3話「日曜日の結末」⑤



       5



 喫茶店を出て、ケイは神社に向かった。

 はじめて野ノ尾盛夏に会いに行ったときのことを思い出した。リセットを二回。そしてようやく、あれから数時間後の世界に到達した。あの時はまだ準備中だった屋台が、ようやくたこ焼きを売り始めている。ケイはそれをひとつ買って、石段を上った。

 ずいぶん歩きなれた山道を進む。社には、はじめてみたときと同じように、猫に囲まれた野ノ尾がいた。

 変わらずにまっ白な肌。目を閉じている。変化があるとすれば、彼女の脇に灰色の猫がいることくらいだ。しっぽの先が曲がった猫。彼は目を閉じて、心地よさそうにあくびをした。


「こんにちは」


 と、声をかける。ゆっくり野ノ尾の目が開く。


「なんだ、君か」


 と彼女は言った。


「食べますか?」


 ケイは手に持っていたたこ焼きを差し出す。彼女は嬉しそうにそれを受け取って、パックを開き、「マヨネーズがついていない」と言った。

 猫が一匹立ち上がり、階段にスペースを空けてくれたので、ケイはそこに座る。立ち上がった猫はケイの背中に爪を立て、頭まで上った。結構重い。

 野ノ尾はたこ焼きをひとつ、口に運んだ。意外と猫舌ではないらしい。少し残念な気もする。頭の猫が落ちないように注意しながら、ケイも横からたこ焼きをひとつ取って食べた。下の方、ずいぶん遠くから祭りの喧噪けんそうが聞こえる。本格的に盛り上がるのは暗くなり始めてからだろうけれど、すでに普段の神社に比べればずっと騒がしい。


「なぜ黙っている?」


 そう言われて、ケイは微笑む。


「話題がないなと思って。困ってたとこです」


「用があるんじゃないのか?」


「木に登ろうと思って」


 高いところから、ずっと遠くをみたくなることだってある。


「知ってますか? 僕は貴女と一緒に、世界でいちばん優しい言葉について話し合ったんです。ただいまよりも、おかえりの方が少し優しい。ショートケーキよりも、ホイップクリームの方がもっと優しい。そんなことを、順番に話したんです」

 野ノ尾はしばらく考えて、首を振った。


「記憶にないな」


「忘れてしまったんですよ。そういう能力を使ったから」


「なら、知っているはずがない」


「その通りですね」


 ようやく、頭の猫が跳び降りた。

 晴れた空に一握りほどの、つるりとした雲が浮かんでいる。日の光は潔癖に白く、その熱を増している。濃い黄緑色の木々は熟睡する小学生みたいに静かだ。セミの声はいくつも重なり、波のように打ち寄せていた。呼吸をすれば、草の匂いを感じる。猫はまたあくびをしている。

 ケイは言った。


「あの時、僕たちは、答えを出すつもりがなかった」


 優しい言葉について。ただ語り合い、お互いの言葉を肯定しあって。

 それ以外のことは、求めていなかった。


「僕たちは知ってたんです。そんな話が無意味だってことを」


「そうかもしれない」


 と、野ノ尾は答えた。

 きっと村瀬は、なにかを伝えたいだけなんだ。でもそれが誰に対する、どんな言葉なのか、おそらく彼女自身も正確にはわかっていないんだ。正しい手段で、正しく伝えることができないでいるだけなんだ。

 津島だって同じように、ただ語りかけたいのだろう。村瀬に対して――たぶん津島が知っている村瀬自身のことを、きちんと伝えたいだけなのだろう。

 ただそれだけなのに。言葉が万能だったなら、それですべて収まったはずなのに。彼女のお兄さんが死んでからの一年間、ふたりとも正しい言葉をみつけることができなかったのだろう。

 言葉は場合によって、とても無力だと思う。どうしても伝えたいことがあったとき、もしそれを伝える言葉を持っていられたなら、きっととても幸運なことだ。

 伝言が好きなの、と少女は言った。

 ケイは初めから、世界でいちばん優しい言葉を探し出すことを、あきらめていた。


「僕は明日、ひどいことをするんです」


 きっと誰かが泣くだろう。なにもかもが、ケイの思い通りになったとしても。ケイにだって、伝言の正しい方法がわからない。


「嫌ならやめればいい」


 と、野ノ尾は言った。


「そういうわけにもいかないんです。やめたところで、結局嫌なことは残るから」


「別の手段はないのか?」


「あるかもしれません。でも、僕には思いつかない」


「誰かに頼ればいい」


「貴女を頼ってもいいですか?」


「私になんとかできるなら。無理そうならやめてくれ」


 風が吹いて、心地よかった。ケイは首を振る。


「実は、あんまり罪悪感もないんです」


 でも本当は、もっと別のことをして過ごしたい。猫を助けるような、誰にとっても幸せなことがいい。


「ならどうしてここに来たんだ?」


「高いところに登りたかったんですよ、本当に。遠くを眺めたかったんです」


 でも結局、目の前のことしかみえていない。明日が嫌で仕方がない。

 野ノ尾は表情を変えずにささやいた。


「つらいなら、素直につらいといえばいいのに」


「だいぶ素直にいってるつもりだけど」


「それなら、春埼にいえばいい。彼女はきっと喜ぶよ。そして私よりも的確な答えを知っている」


「実は、それが嫌だったんです」


 ケイは大きく体を伸ばしてから、立ち上がった。いったい何をしているんだろう。まったくバカバカしい。こんなの八つ当たりじゃないか。


「もういいのか?」


 尋ねられて、ケイは頷いた。


「はい。今度はシュークリームを持ってきます。マヨネーズがついたたこ焼きの方がいいですか?」


「気分次第だが、シュークリームの方が嬉しい確率が高い」


 それから彼女は、にやりと笑った。


「また来いよ。弱っている君をみるのは、そこそこ楽しい」


「自慢じゃないけど、たいてい僕は弱ってますよ」


 なにかが理想通りの結末を迎えた記憶なんて、そうありはしない。


       *


 春埼美空は夕暮れの街を、神社に向かって歩いていた。

 途中、アパレルショップの前で足を止め、ショーウインドウと向き合う。中の商品に興味はない。ガラスの表面に映った、自分の姿をみようと思った。でも光の加減なのか、ガラスに何か特殊な加工を施しているのか、あまり鏡としては機能しない。春埼は今、淡い紫色の生地の浴衣ゆかたを着ていたけれど、ぼんやりとしたシルエットしかわからない。

 昨夜、丁寧にアイロンをかけたから、問題はないはずだ。でも一応腕を伸ばして、袖の辺りを確認してみる。まったく、なにをしているんだろう。もしここで問題がみつかったとして、有効な対処法があるわけでもないのに。待ち合わせに遅刻するなんて考えられない。

 唯一心残りなのは髪留めだった。昨日、放課後に髪留めを買おうと歩き回ったが、しっくりくるものがみつからなかった。数軒回ってもいまいち納得がいかなくて、結局なにも買わずに帰宅した。ファッションに興味を持って、まだ日が浅い――今でもはっきり興味があるとは言いづらい――から、知っている店の数も多くはない。

 覚悟を決めて、待ち合わせ場所に向かう。石段の前には、もうケイが立っていた。


「お待たせしました」


 と、声をかける。彼は笑って答えた。


「一〇分も早いよ。することがないから、ちょっとぼんやりしてた」


「そうですか」


 時間があるなら、ざっと辺りをみてくればいいのに。とはいえ春埼自身も、自分一人でお祭りを見て回ろうとは思わないけれど。


「さっき、野ノ尾さんとたこ焼きを食べたよ」


「野ノ尾さんも来ているんですか?」


「お祭りに参加するつもりはないんじゃないかな。上の社で、猫に囲まれてた」


 春埼は意識して、不機嫌そうな表情を作ってみせる。


「最近、よく女の子と一緒にいますね」


「明日も村瀬さんに会いに行くよ」


「私もついていきますよ?」


「うん。そうしてくれるとうれしい」


 なんとなく珍しい言い回しで、少し違和感があった。ちょうど黄昏たそがれ時で彼の表情はよくわからない。


「浴衣、よく似合ってるよ」


 と彼は言う。


「ありがとうございます」


 砂糖が溶けるように自然に、春埼は笑う。


「これも似合うといいんだけど」


 そういって、彼は小さな紙袋を差し出した。とりあえず、受け取る。


「なんですか?」


「簡単にいえば、贈り物」


 驚きだった。春埼自身、理由もわからず息を止めて、そっと紙袋を開いてみる。中身をみてもう一度驚いた。

 シンプルな、深い赤色の髪留めだ。それは理想通りの髪留めだった。昨日はどこを探してもみつからなかったのに。――みつからなくてよかった、と思う。自分で買うのとケイにもらうのとでは、まったく意味が違う。


「どうして?」


 いや、どうしてでもいいのだ。そんなことは問題ではない。

 春埼は慌ててお礼を言って、髪留めをつけた。まったく、なぜ手鏡を持ち歩いていないのだろう。教室で化粧しているクラスメイトをみて呆れている場合ではなかった。もっと色々な事態に備えるべきだったのだ、本当は。


「おかしく、ないですか?」


 おそるおそる尋ねてみる。ケイは軽く頷いた。


「うん、いいんじゃないかな」


 春埼は笑う。本当に嬉しかった。心の底から。

 どこか冷静な部分では、このプレゼントに疑問を持っている。彼が理由もなくプレゼントをくれるのは、極めてまれだ。缶ジュースを買ってくれることなんかは珍しくないけれど、そういうのは別にして。ちゃんとプレゼントらしいプレゼントを、誕生日やクリスマス以外にもらうのは、これで二度目だった。

 なにか理由があるのだろうと思う。同時に、まぁいいか、とも思った。理由なんてどうでもいい。


「お参りしていこっか」


 言って、ケイは石段を上りだす。春埼も彼の隣に並んだ。思わず鼻歌を歌いだしそうになったけれど、なんとか自制する。

 賽銭さいせん箱に小銭を放り込み、手を合わせてから、ふと疑問を覚えて尋ねる。


「ここには、どんな神さまがいるんですか?」


 ケイは手を合わせたまま、小声で答える。


「僕も知らない。なんにせよ、いつもありがとうございますみたいなことを考えておけばいいんじゃないかな」


 春埼は頷き、その通りにした。ついでに五円玉一枚ぶんのお願いごとを考えてみたけれど、上手うまく思いつかなかった。

 それから人混みに巻き込まれないようふらふらと歩き、午後七時を回って、ようやく太陽が沈んでからりんごあめを買った。

 暗くなってからのお祭りが好きだ。屋台が安っぽい光に包まれている。それを反射して、りんごあめの表面が、仄かに輝く。とても綺麗きれい

 春埼はゆっくりりんごあめを食べた。金魚すくいの屋台を眺めて、少し迷ったけれど、すくえたところで後が面倒なのでやらなかった。ケイが風船釣りをして、ひとつ取った。二つ目はひっかける部分が水中に沈んでいる、明らかに無理そうなものを狙って失敗した。ひとつで充分だと思ったのだろう。

 春埼がりんごあめを食べ終わり、両手が空くと、彼は水風船をくれた。指に嵌めて、ぽしゃんぽしゃんとついてみる。中で水の揺れる感触が心地いい。

 たこ焼きを食べて、ラムネを飲んだ。

 射的をしたけれど、なにもとれなかった。

 ケイは笑っていた。彼が人混みを嫌うことは知っている。早めに「そろそろ帰りましょうか」と提案する予定だったけれど、つい言いそびれてしまった。

 幸せだった。色々なことがどうでもよくなるくらい。

 一通り楽しんで、だいたい満足した頃に、ケイは言った。


「明日、頼みたいことがあるんだ」


 その雰囲気から、あまり良い話ではないだろうということがわかった。髪留めのことを思い出して、なんだか緊張する。だが、どんな内容であろうとケイの指示には従う。そんなことは決まりきっていた。

 彼はゆっくりと落ち着いた口調で語る。明日、目の前で起こることのすべてを。

 ひどい話だった。春埼は頷くのに、ずいぶん時間がかかった。


       *


 人が過去をもっとも意識するのは、ベッドに入り目を閉じてから寝入るまでの時間ではないか、とケイは思う。そこには記憶と空想しかない。でも空想にすべてを委ねるのは夢に落ちてからの話で、それまでの意識は、過去の記憶が支配する。

 ベッドの中で、ケイはある出来事を思い出していた。いや、思い出すという表現は正確ではない。ケイは過去を忘れない。ケイの能力が、それを許さない。

 頭の中で再現されているのは、およそ二年前のある日のことだ。秋の深まったころ、彼女が死んだ少し後だった。


「すべて、予定通りだ」


 と、記憶の中のケイは言った。なにもかもを勘違いしていたころの自分の声というのは、聞いていて気分のいいものではない。きっと子供のころ自作してテープに吹き込んだ歌を、一〇年くらい経ってから聞くようなものだと思う。恥ずかしさに身悶えしそうになるけれど、事実は事実として受け入れるしかなかった。完全に忘れてしまって、同じ失敗を繰り返すよりはずっとましだと考えることにする。


「僕が一言指示を出せば、それで貴方あなたたちの負けが決まる」


 そう言ったケイの後ろには、ふたりの女の子と、ひとりの少年がいる。女の子のうち片方は春埼美空だ。ケイは振り返る必要もなく、彼女がどういった表情をしているのか理解することができた。――それは完全な無表情だ。当時の春埼は、それ以外の表情を持たなかった。今だって彼女の表情のバリエーションは、多いとは言えないけれど、それでも当時よりはずいぶん多彩になったと思う。

 ではあの時のケイ自身は、どんな表情を浮かべていただろう? これもケイにとっては考えるまでもないことだった。きっと笑っている。自分は強いと思い込んでいて、なんでもできると信じきっていて、当然のように笑っている。他人事ひとごとならああはなりたくないものだとため息をつくところだけど、それが過去の自分なのだから顔をしかめるしかない。

 笑みの先には数人の管理局員がいる。ケイの目的はその内の一人、いちばん後ろにいる二〇代半ばの女性だった。彼女は「索引さん」と呼ばれている。管理局が持つ、膨大な咲良田の能力に関する情報すべてにアクセスする権限を持つ女性だ。

 彼女は言う。


「君、自分がなにをしているかわかっているの?」


 当時のケイは頷く。


「もちろん」


 索引さんは即座に否定した。


「いいえ。管理局に敵対することの意味を、本当に理解しているのなら、そんな馬鹿げたことをするはずがない」


「どうかな。管理局が本当に優秀な機関なら、そもそもこんな事態にはならなかっただろうと、僕は思うけれど」


「こんな事態? 今の君たちに、どれだけの力があるっていうのよ?」


 ケイは軽く首を振った。


「つまり僕が言う『こんな事態』とはね、索引さん。この状況でも、ここまで決定的な状況でも、貴女あなたがそんなに悠長なことを口にしている事態を指すんだよ」


 索引さんは少しだけ眉をひそめた。そしてこちらをゆっくり見まわす。


「私は君たちの能力をすべて知っている。面白い編成だけど、私たちの能力がそれに対抗できないと思っているの?」


「もちろん。僕は貴女たちの能力をすべて知っている。そしてこれから貴女たちがとる行動もすべて。失敗する余地がない」


 どういうことなのか、索引さんは尋ねなかった。

 ケイも言葉を止めない。


「今日、この時間にこの場所で、僕と貴女が会うのは二回目だ。リセットしたんだよ。僕はすべて覚えている。実のところこの会話だって、その時に交わしているんだ。一言一句違わずに、まったく同じ事を喋る貴女は――そうだね、少し滑稽だ」


「リセットしたなんて話されると、私たちの対応も変わらざるを得ないわね」


「前の世界でも同じ話をしているよ。嘘をついたんだ」


「馬鹿みたいね」


「うん。そう言われることも知っていた」


 ケイは笑みを大きくする。


「貴女たちは、前の世界と違う行動を取れるかな? ゆっくり悩んでみるといい。自分たちならどうするか。それにこちらがどう対応するか。その裏をかくにはどうすればいいか。悩んで悩んで出した答えが、きっと前の世界で貴女たちの取った行動だよ」


 長いあいだ、索引さんはこちらをみていた。

 それから、ぽつりと言う。


「君の目的はなに?」


 それはケイが待ちわびていた言葉だった。理由はなんであれ、相手がこちらの話を聞こうとしてくれるならそれでいい。本来なら、管理局はそんなことを尋ねてはならないのだ。明確にこちらが悪者なのだから。無言で殴りかかってくればいい。

 なのに、彼女は尋ねた。わずかでも譲歩した。すべて順調だ、と当時のケイは思っていた。


「女の子を生き返らせたいんだ。それができる能力を探している」


 ――でも、そんなものはどこにもなかった。


 少なくともケイの目が届くところには、どこにも。ただこの質問のためだけに何人も巻き込んで、恐喝のような方法まで使って管理局員たちを調べて、おびき出して、暴力的な方法も厭わず、後先もなりふりもかまわずに、だけど。

 咲良田に、死者を生き返らせる能力は存在しなかった。

 ケイは――ベッドに寝転がり、じっと過去を受け入れている現在のケイは、静かに考える。あるいは村瀬陽香は、兄を生き返らせたいのかもしれない。

 でも、管理局を支配したとしても、そんなことなどできはしない。


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