2話「水曜日からの出来事」⑧-3
あるところに男がいた。彼は極端に汚れを嫌っていた。自分の体に、皮膚がくっついていることも許せなくなるくらいに。しかしもちろん、彼は全身の皮膚を剥ぎとったりはしなかった。皮膚の下にだって、ちゃんと綺麗なものがあるわけではないのだ。
男はあるときから、世界中の様々なものに触れることが嫌になった。すべてが汚れているように思えた。なんとか触れることができたのは、純白のシーツと、おろしたてのTシャツ。生活できたのは、自分で納得いくまで消毒した部屋の中だけだった。
最大の問題は、ありとあらゆるものが食べられなくなったことだ。唯一の例外は純粋な水だけだった。水は汚れの対極にあるといっていい、と男は考えていた。その他のものはなにひとつとして、口に入れることができなかった。肌や衣服に付着すれば汚れだとみなされるものをどうして体内に取り込めるんだ、というのが、彼の主張だった。
なにも食べられない男は、本来なら死ぬしかなかった。当然だ。水にはカロリーがなく、カロリーがなければ人は生きていられない。
だが、男は死ななかった。
都合良く、なにも食べなくても生きていられる能力を持っていたのだ。それは咲良田においては、幸運な偶然というより、運命的な必然だったのかもしれない。この街にあふれる能力は、使用者の性質に依存する。能力者の本質が、能力者が求めるものが、その願いや祈りが能力になる。
男の能力は、情報を養分に変換できるというものだった。情報に実体はない。汚れようがない。男はたくさんの情報を集めた。でもそれは、とても効率が悪かった。男はいつも腹を空かせていた。そのままゆっくり衰弱して、結局のところ死にかけていた。
でもある日彼は、自身の能力の本質が、まったく別のところにあることに気づいた。覚醒というほど大袈裟なものではない。ただ単純に、気がついただけだ。高密度な情報の塊は、その辺りにいくらでもある。――つまり彼は、人間から情報を吸い取れることに気づき、実行した。
それは極めて効率の良い食事だった。空腹を感じないというのは、男にとっては数年ぶりの出来事だった。食欲が満たされる動物的な快感を、彼は知った。
とはいえ男は、悪人だったわけではない。欲しいだけ情報を奪い取ってしまえば、相手がどうなるのかわかったものではない。問題がないように、ほんの少しずつ情報を拝借することにした。相手はしばらく意識を失ったが、目を覚ましてしまえばすぐに元気になった。被害といえば、吸われた情報ぶん――ほんの一時間ていどの記憶を失うだけだった。
それからしばらくして、吸血鬼が出るという噂が広まる。男はそれが自分のことだとすぐに気づいた。なぜそうなったのかはわからない。誰かがなんとなく口にして、それがたまたま広まったのだろう。
男が人間から情報を吸っていたのは、何年か前の、わずかな期間のことだ。吸血鬼の噂が管理局の耳に入り、この方法が使えなくなってしまったのだ。だが一方で、管理局員の協力もあり、彼はより安全で健全に情報が集まる環境を作り上げた。人間から情報を吸うのに比べればずいぶん効率が悪かったけれど、空腹感に耐えれば死ぬことはなかった。それで、男は幸せだった。人に迷惑をかけることもなくなるし、部屋を出て汚れた空気の中、獲物を探す必要もない。
男はつい最近まで、空腹だが幸福な生活を続けていた。
だが、あるトラブルがあり、男のその環境が壊れてしまった。
どうしようもなく強い空腹感の中で、彼はまた、人間から情報を得ることを選んだ。いや、選んだのではない。ほかに選択肢がなかった。
昨夜、男はある少女から情報を吸った。数年ぶりのことだ。彼はもちろん、以前と同じように、充分な情報を残して吸うのをやめるつもりだった。なのに。
その少女からは、いくら吸っても情報が減った気がしなかった。男はつい、吸いすぎた。そして少女は死んだ。
誰も知らなかったことだ。少女自身も知らなかったことだ。でも、彼女は情報を失わないまま死ぬ能力を持っていた。つまり、死後に幽霊になる能力を持っていた。
「これは人災だ」
と、津島は言った。
「でも、いくつもの不幸な偶然が重なった結果でもある」
被害者の少女の名前は、皆実未来という。
そして加害者の男の名前は、
好井良治――非通知くんは、今朝の早い時間に、警察に出頭した。皆実の遺体を抱きかかえて。
それは純白のシーツに包まれた、傷ひとつない遺体だった。
津島が話し終えてからしばらくの間、ケイは何もいわなかった。
それから簡単に非通知くんの様子を尋ねた。リセットして、事件が起こる前の彼に会えば、おそらくすべてが解決するだろう、と思った。
津島は非通知くんの住所を知らなかった。非通知くんは警察にいるはずだから、聞き出すことは難しくないはずだ。しかし今回の件は津島の担当ではないため、情報を得るには少し時間がかかるかもしれない、とのことだった。
わかり次第連絡する、と言って、津島は電話を切った。
ケイは未だに、自身の感情を上手く呑み込めなかった。犯人は非通知くんで、自身がしたことを後悔している。なら、リセット後の対処は難しくないはずだ。連絡さえ取れれば、それで事足りる。もし連絡が取れなくても、皆実を追跡すれば非通知くんに会える。問題ない。悲しむべきことは、きっとなにもない。かといって喜ぶのもおかしな話だ。もちろん、無感情では決してない。
ゆっくりと山道を下る。非通知くんのことを考えながら。好井良治、と名前のついた非通知くんは、なんだか非通知くんとはまったく別の誰かみたいだった。
神社まで戻ると、そこには春埼と、皆実と、野ノ尾がいた。
どうして春埼がここにいるんだろう? わからないが、別に問題もない。ケイは少し迷ったけれど、皆実だけを離れたところに呼び出して、一通り事情を説明した。あまり意味のあることではない。どうせリセットすれば忘れてしまうのだ。でも、きっと伝えるべきなんだろうと思った。
皆実はふわふわと浮かびながら話を聞いて、少し顔をしかめた。どことなく不満そうな表情。話し終えると、彼女は「私の死体をみてくる」と言って、どこかに飛んでいってしまった。
野ノ尾とは軽く挨拶を交わしただけで別れた。野ノ尾の足元には、金曜日に事故に遭う予定だった灰色の猫がいて、彼女の靴紐にじゃれついていた。ずっとみていたくなるような、ほほ笑ましい光景だけど、いつまでもそれを眺めているわけにはいかない。
春埼と並んで、ぼんやりと街を歩く。特別に目的地もなかった。もう一度津島から連絡があれば、すぐにリセットを使ってよいだろう。皆実と非通知くんの事件を、早く終わらせてしまいたかった。
川沿いの緩やかな下り坂を歩いていたとき、春埼は言った。
「皆実さんは、自分が死んだと言っていました」
「そっか」
知っていたんだろうな、とは思っていた。自分の能力で幽霊になっていたのなら、その方法くらいは理解しているだろう。
どうして彼女はそのことを秘密にしたんだろう? ――少し考えてみるけれど、すぐにやめた。可能性はいくらでもある。好奇心で推論をたてて楽しいことでもない。
「どうして、君は神社にいたの?」
「皆実さんに呼ばれたんです、昨日の夜に」
「そ。なんの用だったの?」
「わかりません。ケイは知っていますか?」
「いや」
幽霊になった皆実は、まずケイの前に現れた。次に春埼の部屋へ向かった。ケイと春埼の共通点は、奉仕クラブに所属していることだ。奉仕クラブには、特別に強力だとみなされた能力者が所属する。
山の中で皆実から聞いた話と合わせて考えると、これまでよりはもう少し、彼女のことを理解できるような気もした。でもそれは、彼女が言った通り、ケイには決してわからないことなのかもしれない。
「皆実さんのことは、よくわからない」
とだけ、ケイは答えた。
こちらをみて、春埼は首を傾げる。
「彼女を生き返らせるんですか?」
「もちろんだよ」
ケイは頷く。リセットのせいで死んだ彼女を、無視することなんてできない。取り返しのつくタイミングでよかった。もし彼女が死んだのがリセットしてから二四時間以内だったなら、と考えるだけで恐怖が湧き上がる。
なぜ、皆実未来は死ぬことになったのだろう? ケイたちは猫を助けるためにリセットを使った。その結果、非通知くんを経由して、彼女を死なせることになった。あいだのピースが抜けている。
春埼が口を開く。
「皆実さんは、あまり悲しんでいる様子ではありませんでした」
「そうだね」
明るく振る舞う彼女の大半は、きっと演技だ。でもその笑顔の裏側にあるのは、自分が死んだことへの悲しみだとか、怒りではなかったように思う。正直なところ、普段の皆実と、それほど印象が違ったわけでもない。
「私は、動けて、笑えて、人と話ができる状態を、死とは呼ばない気がします」
ケイは曖昧に頷く。なにを死と呼ぶのか。それはあまり定義づけしたくなかった。死にはきっと、色々な形がある。その形を切って揃えることが、正しいとは思えない。そういうのはどこかで法律を決めている人たちだけが考えればいいことだ。
「つまり春埼は、リセットを使いたくないの?」
普段と同じ口調で言ったと思う。でも、もしかしたらそこに、少しだけ苛立ちが紛れ込んでしまったかもしれない。
彼女は困ったように首を傾げる。
「そういうわけではありません。でもこれは、皆実さんの問題でもあります。セーブから、まだ四八時間ほどしか経っていません。時間があるのなら、皆実さんの話を聞いた方がいいのではないか、という気がします。リセットを使えば、彼女はすべてを忘れてしまいます」
冷静で、正しい意見だ。クラスメイトが死んだときにまで正しくなくてもいいんじゃないかという気がするけれど、これが春埼美空なのだから仕方がない。この少女は、本来徹底して客観的なのだ。出会った頃はもっと極端だった。すべての判断を、ほんの数行のルールに委ねてしまえるくらいに。
正論に感情論を返すのは、気の進まないことだ。でも、結局のところ人が判断の基準にするのは感情だ。ケイには、自身の感情をまったく無視することはできない。それにこの手の話題では、春埼にだけは正直でありたい。
「皆実さんがなにを考えていようと、どうでもいいんだ。本当は」
そこで言葉を切る。それでも充分に、春埼には伝わっているはずだ。
自分が原因で――ケイ自身が「リセット」と指示したことが原因で、少女が死んだ。過去をやり直せる、そんな希望の象徴みたいな能力が、問題を生むなんて許せない。嫌だ。嫌だ。どうしても耐えられない。二年前に死んだ少女の笑顔を思い出す。それでもリセットを否定できなかった自分自身を思い出す。今もまだ、ケイは我儘にリセットを信じている。
「わかりました」
と春埼は言った。
ケイはなにか、肯定的で柔らかな言葉を探した。夢と優しい嘘で塗り固めた、お菓子の国みたいな話をしたい。そう思ったけれど、上手くいかなかった。思考を現実に引き戻さざるを得なかった。
前方の曲がり角から、女の子が現れた。あまり詳しくはない、でも知っている少女だ。
村瀬陽香が、そこにいた。
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