2話「水曜日からの出来事」⑨


       9



 ついてきなさい、と村瀬が言った。

 ケイはその言葉に、素直に従うことを決めた。猫の救出と皆実の死のあいだには、おそらく彼女がいる。警戒していた。だから無暗に、彼女に反発したくはなかった。争い事のきっかけは、できるだけ少ない方がいい。

 通りを進み、橋を渡って、河原へと続く階段を下りる。そのあいだ、村瀬は一言も話さなかった。ケイと春埼も無言だった。

 川の手前で足を止めた村瀬は、なんだか苛立っている様子だった。乱暴に髪をかき上げる。


「色々と考えてみたんだけど」


 村瀬は言った。眼鏡の奥から、まっすぐにこちらをにらんで。鋭利で、攻撃的な瞳。何度もみた目つきだ、と思った。だが、違う。ケイは頭の中に、これまでみた彼女の顔を並べる。やはりどれとも違っている。記憶の中の村瀬陽香より、今向かい合っている彼女の方が、明らかに真剣だ。その視線が痛いくらいに。


「やっぱり、あんた達は殺すことにするわ」


 殺す。現実味のない言葉だ。でも遺体よりはまだしも身近かもしれない。冗談みたいな言葉だ。

 彼女は表情を変えない。怒り、苛立ち、きっとその裏側に別の感情を隠している。その姿はあまりに真剣で、切実で、つい頷きたくなるけれどさすがに反論しないわけにはいかない。


「殺すと言われても困りますよ。どうして?」


「どうでもいいでしょ。これはもう、決まったことなの」


「納得できません」


「納得しながら死ぬ人なんて、いないわ」


 村瀬は断言した。世界中のすべての断言には、嘘か、信仰か、感情が混じっている。

 ケイは一歩、村瀬に近づいた。それに合わせて、春埼は少し下がる。春埼さえ守ることができれば、リセットでひとまず危機は去る。

 いますぐリセットしていけない理由もなかった。しかし、その前にできるだけ情報を集めておきたい。リセットのあとで彼女に殺されても困る。それに、まだ津島から非通知くんの住所も聞いていない。

 彼女まで五メートルといったところか。河原には小石が敷き詰められているため、逃げ出すにも足を取られそうだ。あまり好ましい状況ではなかった。女の子に殺すと言われて好ましい状況も思いつかないけれど。


「ともかく、事情を教えてください。目的はなんです? 僕たちを殺すよりももっと効果的な方法があるかもしれない」


「うるさい。もう決まったんだから、それでいいでしょう」


 いいはずがない。

 村瀬は無造作にこちらに近づいてきた。濁った音をたてて石を踏みつけながら。

 さすがに殺すと言っている相手に、これ以上は近づきたくない。


「春埼。もう少し後ろに」


 小声で指示を出し、ケイ自身後ずさりする。

 村瀬は言った。小さな声で、単語を二つ。


「両足、石」


 直後に、彼女の足音が変化する。小石を踏みつける音が消えていた。ケイは彼女の足元に視線を落とす。足跡の形に小石がなくなり、下の地面がみえている。

 コールしたものを消す能力。壁に空いた穴を思い出す。穴は勝手にふさがった。効果時間は、数分間? データが少ないため、はっきりとはわからない。

 彼女はゆっくりとケイに近づきながら、また言った。


「右手、人体」


 さすがに、ぞくりとした。殺すなんてふわふわした言葉に、多少の現実味が付加された。ナイフの刃と同程度には、彼女の右手は恐ろしい。

 もう目の前まで迫った村瀬陽香に向かって、ケイは足元の石を蹴り上げた。自信もなかったが、その石は上手うまく彼女の顔に向かって跳ぶ。


「全身、石」


 またコール。同時に彼女は、右手を石に向かって突き出す。それに触れた石が音もなく消える。演出のない手品のようだ。

 ケイは駆け出す。携帯電話を取り出して、モニターを確認する。津島からの連絡はない。春埼の方に視線を向けた。彼女はすでに、二〇メートルほど離れている。村瀬が春埼を狙うとして、その前にリセットの指示を出せるだろう。


 ――殺す? どうして。唐突すぎる。


 走りながら無理に体を折り曲げ、足元の石を拾った。つかみとれるだけ、まとめて。バランスが崩れるが倒れるほどではない。確認すると、手の中には四つの石があった。

 足を止めて、うち三つを村瀬に向かって投げつける。それほどコントロールに自信があるわけでもない――狙ったのは体の真ん中だった。ひとつは高く上がりすぎて村瀬の頭上を越え、後のふたつはとりあえず彼女に向かう。

 それを、村瀬は避けようともしなかった。彼女にぶつかった石がまた消える。ひとつだけ村瀬に当たらなかった石が、どこか遠くにこつんと落ちた。


あきらめなさい。私の能力は最強よ。たかだか思い出せるだけの能力と、時間を戻せるだけの能力に、負けるわけがないじゃない」


 ケイは村瀬から視線を外さずに、もう一歩分距離を取る。


「物を消す能力ですね。最初に体の部分をコールする。次に、消す対象を。コールした部分で対象に触れると、それは消えてなくなる」


 単純な能力だ。でも、汎用はんよう性は高そうだった。おそらく彼女は、リセットの効果を受けていない。他人の能力を消し去ることもできるのだろう。それに、前回――金曜日の朝に会ったとき、彼女は高く跳びあがった。重力の影響を消したのか? よくわからないけれど、そんなものまで消せるのなら、消えないものなんてあるのだろうか。


「私の能力に弱点はない」


 村瀬は再び、こちらに歩み寄る。


「ただ真っすぐに歩いていって、相手に触れればいいだけ。私が少し望むだけで、あんたは消えるわ」


 彼女が歩いた跡は、点々とむき出しの地面がみえる。


「それ、靴越しでも使えるんですね」


「答える必要はないわね」


「とても便利だ。たとえば、聴覚を消すと言って耳に触れれば、なにも聞こえなくなるんですか?」


「どうでもいいでしょう。これから死ぬんだから」


「なら、こんな使い方はどうですか? 嘘つきを消す、と宣言して、誰かと握手する。そのまま質問して、相手が嘘をついたら、手が消える」


「実際に試してあげましょうか?」


「ぜひ」


 ケイは笑う。


「もしかしたら、僕を生かしておいた方が便利だとわかるかもしれませんよ」


「なにがいいたいの?」


「マクガフィンを知っていますか?」


 村瀬が表情を変える。当たりだ。

 ケイもその質問に意味があると、確信していたわけではない。予想は立てていたが、裏道のような思考方法だった。今、ケイにみえている情報の中で、マクガフィンだけが孤立していた。だからどこかにつながると思った。それだけだ。一般的に考えれば推理と呼べるものではないが、別の視点を持ち込むことで意味を補強できる。今回の件に関して、ケイに与えられた情報は強く制限されている。その中で、マクガフィンだけは強引に、意識に刷り込まれた。ケイの向かいに座るプレイヤーが意図的に開示した情報だ。プレイヤーの姿は、はっきりみえている。情報を制限したのも、与えたのも、共に津島信太郎だ。彼しかいない。そして津島の性格を考えれば、マクガフィンが無意味なノイズであるはずがない。ケイは彼に、一定の信頼を置いている。

 ここまでは、わかる。問題はその先だった。

 村瀬陽香は、ゆっくりとケイに歩み寄る。


「マクガフィンの、なにを知っているの?」


「ゆっくりお話ししましょう」


 ケイは右手を、前方に差し出した。

 村瀬は小さな声でコールする。


「左手。私に対して嘘をついた人物」


 右手を村瀬の左手がつかむ。ケイは彼女の手に、さらに自身の左手を重ねる。


「できれば、握手は右手で」


 左手の中には小石を隠していた。村瀬にふれたとたん、それが消えたのがわかった。コールしなおしても、前の効果が継続する。本当に便利な能力だ。


「離しなさい。貴方あなたと仲良くするつもりはない」


「それは残念です」


 ケイは左手を離す。村瀬が一方的に、ケイの右手をつかんでいる恰好になった。


「マクガフィンはどこにあるの?」


「それは知りません。でも、持ち主の手がかりはあります」


 二週間ほど前に届けたメッセージを、もちろん覚えている。

 マクガフィンが盗まれる。――つまりは現在、マクガフィンには明確な所有者がいるのだろう。そしてケイは伝言を、津島に伝えた。なら彼か、彼の知る人物がマクガフィンを管理しているはずだ。

 村瀬は平然と答えた。


「それは知ってるわ。津島でしょ。私が知りたいのは、あいつがそれをどう保管しているのかっていうこと」


貴女あなたにも、わからなかったんですか?」


「二週間前には職員室にあった。でも、ぎりぎりで場所を移動した。きっとこっちの行動を予想していた」


「それは僕が手を貸したからです」


 村瀬はおそらく、一度はマクガフィンを手に入れたのだろう。それに気づいて、津島があの伝言を依頼した。


「リセット?」


「ええ」


「やっぱり、あんたは邪魔ね」


「でも、意外と優秀ですよ。僕はともかく、春埼の能力には価値があります。管理局に危険視されるくらいに」


「なら彼女だけ手に入れるわ」


「それには僕と手を組むのが手っ取り早い」


「ずいぶん自惚うぬぼれているのね」


 ケイは微笑む。違う。これは、罪の告白だ。


「ねぇ、村瀬さん。貴女はどうして、マクガフィンを探しているんですか?」


 マクガフィン。代替可能な、主人公と物語を関連づける装置。いったい、それはなんだ? 現実的にはどんな意味がある?

 村瀬は答えた。


「私は咲良田を手に入れる」


 まともな答えではなかった。


「あの噂を、そのまま信じているんですか?」


 皆実から聞いた。

 マクガフィンを手にした者は、咲良田の能力すべてを支配する。


「どうかしらね」


 村瀬は、微笑んだようだった。そうと確信を持てなかったのは、彼女の表情が強張こわばっていて、とても笑顔にはみえなかったからだ。


「でも、津島は管理局員よ。あいつが必死に隠すなら、なんらかの意味があるはずよ」


 いや。むしろ、反対だ。

 もしマクガフィンに噂通りの価値があるのなら、たったひとりの管理局員が職員室で保管するわけがない。管理局はおそらく、それの価値をほぼ認めていない。

 咲良田には様々な能力を持つ人たちがいて、それを束ねる管理局がある。管理局の統率は、表層だけみれば絶対的なものではない。市役所と警察にそれぞれ部署を持っている。その程度の存在でしかない。

 だが、管理局は完成されている。優秀な能力者と、能力に関するたくさんの情報を持っている。それだけでもう手の出しようがない。管理局から、咲良田を奪うことなんてできない。

 かつん、と小さな音が聞こえる。

 ケイはそちらに視線を向けた。


「なにをみてるの?」


「いえ――」


 続けてまた、同じ音。今度はかつん、かつんとふたつ続いた。村瀬にぶつけた石だ。時間経過で能力の効果が切れて、空中にまた現れた。ケイは左手で携帯電話を取り出して、時刻を確認する。効果時間は、ほぼ五分。間違いない。


「具体的な話を聞かせてください。なにをして、どうなったら咲良田を手に入れたことになるんですか?」


「話す必要はない。もういいわ。あんたは殺す。マクガフィンも手に入れる」


 彼女が再び、「右手、人体」とコールし直した。

 ゆっくり右手が、こちらの顔に近づいてくる。

 それが触れれば、自分は死ぬのだ――脅威ではあったが、危険なものなんか世の中にいくらでもある。死に方としては、冷たいナイフがめり込むよりも、女の子の手ででられる方がいくらかましかもしれない。

 村瀬の目は、まっすぐにケイをみていた。


「どこを消されて死ぬのがいい?」


 ケイもその目を、まっすぐにみつめ返す。


「ちょうど僕も、そのことを考えていたんです」


 左手で、携帯電話が音を立てた。良いタイミングだ。

 息を吸って。覚悟を決めて、言う。


「マクガフィンを持っているのは、僕です」


 瞬間、右手に激痛が走る。村瀬がつかんでいた右手。ケイはその場にしゃがみ込む。痛い。痛い。右手の痛みが全身を走り回り、脳にぶつかる。本当に、嘘つきなんてあやふやなものまで消せるのか。なんて能力だ。無茶苦茶に自由度が高い。くそ、痛い。でも痛覚なんかに気を取られている場合ではない。

 左手の携帯をみた。非通知くんに会わなければならない。彼の住所を手にいれたい。新着メールの画面を開く。一目みれば、たとえその情報を認識しなくとも、あとで映像として思い出すことができる。

 ほんの一瞬。メールの文面を視線でなでて、その先を春埼に向ける。彼女はじっとこちらをみている。たったひと言を待っている。ケイは、それを口にした。


「リセット」


 大きな声ではなかったけれど、春埼が聞き逃すこともないだろう。

 その声に重なるように、村瀬が「全身、能力」とささやくのが聞こえた。なにかを躊躇ためらうような声だった。

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