2話「水曜日からの出来事」⑧-1


       8 七月一五日(土曜日)――スタート地点



 時計の針が、午前四時を指したのをみた記憶がある。その少し後にようやく眠れたようだ。

 七月一五日土曜日の朝、ケイを起こしたのは中野智樹の声だった。


 ――グッモーニング、ケイ! 今回はお前からみれば昨日、七月一四日からお届けするぜ。


 僕からみれば四日前だ、とケイは思った。

 昨日、智樹はこのメッセージを送っていないはずだ。リセット前、春埼がメッセージを送るよう彼に頼みに行った時間、今回はケイと共に本屋を目指して歩いていた。この厄介な能力は、リセットを越えて発動する。一度「七月一五日にメッセージを届ける」と設定してしまえば、リセットして七月一五日を迎えるたびに同じメッセージが届く。つまり春埼のリセットよりも、智樹の能力の方が強度が高いのだ。

 彼の声が天気を予報するよりも先に、ケイはカーテンの隙間から空をみた。快晴。そんなことはわかっている。世界がなにも祝福していなくても、晴れるときは晴れる。

 やがて聞こえてくる声が、春埼のものに変わった。――明日は遅刻しないでくださいね? ケイは小さなため息をつく。リセット前と同じように、今朝も彼女に喫茶店で会う予定だった。でも皆実の問題が生まれたから、昨夜のうちにキャンセルのメールを送っている。彼女からの返信はいつもの通りに淡々としていたけれど、多少は機嫌をそこねているだろう。二年前、あまりに無感情だった彼女に比べれば、不機嫌になるだけでも大きな前進だと言える。でも女の子の機嫌をそこねて良いことなんてひとつもないというのも、当たり前の事実だ。皆実との山歩きに、春埼もつれていければよかったのだけれど。もしものときのために、リセット能力者は絶対に守られなければならない。確率は低いだろうが、もし「吸血鬼」に出会うようなことが起こるなら、その場に春埼がいてはいけない。

 あとでフォローを考えよう。とりあえずそう決めて、ケイは冷蔵庫に入っていたペットボトルのウーロン茶を一息に飲み干す。それから、カーテンを開けた。リセットを使う前とまったく同じタイミング――きっと、意味のないこだわりだ。けっきょくのところ、リセットの前と後では、ケイの行動はずいぶん変わっている。昨日、彼女と一緒に本屋に行ったのは、リセットの前の行動をなぞるよりも彼女からの提案を優先した結果だった。これから会うはずのなかった皆実みなみに会い、登るはずのなかった山に登る。カーテンを開けるタイミングなんて、それらに比べればずっと些細で、無意味だとさえ言える。でも無意味であることが、ルールを破る理由にはならない。

 服を着替えているあいだに、智樹の声は聞こえなくなった。でも部屋を出て、皆実との待ち合わせに向かう途中、彼からのメールが入った。昨夜、智樹にケイの声を送ってもらうよう頼んだのだ。彼はその意味を知りたがっていた。これもリセット前にはしなかった行動のひとつだ。ケイは「気にしなくていい」とだけ返信した。

 皆実との待ち合わせ場所には、花見崎神社の石段を指定していた。神社の裏から幽霊山に登れるのだ。途中までは野ノ尾がいる社へ行くのと同じ道順だった。さらにその山の西側は川原坂という地名で、壁に空いた穴がまとまってみつかった地域でもある。ピースが集まりつつあるのを感じた。でも、どれが必然で、どれが偶然なのだろう。まだはっきりとはわからない。

 神社の石段に、皆実の姿はなかった。時間を確認する。午前八時五二分。約束の時間まで、まだもう少しある。ケイは石段に腰を下ろして、周囲の様子を眺めた。リセットの前と変わらず、祭りの準備が進んでいる。今夜、春埼と一緒に、この祭りでりんごあめを食べることはできるだろうか。

 できればなんとかしたいところだ、と考えていると、耳元で声が聞こえた。


「ハロー」


 反射的に振り返る。真後ろの石段から、人の頭が生えていた。皆実だ。


「おはよう。あんまり趣味のいい登場シーンじゃないね」


 思わず叫び声を上げてしまうところだった。

 彼女は楽しげに笑う。


「生首少女っていう都市伝説を考えてみたんだよ。こんな風に生首が転がってて、挨拶してくるの。ちゃんと返事をしないと身体を奪われる。どう?」


「神社の石段をそういうことに使うのは、罰当たりじゃないかな」


「そうじゃなくて、小学生の噂になりそうか、っていうのがポイントなんだけど」


 まあいいや、とつぶやいて、彼女は石段から抜け出てくる。ケイも立ち上がった。石段に足をかけると、彼女もふわふわと隣に並ぶ。


「昨日も、皆実さんはここを上ったのかな」


「うん。それは覚えてるよ」


「どこまで覚えてるの?」


「ちょうど、このあたりまで」


 ふたりは鳥居をくぐり、社殿の前に出た。その裏手に回り、小さな階段をさらに上っていく。やがてその階段は、山道へと繋がる。舗装されていない、周囲に背の高い草が生えた道だ。ほとんどけもの道のようになっているが、人の手が入った形跡もある。片脇の立て札には、ハイキングコースと書かれている。

 草で肌を切ってしまわないように気をつけながら、ケイは歩く。


「よく夜に、こんなところに来たね」


 雨が降りやんだ時間を考えると、昨夜はもっと地面がぬかるんでいただろう。そう思って足元を見てみるが、足跡はみつからない。

 皆実は少しだけ首を傾げた。


「もしかしたら、すぐに引き返したかも」


「つまり、吸血鬼探しにはそれほどこだわっていなかったの?」


「どうだろ。吸血鬼をみつけたいのは本当だけど、雨が降ったすぐあとに、山に登るかな」


「でも、少なくとも神社の前までは来た」


「うん。その先のことは、やっぱり思い出せない」


 ごめんね、と彼女は言う。


「覚えてないものは仕方がないよ。思いつくことを、とりあえず試してみよう」


 別に効率を求めているわけじゃない。皆実が納得できるなら、それでいい。もし山道に倒れている皆実の身体がみつかれば、それは意味のあることだけど、なにもみつからなくてもそれでいい。きっと管理局がもう動いているはずだ。猫の交通事故とは違う。今回は人間の問題で、能力がかかわっている。管理局は必ず、早急に手を打つ。最適な能力者を使い、最適な調査を開始する。なのにこの山道に足跡のひとつもないというのは、やっぱりここが外れだということなのかもしれない。

 無意味ならそれでいい、とケイは思う。問題の解決は管理局に任せて、それまでのあいだ、皆実が混乱したり弱気になったりしないようにつき合っていればいい。

 ケイは尋ねた。


「もし引き返したとして、次の行き場所に心当たりはある?」


「ご飯の時間だから、家に帰るんじゃないかな」


「ならここからの帰り道を調べてみてもいい。どうする?」


「んー。浅井くんは、どっちがいいと思う?」


「このまま、山道を進む方かな」


「どうして?」


「道路に女の子が倒れていたら、もうみつかって病院に運ばれているのが自然だよ。そうなれば管理局が気づくし、連絡が入るはずだ」


 嘘をついたわけではなかった。でも本当の理由は、夏の日差しの中、山道を歩くのが思いのほか気持ちがよかった、その程度のことだ。まだ午前中だからか、七月にしては気温もそれほど高くない。もう一時間くらいなら心地よく山歩きができるだろう。

 セミの声が聞こえる。地面に沈み込んでいくような、重みを持った声だ。日差しを受ける周囲の山々は黄緑色に輝いてみえる。その後ろで、空だけが鮮やかに青く、雲だけが鮮やかに白い。レジャーシートを持っていれば、適当に寝転がって過ごしてもよかった。本当に、そうしてもよかった。

 皆実が言う。


「そうだ。調べてみたよ、マクガフィンのこと」


 マクガフィン。彼女に春埼がそのことを質問したのは、木曜日の、セーブする一時間ほど前のことだった。ケイはあのときの、皆実の表情を覚えていた。


「なにかわかった?」


「少しだけね。U研のパソコンに、ほんのちょっとメモが残ってたよ」


 U研が情報を持っている可能性は、充分にあったから驚かない。非通知くんが言っていたのだ。――辞書的な意味と、都市伝説的な話なら知ってる。U研は都市伝説の研究に熱心だ。自分たちでそれを生み出そうとするくらい熱心だ。


「どんなメモだったの?」


「簡単な噂話だよ。二、三年前に、ちょっとだけ流行ったみたい」


「へぇ。気になるね」


「なかなか、驚愕の内容だったよ」


 皆実は笑う。さも楽しげに、教室で浮かべていたのとまったく同じ顔で。彼女は見た目ほどわかりやすい少女ではない。明るい表情の大半は作り物だと、ケイは気づいていた。作り物でなければ、幽霊になって自身の身体の在り処もわからない今もまだ、普段と同じように笑えるわけがない。

 人差し指をたてて、彼女は言った。


「マクガフィンを手にした者は、咲良田の能力すべてを支配する」


 ケイも笑う。


「それはすごい」


 まるでファンタジーに出てくる予言みたいだ。清々しいくらいに現実味がなくって、考え込むのも馬鹿らしくなる。でも思考の一部は、簡単には休んでくれなかった。マクガフィンという単語を最初に持ち出したのは、津島なのだ。津島は管理局に所属していて、実際に今、咲良田の能力を支配しているのは管理局だ。


「ほかには、なにかわかった?」


「ううん。それだけ。うちのクラブでもちょっと調べたみたいだけど、出所もわからなかったみたい。かなりマイナーな噂だと思う」


「なるほど。ありがとう」


「吸血鬼探しが終わったらさ、ちゃんと調べてみよっかな、マクガフィン。私もちょっと興味出てきたよ」


「そもそも、どうして吸血鬼なんか探してるの?」


 その質問に特別な意味はなかった。話の流れで、なんとなく尋ねただけだった。でも皆実は笑みを消し、なんだか困ったような、不機嫌なような、意図を汲み取りづらい表情で――それはたぶん自然に浮かんだ表情で、言った。


「だって、普通は探すでしょ」


 いや、普通は探さない。もし大勢の人たちが、知らないところでこっそり吸血鬼を探しているのだとすれば、ケイは世界の認識をひどく誤っていることになる。

 皆実は音もなくこちらにやってくる。歩いているわけではないので、肩が上下に揺れることもない。明るい夏の光の中でも、その姿は本物の幽霊のようだった。


「別に、吸血鬼じゃなくてもいいんだけど。ほら、夏になると、テレビでも幽霊の特集したりするよね?」


「テレビ番組なら観るかもしれない。でも、わざわざ探しにはいかないよ。心霊スポットを巡るのが好きな人もいるだろうけど、それでも一人じゃいかない」


 ああいうのは友達と騒ぎながら行うものだろう。幽霊を探すことよりも、日常とは違うロケーションで盛り上がるのが主な目的ではないだろうか。

 笑わないまま、皆実は言った。


「でもさ、番組を観るのは、やっぱり興味があるからだよ。もし道端に幽霊がいたら、みんなそっちを見るはずだよ。それは、探してるってことじゃない?」


「かもね」


 曖昧にぼかしながら、ケイは頷く。探している、ではニュアンスが合わないかもしれないけれど、たしかに非現実的なことに対して人々は無関心ではないだろう。もし道端に幽霊が立っていたとして、警戒や恐怖よりもポジティブな感情を抱く人も、一定数はいるかもしれない。


「たしかに。僕だって必ずそこに幽霊がいるとわかっていたら、一度くらいはみにいくよ」


 ケイは皆実に同意したつもりだった。でも彼女は、そうは受け取らなかったようだ。冷たく、悲しげな表情を浮かべて、彼女はつぶやく。その小さな声は独り言だったのかもしれない。でもケイにもはっきりと聞こえた。


「そういうことじゃない」


 真剣な言葉だ、とケイは思った。グラスに注いだ冷水みたいに。ケイはじっと皆実をみる。彼女はきっと、つい表に出た本心をごまかすために笑う。


「必ずいるんじゃ、わくわくしないよ。誰にもみつけられないものを、自分だけがみつけるから価値があるんだよ」


「そんなものかな」


 ケイにはよくわからない。


「浅井くんは、自分だけの能力を持ってるから。だからきっと、吸血鬼に興味がないんだよ」


「どうかな。僕のはとても地味な能力だよ」


 なんでも思い出せるのは、便利ではあるけれど。あまり特別な力だという感じもしない。優秀な人間なら、能力なんてなくてもできることだ。春埼のリセットがあるから価値が上乗せされているけれど、それはケイ自身の力ではない。

 でも皆実は首を振る。


「そんなことない。どんな能力でも、あるのとないのじゃ全然意味が違うよ。浅井くんにはきっと、どうしても、わからないと思う」


 それから彼女は、「ごめんね」と言った。

 ケイは言葉を探したけれど、なにもみつからなかった。彼女の問題の本質を理解するのは難しい。

 皆実がするすると進みだしたので、ケイもそれについて歩く。彼女の体は半分透けていたけれど、後ろからじゃ表情はみえない。もちろん、その感情も。

 しばらく、ふたりはなにも話さなかった。セミがよく鳴いている。少し進むと、小川がみつかる。水面が光を反射して、きらきらと輝いている。そちらに顔を向けて、皆実が口を開いた。


「ねぇ、浅井くん。私は――」


 でもその言葉の途中で、味気ない電子音が鳴り出した。ケイの携帯電話だ。皆実はなにか諦めたように、小さく笑う。


「携帯、出ていいよ」


「いや。あとでかけ直すよ」


「いいから。私、下の神社にいるね」


「どうして?」


「やっぱり私、こんなに山の中までは入らなかった気がする。別の場所にいこうよ」


 彼女は一方的にそう告げて、高く空に浮かび上がった。ケイはその後ろ姿を見送りながら、まだ鳴りづける携帯電話を取り出した。

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