに腕に巻いた時計に目をやる。一一時四三分、七秒、八秒。秒針が進んでいく。時間は正確だ。今朝時報を聞きながら合わせたから間違いない。正確な一秒間は、思い描いていたよりも少しだけ長かった。

 ケイは春埼と共に、河原に立っていた。日差しは強い。予報によれば、今日は真夏日になるだろう、とのことだった。秒針が真下を指したころ、石を踏む音が聞こえて、村瀬陽香が現れた。


「いい天気ですね」


 と、ケイは村瀬に声をかける。彼女は楕円だえん形のレンズの向こうから、まっすぐな瞳でこちらを睨みつけている。何度もみた目だった。

 ケイはもう一度、空を眺めた。飛行機雲は山や川と同じように、安定してそこに浮かんでいる。もう少ししたら消えてしまうなんて、きっと誰も信じない。空を見上げたまま、ケイは尋ねる。


「どうしても聞きたいことがあったんです」


「なによ?」


「リセットをしなければ、あの猫は本当に事故に遭っていたんですか?」


 猫の事故は、リセットで消えた。ケイは事故を確認していない。なら世界中でそのことを知っているのは、おそらく村瀬だけだ。

 硬い口調で彼女は言う。


「どうでもいいわ。そんなこと」


「いえ」


 ケイは首を振り、正面から彼女の瞳をみつめる。


「大切なことですよ。なによりも、大切なことです」


 村瀬陽香は、飛行機雲ほど安定しているようにはみえなかった。初めて顔を合わせたときから、彼女の硬く、まっすぐな視線は、ある種のもろさを内包しているように感じていた。前だけをじっとみていたなら、空の飛行機雲もみつけられない。


「どんな意味があるっていうの?」


「僕がこの数日間に満足できるのか、できないのかが決まります」


「つまらないことにこだわるのね」


 彼女はわずかに口元に力を込めて、答える。


「事故は本当に起こった。猫は死んだ。――これで満足?」


「はい。ありがとうございます」


 ケイは微笑む。

 それから、心の底から、言った。


「手を組みましょう、村瀬さん。僕たちは今から、仲間になりましょう」


 元々は、村瀬の方から提案してきたことだ。なのに彼女は、不満げな様子で眉をひそめる。


「本気で言っているの?」


「もちろん、本気です。でも」


「でも、なによ?」


 彼女の声は、とげがあるというよりは、もっと自然にざらついていた。やすりがかかっていないような、感情がにじむ声だった。無理に言葉に当てはめるなら、怯えているような。思い返せばずっと、彼女はそんな声で話していたような気もする。


「僕はまだ、貴女を信用していないんです。貴女が管理局よりも強いと、確信を持てないんです」


「私の能力は最強よ」


 こちらを睨みつける彼女に、ケイは微笑んで返す。


「なら、テストさせてください」


 断られはしないだろう。彼女は自分の能力に自信を持っている。一方で、本心からケイたちを求めている。非通知くんと皆実のことがあるから、リセットはどうしても欲しいはずだ。それにきっと、独りきりで管理局と戦えるほど、意志が強いわけじゃない。あるいは異常じゃない。

 彼女は長い時間、じっとこちらを睨んでいた。その表情に見慣れてくると、彼女の怒りや苛立ちは、ただ拗ねているだけに思えてくる。よくみれば村瀬は童顔だった。


「なにをさせるつもりなの?」


「貴女の得意なやり方ですよ。能力を使って、勝負しましょう。相手にギブアップと言わせた方の勝ちです」


 村瀬は顔をしかめた。


「あんた、馬鹿なの?」


 きっとそうなのだろう。ケイは答えず、首を傾げてみせる。

 彼女はしかめた顔のままで言う。


「ともかく、あんたに勝てば、仲間になるのね?」


 きっと彼女は、こちらがうなずくと思っている。確認というより同意させるために質問している。そんな小さな安心感を拾い集めたがる、繊細な心理を彼女は持っている。

 けれどケイは首を振る。


「違いますよ、村瀬さん。テストの結果なんかに関係なく、僕たちは手を組みます。でもね、もし貴女が僕にも勝てないようなら、管理局に勝てるはずがない。やり方を変えなければならない」


「なにが、言いたいの?」


「貴女が勝てば、僕は貴女に従う。でも僕が勝てば、貴女には僕が考える方法で管理局を倒してもらう」


「つまりリーダーを決めようってこと?」


「そう考えてもらってかまいません」


 村瀬はしばらく、沈黙した。ケイはちらりと時計をみた。


「あんたの考える方法って、なによ?」


完璧かんぺきな作戦があります」


 ケイは大げさに笑ってみせる。


「村瀬さんにはまず、学校に来てもらいます。そして真面目な生徒として、学生生活を送る。奉仕クラブにも積極的に参加して、管理局にはちっとも疑問を抱かせず、優等生として卒業して――大学には、進んでも進まなくてもかまいません。ともかくどこかのタイミングで、管理局に就職しましょう。そして内部から、ひとつずつ議論して、管理局のルールを変えていく」


 つまり彼女のお兄さんと同じやり方だ。もし彼が事故で亡くならなければ、村瀬も同じ方法を選んでいたのではないだろうか。

 村瀬は一層強く、こちらを睨む。吐き捨てるように言った。


「あんたも結局、津島と同じなのね」


「まったく違う。貴女がテストに合格すればいい。簡単でしょ?」


 村瀬はもう、顔をしかめなかった。じっとこちらを睨みつけていた。


「本気で言ってるのね?」


「もちろん」


 だから嫌になる。本当にこれは正しいことなのだろうか。昨日から繰り返し考えたことだった。正しいわけがない。でも、やるべきだと決めたから、実行する。


「さっさと終わらせるわ」


 小石を踏みつけて、村瀬がゆっくりとこちらに近づく。

 ケイは笑みを浮かべたまま、手を銃の形にして彼女に向ける。


「春埼、セーブ」


 コールしてから、ぱあんと銃を撃つマネをする。

 それを合図に、村瀬が歩みを速めた。


「七月一六日、一一時四八分、一七秒です」


 春埼の声を聞きながら、ケイはゆっくり笑みを消した。

 村瀬は躊躇ためらいのない足取りで目の前まで近づいて、コールする。


「人差し指の爪、人体」


 言い終わると同時に、彼女は右手を突き出す。半歩下がれば避けられただろう。でもケイは、手のひらでそれを受け止めた。激痛が走る。村瀬の指が、皮膚に突き刺さっている。彼女があまり爪を伸ばしてなくてよかった。それでも血が流れ出し、手首まで垂れる。生ぬるくて気持ち悪い。

 ケイは表情を変えないように注意して、言う。


「こんなものより、ナイフの方がずっと怖い」


 村瀬は目を見開いて、数歩後ずさった。血のついた自分の右手を眺めている。そのあいだにケイも少しだけ距離を取る。


「もう止めなさい」


 と、村瀬は言った。


「どうして? まだ始まったばかりです」


 右手、人体――と、彼女はコールし直した。


「次は手首までなくなるわよ?」


「それは大変ですね」


 ケイはさらに距離を取る。時計に視線を向けた。一一時四九分一五秒。時間の進み方が遅く感じる。

 村瀬はまた一歩、足を踏み出した。だが、ケイが口を開くだけで二歩目は止まった。


「どうして僕たちに、猫を助けて欲しいと依頼したんですか?」


 彼女は人を傷つけることを怖れている。時間を稼ぐのは、難しくない。

 律儀に、彼女は答えた。


「昨日も言ったでしょ。リセットを私の能力で打ち消せるのか、試してみたかった」


「それは嘘です」


 自信を持って、ケイは断言する。


「貴女は本当に、純粋に猫を助けたかったんだ。そうでなければリセットをしたあとにわざわざ猫を探しに行ったりしない。自分の部屋に連れて帰って、背中をなでたりしない」


 今度はケイの方から、村瀬に近づく。


「水曜日、壁の穴はふたつの時間帯に目撃されています。川原坂の周辺でみつかったのは、午後七時ごろ。これは貴女が、非通知くんを捜していた時間です。もう一方は商店街の近くの公園で、午後三時ごろ。あの猫がいた公園です。貴女は非通知くんを捜しにいくよりも先に、まず猫を確保した。なによりも猫を優先した」


 ケイは初めから、村瀬の依頼に不信なものを感じていた。それでも依頼を断ろうとは思わなかった。一匹の猫が救われるなら、それは幸せなことだから。ただそれだけで、あの依頼を投げ出すわけにはいかなかった。

 その判断は間違っていなかったと、今なら確信できる。彼女を疑ったことに、罪悪感さえ覚えている。


「ねぇ、村瀬さん」


 できるだけ感情的にならないように注意しながら、ケイは呼びかける。


「僕たちは初めから、手を組んでいたんだ。もう僕たちは一緒に、あの猫を助けているんだ」


 それだけで、この少女と顔を合わせたことには、意味があったのだとケイは思う。同じようにすればいい。これからも、ずっと。


「そんな話を、してるんじゃない」


 村瀬の声は小さかった。でも悲鳴のように聞こえた。彼女は右手を振り上げる。ケイの頬を叩く軌道でそれは近づいてくる。でも、とても遅い。ケイは恐怖心を抑えてぎりぎりのタイミングで、身をひねった。村瀬は目を見開いていた。――当然だ。ほんの少し触れるだけで、こちらは死んでしまうのだから。

 空中で止まった彼女の腕をつかむ。怖かった。彼女がコールした「手」というのが、どこまでを指しているのかわからない。でも手首より七センチほど手前は、彼女の能力が定義する手ではないようだった。

 目の前で、ケイは続ける。


「貴女がなぜ、二度目のリセットで記憶を失ったのか、わかりますか?」


「たまたまよ。私はそれほど、リセットを警戒していなかった」


「村瀬さんの能力の効果時間は、ちょうど五分ですね? それよりも、長くも短くもない。一度使うと解除できず、効果時間が終わると使い直さなければならない」


 それくらい、彼女の行動をみていればわかる。


「だから、なんだって言うのよ?」


「効果時間が五分では、たとえば貴女が眠っているあいだにリセットすれば、それを打ち消せない」


 村瀬はケイの手を振り払い、無理に笑う。


「それが私の弱点だって話? つまらないわね」


 ケイはまるで村瀬みたいに、まっすぐに彼女をみる。


「貴女はきっと、そんな勘違いをしているんだろうと思ったんです。でも違う。あのとき、僕たちは貴女の目の前で、リセットを使った。リセットの直前、貴女が能力を消すためにコールしたのを、僕は聞いています」


 村瀬は首を振る。


「あり得ない。一度目は、確かにリセットを消せた」


「ええ。本来なら、あり得ない」


 リセットと村瀬の能力の優劣は、すでにはっきりしている。彼女は確かにリセットを消せる。効果が矛盾した場合、村瀬の能力が優越する。管理局の評価基準を使うなら、リセットよりも村瀬の能力の方が、強度が高い。リセットの後、彼女の能力でつけられたケイの右手が治っていたけれど、それはふたつの効果が矛盾しなかったからだ。なんでも貫く矛に対し、あらゆる攻撃を防ぐ盾は矛盾するが、どんな傷でも治す薬であれば矛盾はない。傷つき、治る。それだけだ。

 でも二度目のリセットの直前、彼女はリセットを消そうとした。全身、能力――と、彼女がコールした声を覚えてる。効果が矛盾したなら、リセットは消え、彼女の記憶は残るはずだった。


「あのとき、どうして貴女と僕たちが、一緒にいたかわかりますか?」


「知らないわよ。どうせ、津島がなにか企んだんでしょ」


「まったく違う。貴女の方から、僕たちに会いに来たんです」


 目の前の村瀬にはきっと、想像もできないだろう。自分自身の心理だとしても、実際に体験してみなければ、彼女には受け入れられないだろう。


「貴女は、僕たちを殺すと言った」


 記憶の中で、あの村瀬だけが異質だった。いつも切実な村瀬が、いつにも増して切実だった。この脆さを内包している少女は、あのときがいちばん、脆そうにみえた。まるで必死で、すがるようだった。


「貴女は自分がしたことで、皆実さんが死んだことを知ったんです。貴女が原因で、非通知くんが皆実さんを殺したことを、津島先生から聞いたんだ。だから、僕たちを襲った。必死に僕たちを脅して、リセットすればあの事件がなかったことになると思った」


 村瀬陽香に、人を殺す理由はない。

 それでもケイたちを襲ったなら、リセットが目的だ。


「嘘よ」


 彼女はいつものように、こちらを睨む。まるで周囲から目を逸らすように、ただまっすぐに前だけをみる。


「だとしても、私がリセットの効果を受けるわけがない。あり得ない。全部、嘘よ」


 違う。それこそが、真実なんだ。あのときリセットを消せなかったことが、この子の弱さの象徴なんだ。

 ケイは言った。変に感情的にならないように気をつけながら。


「能力は、使用者が望めば発動する」


 こんなものはルールとも呼べない、当たり前のことだった。


「望まなければ、発動しない。貴女はリセットを、打ち消したくなかったんだ」


 村瀬陽香は、自分のせいで人が死んだことを受け入れられるほど、強くはなかったのだろう。ろくに知りもしない少女の死を、忘れてしまいたかったんだ。これ以上に自然な答えを、ケイには思いつけない。


「そんなはずない」


 彼女は首を振って、またケイを睨む。


「一度起こったことを忘れて、どうなるっていうのよ」


「忘れられれば、悩みがひとつ減ります」


 それは幸せなことだと思う。本当に。

 村瀬は叫ぶ。


「私は、そんなに弱くない」


 ケイは思わず、つぶやいた。


「どうして」


 弱いのは、問題じゃない。

 弱さとは感度だ。ある事柄について良好な感度が、弱さと呼ばれる。痛みに対する感度。恐怖に対する感度。そして悲しみに対する感度。

 人は本来、悲しみに弱くあるべきだ、とケイは思う。悲しみの感度が良好だということは、つまりそれだけ優しいということだ。人の優しさには、無条件で肯定されるだけの価値がある。

 なのに、どうしてだろう。本当に肯定したいのに。正しいと信じているのに、ケイはその弱さを打ち砕こうとしている。ひどい話だ。まったく、嫌になる。

 腕に巻いた時計を見る。一一時五四分、三八秒、三九秒。


「ギブアップしてもいいですよ」


 と、ケイは言った。


「どうして、そうなるのよ。あんたはただ逃げ回っているだけじゃない」


 村瀬は「全身、人体」とコールした。


「これでもう、腕をつかむこともできない。あんたは私に、触れることすらできない」


「それは貴女も一緒でしょう」


「すぐに捕まえるわよ。あんたなんか」


 ケイはため息をついて、首を振った。


「そういうことじゃない。貴女あなたはその手で、僕に触れることができない。触れたら僕が死んでしまうから。それとも、時間がたてば元に戻るから、触れてみますか?」


 戻ったところで意味はないだろう。手のひらの傷はもう塞がっていた。しかし流れた血液は、腕に付着したままだ。たとえば胸に開いた大きな穴が、いずれ自然に埋まったとして、それまでに流れた血は戻らない。再び心臓が動き出すこともないはずだ。


「あんたなんか、どうなってもいいわ」


「なにを言ってるんですか。これは、僕たちが仲間になるためのテストでしょう? 殺しちゃったら意味がない」


「もういい。仲間なんていらない」


「だめです。僕は貴女の仲間になります」


 ケイは笑う。最低だ、と思った。それでも続ける。


「ほら、貴女の能力が、管理局に逆らえるくらい優秀なら。さっさと僕に、ギブアップさせてみせてくださいよ」


 村瀬はこちらに手を伸ばす。ケイはその手をかわして、距離を取る。彼女の動作は、また一段と緩慢になっていた。巣から落ちた鳥の雛をそっと手のひらに抱くような怯えが、全身にまとわりついていた。

 意地になったように、繰り返し彼女はケイに向かって手を伸ばす。本心では彼女が望む通りに、ケイはその手をかわし続ける。それはひどく簡単な作業だった。こちらの反応が遅れるたびに、彼女の方で手を止めてくれるのだ。強力な能力を使うほど、彼女の動きは制限される。彼女の心が、制限になる。

 時計を確認すると、一一時五五分を回っている。目的はほぼ達成した。


「貴女は、なんの力も持ってないんだ」


 ぎこちないダンスみたいに、彼女と向き合ったまま言葉を投げかける。


「人を傷つけるための力を、人を傷つけることに使えないのなら、そんなものないのと変わらない」


「違う。私は昨日、あの女の子を斬った」


「そうですね。皮をほんの少しだけ。そんなこと、ペーパーナイフにだってできる」


「手加減しただけよ」


「手加減せざるを得ないなら、それが全力ですよ」


 時計は回り続ける。すべて、予定通りに進行している。


「あんたたちの力なんて、初めからなにもできないじゃない」


「そんなことはない」


 ずっとひどい。二年前、ひとりの少女を殺した。これから、村瀬陽香に治らない傷をつける。

 足元には、血がついた石があった。手のひらから流れた血だ。初めに立っていたところまで戻ってきたようだった。時間は一一時五六分一七秒。ちょうどいい頃合いだ。

 ケイは、その場に転倒する。足をすべらせて、地面に背中を打ちつける。


「動くな」


 と村瀬が言った。映画なんかでよくある、動くと撃つ、という奴ではない。もっと優しい警告だろう。危ないから動かないで。両足がケイの身体をまたぐ。

 彼女はケイの顔を覗き込んだ。


「つかまえた」


 ケイは首を振って、春埼をみる。

 少し離れたところに立つ彼女は、無表情ではなかった。悲しげにこちらをみていた。ごめん、と胸の中で謝る。無意味だとしても。


「春埼――」


 ケイが彼女の名前を呼ぶのと同時に、村瀬がコールする。


「全身、能力」


 こちらを覗き込む村瀬の顔も、やはり悲しげだ。――ねぇ、ふたりの女の子を悲しませることが、正しいはずなんてないだろう? 僕はいつだって、なにかを間違い続けている。

 村瀬は言った。


「リセットは無意味よ。状況は変わらない。気づいてた? ここ、セーブしたときにあんたが立っていた場所だもの」


 村瀬はもう、コールした。彼女はリセットの影響を受けない。たしかにリセットを使ったところで目の前にケイが現れるのなら、その対処は容易だろう。

 ケイは答える。


「違いますよ。二歩、ずれています」


 村瀬の表情に、苛立いらだちが走る。


「それがなんだっていうのよ? リセットしたところで、あんたが現れるのは一歩踏み出せば手の届く範囲だわ。リセットしたすぐ後に、私は攻撃できる」


「本当に?」


「一度発動した能力は、五分間消えない。そのあいだにまた使えば、能力の効果は消えることがない」


「そうじゃない。そんなことは知ってます。貴女は本当に、攻撃できますか?」


 ずっと、その話をしているんだ。

 能力の強弱ではなくて、一連の出来事の真相ではなくて、正しい管理局の在り方ではなくて。村瀬陽香の話を、しているんだ。

 彼女は返事の代わりに、ケイの顔に向かって右手を伸ばす。彼女は気づいているだろうか? 自身の、恐怖に引きつった表情に。その胸の鼓動も聞こえてくるような、悲愴な表情に。

 人差し指が、ケイの前髪に触れる。音もなくそれが消える。皮膚と皮膚の距離はもう一センチ程度だ。もちろん彼女は、そこで手を止める。


「まだ、あんたはくだらないことを喋れるかしら?」


 手のひらで隠されて、村瀬の表情はみえなかった。みるまでもない。彼女の細い首筋を汗が流れて、涙のように落ちた。


「ひとつだけ。伝えておくことがあります」


 吐く息までは消えないのだろう、ケイの声に合わせて、村瀬の手が震える。


「津島先生から聞いていますか? 僕が指示しなければ、春埼はリセットできない」


「それが、一体――」


「村瀬さん。ギブアップしても、いいんですよ」


 言って、ケイは覚悟を決める。

 最期に考えたのは、春埼美空のことだった。これまでみてきた、彼女の様々な表情を順番に思い出した。それから胸の中でもう一度、ごめんなさいとつぶやいた。

 息をとめて、ケイは身体を起こす。

 結末がわかりきっていたテストを、予定通りに終わらせる。

 目は閉じなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る