2話「水曜日からの出来事」⑧-2
同じころ、春埼美空は花見崎神社の石段に座っていた。
ぼんやり祭りの準備が進んでいく様子を眺めていると、すぐ隣に灰色の猫が寄ってきて、丸まった。世の中の物事がすべて面倒だといった顔つきの猫だった。おそらく一般的には、あまり可愛いとはいわれないだろう。
手持ち無沙汰だったので、背中を撫でてみる。この猫は人間への警戒心がずいぶん薄いようで、撫でられながら平気であくびをした。夏の日差しのせいだろう、毛並みが温かい。夏場はたいへんだろうと考えてから、その猫がちょうど春埼の影に入っているのに気づいた。人類の尊厳をかけて「貴方も私のコレクションに加えてあげましょうか?」と脅してみたけれど、どうやら効いた様子もない。平和な土曜日だ。
春埼が神社にきたのは、皆実
ケイは今日、皆実と一緒に山に登ると言っていた。花見崎神社に呼び出されたことでその山というのが尽辺山なのだとわかった。皆実が幽霊山と呼んでいた山だ。
ここに呼び出されたことを、ケイには伝えなかった。その理由は春埼自身にもよくわからない。わざわざ言うまでもないと思ったのかもしれないし、秘密にしておいて彼を驚かせようと思ったのかもしれない。あるいはケイに連絡を入れると、来なくて良いと言われる可能性があったからなのかもしれない。最後のひとつが、いちばん可能性が高そうだったが、まあどうでもいいことだ。自分自身の感情にだって、特別な興味などありはしない。
しばらくそうしていると、階段を知っている顔が上ってきた。ケイではない。皆実でもない。野ノ尾盛夏だ。彼女は軽く眉を持ち上げて、春埼の前で足を止めた。
「おはよう」
「おはようございます」
「ひとりか?」
春埼は頷く。
「今はひとりです。ケイと、クラスメイトの女の子を待っています」
「祭りに来たのか?」
「いえ。それは今夜の予定ですが、取り止めになるかもしれません」
「どうして。なにか用があるのか?」
「私はありませんが、ケイに。ある女の子の問題に関わって、そちらで時間を取られるかもしれません」
「それは大変だな」
「私の方が先に約束していたのに」
「ひどい話だ」
「まったくです」
というのは、冗談だ。多少不機嫌なのはおそらく事実だが、春埼は自分の感情を物事の判断材料にしない。絶対ではないが、滅多にしない。多少わがままを言った方が、ケイが喜ぶのでそうしている。浴衣を着てくるというアイデアも思い浮かんだのだが、そこまですると彼は本当に嫌がるような気がしてやめておいた。彼が苦笑する程度の、ぎりぎりの抗議の表明は、なかなか難しい。
「女の子の問題というのは?」
「これから会う予定のクラスメイトです。昨夜から半透明で、ふわふわ浮いています」
「よくわからないが、幽霊なのか?」
「よくわかりませんが、そうみたいですね」
野ノ尾は
暇を埋めるためにまた灰猫の背中を撫でようかと思ったが、その猫は野ノ尾の足にすり寄っていた。ぴんと立てた尻尾の先が、フックのように曲がっている。仕方がないので、携帯電話についた猫のキーホルダーをいじる。そのキーホルダーはなにか柔らかい素材でできていて、押すとへこみ、力を抜くとまた膨らむ。
野ノ尾はしゃがみ込んで灰猫の喉を撫でながら言う。
「私はこれから、上の社にいくところだ」
「そうですか」
「あちらの方が、木陰が多い。来るか?」
「いえ。待ち合わせ場所はここなので」
「電話をかけてみたらどうだ?」
「そうですね」
約束の時間を、もう一五分ほど回っている。確認してみた方が良いかもしれない。セーブしているとはいえ、彼が事故に遭っていたら心配だ。
携帯電話のアドレス帳を開いたとき、皆実未来の声が聞こえた。
「美空、お待たせ。遅くなってごめんね」
声を辿って視線を上げる。皆実は地面から二メートルほど浮かんでいた。昨夜彼女が現れたときにはもう部屋の明かりを消していたので、はっきりとはわからなかったが、日中にみると見事に半透明だ。
春埼にとっては、クラスメイトが浮かんでいようが半透明だろうが、割とどうでもいいことだ。とはいえこのままだとケイと祭りにいけなくなるから、できるなら打開した方がよいだろう。昨夜はできる限り丁寧に、浴衣にアイロンをかけたのだ。
皆実は、野ノ尾の方を向いて言う。
「ええと、はじめましてだよね?」
野ノ尾は春埼に視線を向けた。仕方がないので紹介する。
「野ノ尾盛夏さんです。私たちと同じ歳ですが、違う学校に通っています。それと、猫遣いです」
「猫遣い?」
と皆実。それには野ノ尾が答えた。
「猫が好きなんだよ。君は?」
「皆実未来。美空のクラスメイトで、今は幽霊だよ」
「みればわかるよ。どうして、そんなことになったんだ?」
「んー。なかなか衝撃の事実なんだけど」
皆実は考え込むような表情をみせて、それから春埼に顔を寄せた。
「浅井くんには、秘密にしてくれる?」
よくわからないけれど、頷いておく。ケイに秘密だということは、彼の知らない情報だろう。それならば聞いておいた方がいい。
笑顔で、彼女は言った。
「たぶん私、死んだんだと思う」
死んだ。
隣で野ノ尾が、目を細める。春埼は尋ねた。
「ところで、ケイは?」
「置いてきちゃった。もうすぐ来ると思うけど」
なら、ケイがやってくるのを待とう。彼がひと言、リセットと指示を出せば、きっと皆実の問題は解決する。
*
電話の相手は、津島信太郎だった。
彼はひと言目で言った。
「皆実の遺体がみつかった」
なんて非現実的な言葉だろう。
死んだから、幽霊になった。とてもわかりやすい。ケイだって、もちろんその可能性は考えていた。それでもなお非現実的な言葉だ。つまりは、現実だと認めたくない言葉だ。
脳内に過去の記憶があふれて、吐き気がする。記憶はそれぞれ別の感情を刺激する。感情のひとつひとつが胸を刺していく。
――リセットを使ったせいで、人が死んだ。
落ち着け、とケイは自分に言い聞かせる。
――まただ。二年前と同じだ。
落ち着け。今回は、セーブしている。取り戻せる。
――また僕のせいで、人が死んだ。
混乱するな。覚悟していたことだろう? 彼女が死んでもまだ、リセットを使い続けることを決めたんだから。
ケイは息を吸う。自分自身を思い出す。それで混乱が消えるわけではない。だが同時に、思考する自分も戻ってくる。
「どうして、皆実さんは死んだんですか?」
「殺されたからだよ」
殺人? 誰が、なぜ。
電話の向こうで、津島は続ける。
「事故みたいなもんだ。でも、確かに人の手によって、皆実は殺された」
「事情を知っているんですね?」
「ああ」
「予想していた?」
「可能性は極めて低かった」
「でも、予想していたからぎりぎりまでリセットは使わないように指示を出した」
「そうだよ」
「どうして、教えてくれなかったんですか?」
「あまり話したい内容じゃなかった。管理局としても、理由なく公開できる情報じゃなかった」
ケイは唇を噛む。
違う。津島は関係ない。ケイ自身が知ろうとしなかったのだ。なにもかもを知ろうとすることが我儘に思えて、躊躇っていた。
――矛盾してるよ。
と、自分に向かって吐き捨てる。リセットなんて強すぎる能力を使うなら、猫一匹のために世界中すべての人々に三日間をやり直させることを強要したなら、もう充分に我儘だ。その先で躊躇ってどうするんだ。最善を尽くさなくて、どうするんだ。あんまり弱くて嫌になる。悲しかった。悔しかった。また感情が暴れまわる。だが、どのネガティブな感情も、状況を改善してはくれない。だからケイは意図して笑う。きっと自分自身に対して、意地になって少しでも強がる。
「わかりました。昨日のことは、もういい。事情を説明してください」
津島はもう、そうせざるを得ない。リセットすれば皆実未来が死ぬ前の時間を再現できる。だがそのままでは、やはり彼女は死んでしまうだろう。適切に行動しなければならない。そしてリセット後に情報を持ち越すには、ケイを使うしかない。
津島は少し考えるような間を置いてから――あるいは諦めるような間を置いてから、話し始めた。
長い話だった。
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