3話「日曜日の結末」

3話「日曜日の結末」①


       1 七月一三日(木曜日)――再び二日前



「七月一三日、一二時五九分、一五秒です」


 いつものようにセーブした時間を、春埼が告げる。ケイは能力を使って過去を思い出し、直後、右手の甲を押さえた。そこに傷はない。血も流れてはいない。だが、身体の芯が凍えるような痛みをはっきりと思い出す。


「大丈夫ですか?」


 と春埼が言った。

 咄嗟とっさに、ケイは右手の甲から手を離し、笑った。


「なんでもない。リセットしたみたいだね」


 村瀬陽香の能力が、おおよそわかった。それは大きな前進だった。

 春埼が首を傾げる。


「それは、お祭りに行く前ですか? 後ですか?」


「土曜のお昼に、リセットを使った。お祭りには、まだ行っていなかったよ」


「それはよかったです」


「そう?」


「はい」


「なら、よかった」


 ケイは、リセット前に起こったことをひと通り説明した。猫捜しの顛末てんまつ、壁に空いた穴、幽霊になった皆実未来、その犯人の非通知くん、そして唐突な村瀬陽香の襲撃。


「右手は?」


 と、彼女は言った。


「ちょっと怪我をした。でもリセットで治った」


 この言葉は嘘だろうか? ケイも自身がどれくらいの怪我を負ったのか、はっきりと把握しているわけではない。おそらく村瀬が触れていた部分が、ごっそり削られたのだろう。右手がすべてなくなるようなことにはならなかったけれど、骨くらいまでは到達していたかもしれない。あまり想像もしたくない。

 未だに右手に残る、記憶の中だけの痛みを無視して、ケイは言った。


「ともかく津島先生に会う。非通知くんのことを伝えないと」


 リセットの直前に届いたメールは、津島からのものではなかった。差出人は智樹で、夕食を食べに来ないかという内容だった。なにもかもが、そうタイミングよく進むわけではない。非通知くんの住所を調べるにしても、津島を頼るのが手っ取り早い。

 手早く彼にメールを打つ。皆実が幽霊になること、犯人が非通知くんであること、詳しく説明するから今すぐ部室に来てほしいということ。


「僕はこれから、部室にいくよ」


 春埼はうなずく。


「わかりました。じゃあ、今日は部室でお弁当を食べましょう」


 そういうことになった。


「嘘つき」


 と言ってみる。津島は顔をしかめた。


「そのセリフを男に言われても、なんかがっかりだな」


 ケイはため息をつく。


「春埼」


「えっと、嘘つき?」


 春埼が言うと、津島は頷いた。


「ああ、悪くない。もうちょっと、下から睨み上げる感じで言ってくれるとベストなんだが」


「ケイ?」


「やらなくていいよ」


 首を振ってから、ケイは下からにらみ上げる感じで言った。


「ミッションコンプリートだって言ってたでしょ。どうしてこんな、ややこしい事になってるんですか?」


「いや、俺は言ってない」


「明日言うんですよ」


「もう言わないよ。リセットの前のセリフまで、いちいち責任取ってられるか」


 津島はマグカップのコーヒーに口をつけ、顔をしかめた。もしかしたらこの人はコーヒーが嫌いなんじゃないかと思う。

 ケイはため息をついた。津島にみせつけたいわけでもなかったが、隠そうともしなかった。


「先生は、なにを知っているんですか? なにが起こっていて、なにをしようとしているんですか?」


「お前は気にするな。好井良治と皆実のことは、オレの方で対応する。問題ない」


「問題はあるでしょう。皆実さんは死んだ」


「生きてるよ、今はな。それに、あいつが被害に遭うことはもうない」


 人の死というのは、リセットしたからそれでなかったことになるようなものなのだろうか。ケイには判断がつかない。誰かが決めてしまってよいことでもないように思う。


「教えてください。僕はもう、無関係じゃない」


 踏み込まないわけにはいかない。リセットが人を殺すようなことが、あってはならない。


「どこまでわかっている?」


「まだなにも。でも、貴方あなたが村瀬さんのことを教えてくれれば、すべて繋がるのではないかと思っています」


「まだ早い」


「なにが? 情報は早ければ早いほど良い」


「懐かしい顔つきをするじゃないか」


 津島は笑う。明らかな挑発だ、と思った。乗ってもよかったが、気づいてしまえば、演技をする気にもなれない。ケイはひと呼吸おいて、会話の切り口を変える。


「マクガフィンの噂は、知っていますよね?」


 津島は頷く。


「あれを手に入れると、咲良田のすべての能力を支配できるらしいな」


「あり得ますか? そんなもの」


「普通に考えれば、ない」


「村瀬さんは、マクガフィンを欲しがっていました」


「ああ、知ってるよ」


「咲良田を手に入れるために、マクガフィンが欲しいのだと言っていました」


「それが?」


「僕も津島先生と同じ意見ですよ。普通に考えれば、マクガフィンなんてありえない。でも村瀬さんは、それが実在すると思っている」


 あり得ないものを信じるなら、その裏にはなにかがある。信じるに足る理由か、あるいは信じたいと願う理由か。


「もちろん効果は疑わしい。だが、マクガフィンと呼ばれるものは実在する」


 津島は意図的に話題を逸らしている、とケイは感じた。村瀬陽香から距離を取ろうとしている。でも今回は、ケイもそれに乗った。純粋に興味があった。


「どこにあるんですか?」


「職員室。俺の引き出しの中」


 ずいぶん乱暴な話だ。

 津島は笑った。


「最近は、できるだけ持ち歩いているよ。いつ村瀬が盗りにくるかわからない」


「効果がないなら、村瀬さんにあげればいい」


「欲しがるものをなんでも与えるのは反対だよ。教師としてはな」


 彼は、もう湯気が消えたコーヒーを飲み切って、席を立つ。


「昼飯がまだだろう? さっさと食えよ。休み時間はすぐ終わる」


 ドアの方に向かって歩く津島に、ケイは言う。


「いつまで待てばいいんですか?」


「ん?」


「まだ早い、と貴方は言った。なら、いつになれば早くなくなるんですか?」


 彼は、足を止めた。腕時計に目をやって、それから答えた。


「二、三日で、とりあえずの答えが出る。俺が想定している中で、最悪の事態ならまたお前に連絡する」


「最悪の事態というのは?」


 彼は肩をすくめてみせた。


「俺の友達が悲しむ」


 迷彩のような言葉だけを言い残して、津島は部室を出た。


       *


 春埼美空がみる限りにおいて、それからの二日間は、特別なことは起こらなかった。

 ケイはすぐに、野ノ尾盛夏に連絡を入れた。猫は必ず近いうちに帰ってくるから心配することはない、と伝えていた。そして、彼の言う通りになった。今回は金曜日の早朝に、パン屋の前を見張る必要もなかった。木曜の夜に、猫は野ノ尾の元に現れた。津島が車に乗せて連れてきたのだという。おそらく自分たちと村瀬陽香を出会わせたくなかったのだろう、というのがケイの予想だった。

 放課後にケイは、商店街の公衆電話から非通知くんに電話をかけたけれど、やはり繋がらなかった。彼には初めからそれがわかっていたようだった。非通知くんにトラブルが起こったのは、リセットで戻るよりも前――一二日の午後だと確信していた。理由は知らない。春埼はそのことを尋ねなかった。

 リセットから二四時間が経過して、金曜日の昼休みにまたセーブした。

 セーブのあとで、ケイは皆実未来をいつもの階段に呼び出した。春埼が同行することを、彼は嫌がらなかった。だから春埼は彼の隣でふたりの会話を聞いていた。

 ケイはリセットする前に起こったことを、ひとつずつ皆実に説明した。金曜日――今日の夕刻、皆実未来は幽霊を探すために山に登り、途中、好井良治に殺される。そして初めて能力が発動し、幽霊になる。翌日の早朝、好井良治が警察に出頭する。

 皆実の死は、言葉にすればほんの短くまとまった。説明に二、三分しかかからなかった。ケイがそれを知っている理由――リセットの説明の方に、余計に時間がかかったくらいだった。そのことに春埼はなんの感慨も抱かない。そのあいだ、自分たちがいる場所のことを考えていた。

 物置代わりに使われている、階段としての役目は果たさなくなった階段。視線を少し上げれば、屋上に続くドアがみえる。でもそのドアには鍵がかかっている。ここが、今の自分たちの定位置なのだと思った。ケイがそう考えていることを想像した。屋上は二年前に死んでしまった少女の場所だ。以前、ケイと彼女が抱き合っていた場所だ。春埼にだって、忘れられないことはある。

 窓の外では雨が降っている。ケイの話が静かに終わる。皆実はひと呼吸ほどの間をおいてから、ゆっくりとした動作で一度、頷いた。

 それから言った。


「このままだと死ぬって言われても、なんか実感湧かないな」


「もう死なないよ。津島先生が上手うまく対処してくれる」


「浅井くんは私が死んだってわかったとき、どう思った?」


 ケイは声のトーンを変えなかった。静かな口調のまま答える。雨音みたいに。


「昔、ある女の子が死んだんだ」


 それは、春埼にとって予想外の回答だった。もちろんケイは彼女のことを考えただろう。でもそれを自分から他者に語ることはまずない。春埼に対してさえ、ほとんど話題にはしなかった。

 でも、考えてみればリセットという能力のことを、クラスメイトに伝えたところから普段の彼とは違っていた。初めからケイは懺悔ざんげをしていたのだ、と気づいた。

 彼は続ける。


「リセットを使うよう、僕が春埼に頼んだせいで、二年前にも死ぬはずのなかった女の子が死んだ。皆実さんのことを知ったとき、僕はずっと、彼女のことを考えていた」


「その子は、どうなったの?」


「どうにもならない」


 ケイの声は変わらず、感情的ではない。


「僕は彼女を生き返らせる方法を、探しまわったんだよ。取り返しのつかない失敗を、なんとか取り返そうとした。でも上手くいかなかった。人を生き返らせる能力を、僕はみつけらけなかった」


 考えてみれば、それは不思議なことだ。咲良田では人の望みが能力になると言われている。これまで死者が生き返ることを、誰も望みはしなかったのだろうか? そんなことはないはずだ。なのにおそらく、咲良田には死者を生き返らせる能力がない。


「それでお終いだよ。あの子はどうにもなっていない。今もまだ、死んだままだ。少しタイミングが違っていたら、皆実さんも同じようになってしまったかもしれない。そのことを想像して、僕はおびえていた」


 彼の声を聞いていると、春埼は少しだけ泣きそうになった。泣くという感情を、ほんのわずかに思い出した。きっとまたすぐに忘れるだろう。でも、このときだけは思い出した。


「そっか」


 と、皆実は言った。


「とにかく私は、死んだら幽霊になれるんだね」


「多分ね。なにか、別の条件があるのかもしれないけど」


「でも、もし今夜、その好井って人に殺されたら幽霊になれる」


 彼女の声は、嬉しそうでも、悲しそうでもなかった。少なくとも春埼には、なんの感情もみつけられなかった。ただ事実を確認しているようだった。

 ケイが尋ねる。


「幽霊になりたい?」


「どうだろ。それはそれで楽しそうかな、とも思うけど」


「でも、好井さんの方は君を死なせたくないはずだよ。もし彼に、なにか伝言があれば伝える。どれだけ怒っても、恨んでもいい」


 彼の言葉で好井さんと言ったところだけ、なにか硬質な違和感があった。ケイにとってはまだ、彼の名前は非通知くんなのだろう。

 皆実は首を振る。


「今のところは、特にないかな。まだ生きてるんだから、悔しくもないし。お互いにもう覚えてないことで怒るのも、馬鹿馬鹿しくない?」


「うん。そうかもしれない」


 ケイは嬉しそうにほほ笑む。それは本物の笑顔だろう、と思った。怒ることが馬鹿馬鹿しいというのは、いかにも彼が好みそうなフレーズだ。


「なにか言いたいことができたらお願いするね。連絡先とか、わかるのかな?」


「津島先生に聞けばいいよ。教えてもらえるはずだ。好井さんはいろんなことを知ってるから、知り合いになっておくと便利だよ」


「うん、わかった」


 皆実は頷いて、続ける。


「美空の能力のことは、内緒なんだよね?」


「うん。できれば秘密にして欲しい」


「いいよ。秘密ってけっこう好きなの。なんか特別な感じがする」


 そう言って、皆実は笑う。よく休み時間に彼女が浮かべる、大げさな笑顔だった。


 事態が変化したのは、金曜日の夕刻、放課後になったすぐあとだった。ケイにメールが入り、春埼にもそれをみせてくれた。差出人は津島信太郎だ。

 明日――七月一五日、土曜日。午前一〇時に、ケイと春埼に会いたいという内容だった。場所は初めて村瀬に会った喫茶店だ。日付や時間もまったく同じ。春埼はケイに尋ねてみる。


「なんの用だと思いますか?」


 顔をしかめて、彼は答える。


「わからないよ。でも、あんまり良い感じはしないね」


 まったくだ、と春埼は思う。おそらく彼とは少し違う意味で。

 明日の夜は、ケイと一緒にお祭りにいく予定なのだ。あまり面倒なことを頼まれると困ってしまう。


       *


 その日、夜の遅い時間に、ケイはベッドに入った。

 これまでの出来事を思い出して、整理して、線で繋いで、それから短い夢をみた。あるいは眠る直前、ふいに浮かび上がった記憶だったのかもしれない。どちらでもいい。なんにせよそれは、二年前に起こった、現実の出来事だった。

 笑顔で語れる過去ではない。できるなら誰にも知られたくない、意識するだけで叫び出したくなる種類の思い出だ。これに比べれば、肉体的な痛みの記憶なんて問題ではない。

 あのときケイは、初めて自分のためだけにリセットを使った。みんな消し去って、なかったことにしたかった。でもケイ自身は、この記憶を忘れることができない。思考、五感、感情――そのすべてを、鮮明に覚えている。

 目の前には女の子がいた。場所は中学校の屋上だった。

 よく晴れた空。遠くにひとつだけ、安定した雲が浮かんでいる。

 ケイはそっと手を伸ばす。女の子は動かない。彼女の肩に触れる直前の、些細ささいで深刻な躊躇ためらいを、はっきりと思い出す。

 夏服のブラウスは薄く、つるりとしていて、すぐ下には柔らかな肌があった。その体温と、皮膚の内側にある骨の形を感じていた。手の甲に彼女の髪の毛先が触れて、少しくすぐったかった。

 彼女はじっとこちらをみていた。すぐそこに瞳がある。目を閉じてほしいなと思ったけれど、口には出さなかった。

 たぶんくだらない意地で、ケイも目を閉じなかった。彼女の唇は温く、そしてなんの味もしなかった。

 一呼吸後で、余韻が充分に薄らいでから、彼女は小さな声で言った。


「わからない」


 あるいは独り言だったのかもしれない。

 でも確かにケイには、その言葉が聞こえていた。


 これはもう失われた過去だ。

 覚えているのは、ケイだけだ。

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