2話「水曜日からの出来事」④-2


 それぞれの意味が明確ではないまま、だが確実に情報は集まりつつあった。

 誘拐された猫、壁に開いた手形の穴、野ノ尾の能力をキャンセルした能力者、それからマクガフィン。きっとどれもが、共通の背景を持っている。

 傘を握って歩きながら、ケイは考える。それらのピースは、どう繋がる? 可能性にはいくつか思い当たるが、それらは推測というより、空想と呼ぶべきものだった。まだ情報が足りない。

 雨はアスファルトを叩き続けている。その音は、どちらかというと好きだ。単純で些細な音の連続には静けさを感じる。静かなのは、心地いい。

 でも、雨に関するそれ以外の大半は嫌いだ。水不足が解消されるのは幸福なことだと思うけれど、あまり実感を持って喜べない。空気そのものが持つ湿気や、ずっと握りしめていなければならない傘は、明確に嫌いだと断言できる。たとえば片手に鞄を持ち、もう片方の手に傘を持っているとき、携帯電話が鳴り始めたらどう対処すればいいのだろう。傘はそろそろ、ふわふわと空中に浮かぶようになってもいい時期だ。

 そんなことを考えていると、本当に携帯電話が鳴り始めた。ケイはすぐ近くにあった店の軒先に入り、傘を畳んで鞄と同じ手に持ち直してから、電話に出た。意外とどうにでもなるものだ。

 電話からは少し低い女の子の声が聞こえる。


「もしもし、春埼です。ケイですか?」


「うん」


 電話越しに聞く春埼の声は、なんだか普段とは少し違っている。一度電波に変換されているからだろうか? 音の芯がわずかに振動していて、緊張しているようでもある。

 彼女は言った。


「壁に開いた穴について、調べてみました」


「お疲れ様。どうだった?」


「現場に行ってみたんですが、そこでU研の人たちに会いました」


「へぇ。皆実さん?」


「彼女もいました」


 たしかに、彼女たちが興味を持ちそうな話ではある。


「それで?」


「聞き込みを手伝うかわりに、彼らが知っていることを教えてもらえました」


「いいね。情報収集は、人数が多い方が効率的だ」


「はい。それに、彼らはすでにいくつか、知っていることがありました」


「へぇ。面白いね」


 穴が目撃されたのは昨日の午後のことだ。今日は学校もあった。いくらU研が調査に熱心でも、まだほとんど行動できていないはずだ。それでもU研が穴のことを詳しく知っていたなら、その理由は限られる。

 春埼は言った。


「壁に手形の穴が開いて消える、というのは、今までにも何度か噂になったらしいんです。前回は、およそ一年前」


「どんな噂だったの?」


「壁の穴を、彼らは死神の通り道、と呼んでいたらしいです」


「ずいぶん小さな死神だね」


 穴が手のひらの大きさなら、死神も手のひらサイズだということになる。


「死神の身長は聞いていませんでした。質問しておきましょうか?」


「いや、ただの冗談。どうして死神なの?」


「一年前、穴がみつかったすぐ近くで、同じ日に交通事故が起きたみたいです。死神は壁を抜けて移動し、出会った人を殺す、という噂でした」


「なるほど。で、今回はそこで誘拐事件が起きたわけだ」


「どういうことですか?」


「昨日、猫がいなくなった場所で、壁の穴が目撃されている。時間もだいたい野ノ尾さんから聞いていたのと一致する」


 猫は生きている。だから、犯人は死神じゃない。実は猫に死神がとり憑いていて、そのせいで明日あしたの朝、猫が事故に遭うというのなら話は変わってくるけれど。


「一年前に事故に遭った人は、亡くなったの?」


 もし会えるのなら、話を聞いてみたい。


「わかりません。U研の人たちも、それほど詳しくはないようでした」


「手形の穴の噂は、大勢が知っているものなのかな?」


「いえ。皆実さんも今日、初めて知ったと言っていました。そもそも死神の通り道と名づけたのもU研のようですから、当時の部員のほかは知らないのかもしれません」


「ま、そんなところだろうね」


 壁の穴と交通事故を繋げて考えるのは、U研くらいだろう。部員たちも、本心ではそのふたつが繋がっているなんて、考えていないのかもしれない。彼らは真実の探求よりも、フィクションのリアリティを向上させるために調査を行っている節がある。


「それで、今日の聞き込みの結果は?」


「彼らにつき合って、穴の近くで事故が起こっていないか調べました」


「あったの?」


「未確認ですが、近くの通りで小さな子が転んだみたいですよ」


「それが死神の仕事なら、ずいぶん平和的だね」


 もちろん無関係だろうけれど。よく調べたな、と素直に感心する。転んだ子供のことよりも、「穴の近く」をすでに割り出していることが有益だ。


「穴が空いた場所と、その時間を、できるだけ教えて欲しい」


「はい。メモしています」


 彼女は淡々と告げる。

 手形の穴の目撃情報は、三件あった。時間は夕暮れ時――午後七時になる少し前からの、三〇分間ほどだ。場所と照らし合わせると、北西の方向から川原坂へと向かって、穴が移動している印象だった。死神というのは別にして、たしかに「通り道」と表現したくなる気持ちがわかる。


「なにかわかりましたか?」


 と春埼が言う。

 ケイは答えた。


「死神は、二度移動している」


「え?」


「猫が誘拐された公園の近くだけ、穴があいた時間も場所もずれている」


「情報が偏っている可能性があります。今日は、川原坂の周囲だけで聞き込みをしましたから」


「だとしても、君が教えてくれた三つの穴は、ほぼ一本の線で繋がる。でもそこに公園のものを加えると、移動経路がよくわからなくなる」


 壁に開いた穴がこの四つですべてだとも思えなかった。川原坂の方が線になったように、公園の方も線で繋げる穴があったのかもしれない。午後三時ごろと、七時ごろ。死神は二度移動していると考えるのが自然だ。


「穴はやっぱり、勝手に塞がったの?」


「はい。様子はすべて同じです。あまり大きくない手形で、少し時間が経つと塞がるみたいです。穴ができる現場を目撃した人はいませんから、どのくらいの時間で閉じるのかはわかりません」


「穴をみつけてからふさがるまで、いちばん時間が長かったのは?」


「二、三分のようです」


 なぜ、壁に穴を開けたのか。なぜ、壁の穴がふさがるのか。そしてなぜ、すぐにはふさがらないのか。どれも理由がわからない。いったいどんな能力を、どんな意図で使えばこんな現象が起きるだろう?


「今日わかったことは、以上です」


 と春埼が言った。


「了解。助かったよ」


「明日はどうしますか?」


「もちろん朝、猫が事故に遭った現場に行ってみる。その後のことは、それから決めよう」


 猫が現れるなら、そのまま確保すればいい。現れないのであれば、まだもう少し考えることがありそうだ。


「わかりました。時間は?」


 尋ねられて、考える。


「朝六時、かな」


 パン屋の店員は、午前八時から九時の間に車のブレーキ音を聞いたと言っていた。ならその時間だけを見張ればいいのかもしれないけれど、一応は店が開くころから警戒することに決める。ブレーキ音が本当に、猫が事故に遭った時刻なのかわからない。一方で、もしパン屋の開店よりも前に猫がひかれていたなら、シャッターを開けるときに目に入っていそうなものだ。


「集合は、パン屋の前ですか?」


「僕ひとりでも大丈夫だと思うよ」


 それほど人手がいる作業ではない。それに、猫が現れない可能性もある。空振りするなら、人数は少ない方がいい。

 春埼は、やや強い口調で言った。


「私もいきます。コーヒーか紅茶を淹れていくので、一緒に焼きたてのパンを食べましょう」


 なるほど。それは素敵な計画だ。


「わかった。楽しみだよ」


「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」


「紅茶かな。コーヒーはよく飲むから」


「わかりました」


 電話を切る前に、彼女は小声で言った。


「明日は遅刻しないでくださいね?」


 ケイはできるだけ普段通りに答える。


「うん。気をつけるよ」


 春埼はリセット前、智樹の能力を使って同じメッセージを送ったことを知らない。あの騒々しいメッセージを、もう覚えていない。リセット前の出来事について、ケイは春埼に嘘をつかないけれど、でも起こったことすべてを言葉で説明できるわけもない。

 結局、リセットした時間の記憶を持っているのはケイ独りきりだ。そのことが誇らしかったころもある。でも最近は、ほんの少し寂しいだけだった。


       *


 通話を終えて、ケイは携帯電話をポケットにしまう。

 それから商店街に向かった。風景に溶け込んでつい見落としそうになる公衆電話の受話器を手にして、コインを投入する。もう何度も繰り返してきたことだ。非通知くんと話をするための、慣れ親しんだ手順だ。

 情報が足りない。求めているのは、壁に空いた穴に関する情報だ。明確な答えは得られなくていい。同じことが可能な能力を教えてもらえればいい。あるいは、また秘密だといわれても、その言葉が手がかりになる。

 けれど、電話は繋がらなかった。何度かけても、本当にただ無機質な女性の声でアナウンスが聞こえるだけだ。その息遣いも、決して変わらない。

 ちょうど二〇回目のアナウンスを聞いてから、ケイはコインを財布に戻した。それから津島にメールを入れる。

 ――非通知くんがいません。

 こんなことは、今まで一度もなかった。彼はいつも電話の向こうにいた。この電話以外で、非通知くんと連絡を取る手段なんて知らない。

 電話の向こう側にしかいなかった非通知くんが、別のどこかに消え去ってしまった。

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