3話「日曜日の結末」⑥-2
*
浅井ケイが死んだのは、一一時五八分、四七秒だった。
彼が身体を起こし、その頭が村瀬陽香の右手に触れた。すぐにまたその身体は倒れ、嘘のように赤い血が、大量に噴き出した。目の前で、村瀬陽香だけが赤に
春埼美空は、そのすべてを眺めていた。一時も目を離さずに、彼が死ぬ瞬間を見守っていた。なにもかもが彼の計画通りに進行した。
やがて村瀬の頬を涙が伝う。全身を震わせて、彼女は泣く。でも声は聞こえない。必死に噛み殺しているようだった。なんて無意味なんだろう? 素直に泣きわめけばいいのに。彼女がなにを考えているのかわからない。
春埼は唇を噛む。
全部リセットして、消し去ってしまいたかった。早く。早く。早くこんな感情を忘れてしまいたい。つまりは、ケイを恨むような感情を。
どうして彼が、村瀬陽香のためにここまでしなければならないんだ。彼女がどうなろうと、関係ないはずだ。少なくとも春埼にとっては、昨日のお祭りの方がずっと重要だった。なのにその帰り際に、ケイはこのことについて話した。
村瀬は泣き続けている。春埼は彼女から目を逸らす。
かわりにじっと、時計をみる。一一時五九分、四九秒、五〇秒。
秒針は進んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。
五一、五二。
いつのまにか、その秒針が歪んでいる。
秒針だけではなかった。視界のすべてが歪む。
五三、五四。
どうやら春埼は、泣いているようだった。
どうして? 必要もないのに。
五五、五六。
この無価値な時間を終わらせたかった。
はやく、彼の声が聞きたかった。
五七、五八。
彼と会話をしたかった。
彼に、文句を言ってやりたかった。
五九。
胸の中の理解できない感情なんて、みんな消え去ってしまえばいい。
遅い遅い秒針がようやく、つまらない魔法が解ける時間を指す。同時に、ぴんぽんぱん、と中野智樹のふざけた声が聞こえた。
――七月一六日、一二時をお知らせします。よう春埼、元気か? ケイから伝えたいことがあるらしい。愛の告白かもよ? 覚悟して聞いてくれ。
その無意味なメッセージのあとで、彼の声が聞こえた。
「リセット」
たったひと言。それだけで世界が、意味を取り返す。
一一時四八分一七秒が戻ってくる。なにもかも、なにもかも、流れた血も春埼の心も巻き込んで、一一時四八分一七秒を復元する。
ただひとり、村瀬陽香だけが一二時ちょうどに取り残されていた。
*
「七月一六日、一一時四八分、一七秒です」
と、春埼が言う声が聞こえた。
浅井ケイは手を銃の形にして、河原に立っていた。
すぐ目の前に村瀬がいた。ほんの二歩ぶん離れたところだ。彼女はよろめいて倒れ込み、そのまま泣き出した。みんな予定通りだとしても、幸福な結末にはみえなかった。
ケイはできるだけおどけた声で、ぱあん、と銃を撃つふりをした。村瀬は本当に銃声を聞いたように体を震わせ、こちらを見上げた。
彼女の目が大きく開かれる。涙が
泣いてかすれた声で、村瀬がささやく。それはきっと、決して聞き
「大丈夫、僕は生きています」
村瀬はほとんど反応しない。ほんのわずかに
足音が近づいてきて、顔を上げると春埼がいた。
ケイは、彼女をじっとみつめる。
「ごめんね」
春埼は困った風に、首を傾げた。
「私は、何も覚えてませんよ」
「うん。でも、ごめん」
しばらく、彼女はこちらをみていた。やがて小さな動作で、ゆっくりと頷いた。
「なにか飲み物を買ってきます」
ケイは、じゃあアイスコーヒー、と答えた。軽く頷き、春埼はこちらに背を向けた。
河原には、ケイと、村瀬だけが残る。ふたりは長いあいだ、無言だった。ケイは空を見上げた。まだ飛行機雲はそこにあった。
このまま、眠ってしまいたい気分だ。色々なことを投げ出して。でも、きっと、なにかを言わなければならないんだと思う。いったいなにを? 簡単にはみつからない。
悩んでいると、かすれた声が聞こえた。よかった、今度は聞き洩らさなかった。村瀬陽香は、ギブアップ、と言った。
ケイはいちばん伝えたいことを、とにかく口にする。
「あの、灰色の猫。元気にやってますよ」
僕たちはあの猫を助けられたんだ、とまた考えた。本来なら、能力は誰かを悲しませることなく、なにかを救えるはずなんだ。
「野ノ尾さんを知っていますか? よく彼女と昼寝をしています。神社の上の、小さな社で。本当に平和そうなんです。あそこに行くたびに、幸せな気分になる」
村瀬の、途切れがちな声が聞こえる。
「それが、どうしたっていうのよ」
たしかに具体的な意味はない話だ。でも。
「あの猫を助ける依頼を受けたとき、僕は嬉しかったんです。本当に、心の底から、幸せだったんです」
今日、この河原に来たのは、こんな話をするためなんだ。村瀬を説得するためではなくって、もちろん泣かせるためではなくって、もっと。本当に手を取り合って、ひとつの結末を目指すために、村瀬と交わすべき言葉はこういうものだ。
「ねぇ、村瀬さん。僕たちはこれから、そういうことばかりをしていきましょう。猫を助けて、犬を助けて、できるなら人を助けて。これからはそういうことに、能力を使いましょう」
村瀬は答えない。
「雨の日に、濡れている人がいたら、傘に入れてあげましょう」
じっと、うつむいている。
「迷子の子犬がいたら、一緒に母犬を捜して」
ケイは話し続ける。
「お腹を空かせた猫には、ミルクをあげて」
話しながら、村瀬がこちらを向くのをじっと待つ。
「クリスマスにはサンタの恰好で、プレゼントを配ってもいいかもしれない」
彼女の口の形が、少しだけ変わったような気がした。もしかしたら、笑おうとしたのかもしれない。笑えないのに、笑おうとしたのかもしれない。
「とにかく、誰かと一緒に、幸せなことばかりやっていきましょう」
長い時間をかけて、村瀬は頷いた。
「そういう風なら、いいな」
「きっと、上手くいきますよ。あの猫みたいに」
「あなたには、できるんでしょうね」
「猫を助けたのは村瀬さんですよ」
「違う。リセットの力でしょ」
「でも、それを使わせたのは村瀬さんです。それに、誰かができればいいんですよ。僕たちは仲間なんだから」
みんな都合のいい話だった。
なにもかもが、都合よくいけばいいと思った。
「ねぇ、村瀬さん。握手しましょう」
彼女は、困ったように自分の手をみた。
ケイは微笑む。
「大丈夫ですよ」
もう充分、時間は経っている。彼女の手は、今はもう触れたものを消したりしない。ちゃんとなにかをつかめる、普通の手だ。小さくて柔らかい、女の子の手だ。それはきっと咲良田のどの能力よりも、ずっと便利で有意義なものだろう。
村瀬はゆっくりと手を伸ばした。ケイも手を伸ばして、それをつかんだ。ケイと村瀬の間には、二歩分くらいの距離があった。それは、両方から手を伸ばせば、簡単になくなる距離だった。
優しい力で握手をかわし、それから彼女は寝転がる。やっぱり彼女は、前だけをみていた。でもそうすれば、空を見上げることだってできる。
「あ、飛行機雲」
ささやいて、村瀬陽香は少しだけ笑った。
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