2話「水曜日からの出来事」⑤
5 七月一四日(金曜日)――前日
七月一四日金曜日、猫が事故に遭う予定の日。
ケイは午前五時を少し過ぎた頃にベッドから抜け出した。ひどく眠い。窓の向こうでは、日づけが変わるころに一度降りやんだ雨が、再びざぁざぁと地面を叩いていた。
顔を洗って、制服に着替えて、ケイは部屋を出る。雨の中パン屋に向かった。
九時ごろまで見張るとなると、学校には遅刻することになる。でもそちらは津島がなんとかしてくれるだろう。奉仕クラブの活動も、それなりには――他の部活動が、大会に参加するためやむなく授業を休むのと同程度には――価値を認められている。
ケイがパン屋の前に到着したのは、約束の時間の五分ほど前だった。店の前には、もう春埼と、そして野ノ尾がいた。あの社以外の場所で彼女に会うのは初めてだ。青い傘をさして商店街の街角に立つ野ノ尾は、どこにでもいる高校生にみえた。
周囲に猫の姿はない。よかった。少なくともまだ、事故は発生していない。
「おはよう、早いですね」
ケイは軽く手を上げて声をかける。まだ完全に眠気が抜けきっていないからだろう、自身の声が少しくぐもって聞こえた。
春埼は「おはようございます」と答える。
野ノ尾はただ
ケイもそれ以上、口を開く気になれず、彼女たちと一緒にぼんやりと辺りを眺めていた。早朝の街に人は少ない。雨が降っているからだろう、犬の散歩をする人もいない。
ちょうど六時に、パン屋のシャッターが上がった。それから三〇分の間に、パン屋を訪れた客はひとりだけだった。スーツを着た二〇代の女性だ。この三〇分間、パン屋は彼女のためだけに店を開けていた。
六時三〇分。二番目の客として、ケイたちもパン屋に入る。道を見張る必要があるから、一人ずつ交代で。
店内の棚は、まだ五割ほどしか埋まっていなかった。ケイはその中から、焼きたてのものを選んで、ふたつパンを買う。たっぷりチーズが入った小さなフランスパンと、野沢菜が入った薄いパン。春埼はホイップクリームをサンドしたクロワッサンを買い、野ノ尾はアンパンと牛乳を買った。
焼きたてのパンは
春埼が水筒のフタに、紅茶を注いで差し出してくれる。それを飲み終えるころに、ようやくケイの頭から眠気が抜けた。
「猫はくると思いますか?」
と、春埼が言った。
「微妙なところだね。きてくれると、安心できるけど」
野ノ尾はアンパンにかみつき、それから瓶入りの牛乳を飲む。
「少し確認してみよう。浅井、なにか無駄話をしてくれ」
「んー。昨日見た夢の話とかですか?」
「とりあえずそれでいい。どんな夢を見た?」
「良い夢でしたよ」
というのは嘘だ。無秩序で、訳のわからない夢だった。
仕方がないので、適当に作り話を口にする。
「とても可愛い女の子がいて、しかもお金持ちで、周りがちやほやしてくれるんです」
「その子が君の恋人になるのか?」
「どうだったかな。もしくは僕自身がその女の子か、ですね」
答えながら、ケイは辺りを見回した。猫は現れない。車も通らない。事故の気配は、まだどこにもない。
「君は女性になりたいのか?」
「別に性別はどっちでもいいけど。お金持ちにもなりたいし、ちやほやもされたいですね」
とりあえずわかりやすい幸せの形ではある。
「でも、男に告白されたりするんだろう?」
「どっちかっていうと女の子に人気があるんですよ。年下の」
本当にどうでもいい話だった。別に年上の女性に人気でもいい。平和的で幸福なら、それでいい。
「野ノ尾さんは夢をみましたか?」
「みたと思う。でも、よく覚えていない。目が覚めたとき、なんだか少し寂しかったような気がする」
「思い出したいですか?」
「別にいい。――だめだな。上手く能力を使えない」
困ったものだ。さすがにその辺りでちょっと眠ってくれともいえない。彼女の能力は意外に発動条件が難しい。意図的に意識をぼかすというのは、構造そのものが矛盾しているように感じる。禅でも学べばよいのだろうか。
それからもしばらく話を続けてみるけれど、やはり上手くいかなかった。猫が事故に遭う予定の時刻が近づいていることで、野ノ尾も緊張しているのかもしれない。
ケイはそれほど、今日猫を助けることに
それだけわかっていれば、次にリセットしたときには間違いなく猫を助けられるはずだ。なんなら猫が道路に現れる時間に、道の真ん中に立っていてもいい。発煙筒でも掲げて。さすがに車も止まってくれるだろう。多少は叱られるかもしれないけれど、頭をさげて聞き流していればそれでいい。
時間はゆっくりと進む。パン屋の利用者も増えて、車も頻繁に通るようになった。携帯電話の時刻表示を見る。七時三〇分。猫が現れるには、まだ少し早いだろうか。
「もしも彼がやってこなかったら、君はどうするんだ?」
と、野ノ尾は言った。
「とくになにもしませんよ。事故は回避できたということだから。野ノ尾さんに、猫の無事を確認してもらって、それでおしまいです」
それは、本心ではなかった。村瀬陽香の依頼の真意が理解できなければ、やはり不安が残る。でも無意味に野ノ尾の不安を
「野ノ尾さんは、どうするつもりですか?」
「しばらく彼の様子を見守るよ。飼い猫になって、それで幸せなら別にいい。また野良に戻るなら、それはそれで別にいい」
「もし猫を拾った人物がわかれば、教えてもらえますか? できれば元気な姿をみておきたいから」
「ああ。わかった」
ケイが受けている依頼の内容は、あくまで猫を助けることだ。でもその裏側には、おそらく別の意図がある。誰の、どんな意図なのかはまだわからない。そこに深入りするべきなのかも判断がつかなかった。すべてを知りたいという、単純な好奇心もある。一方で不必要に首を突っ込むと、余計な問題を生む可能性もある。
――僕たちが利用されて、誰かが幸せになるなら喜ばしいことだよ。
と、以前春埼に言った。その言葉に嘘はない。だが、もしも知らないうちにリセットが悪用されているのだとすれば、見過ごすわけにはいかない。
そんなことを考えていた時だった。
「声だ」
と、野ノ尾が言った。そして走り出す。
よくわからないが、ともかく後を追う。
「声って、猫の?」
ケイには聞こえなかったけれど。
「間違いない。彼だ」
「耳がいいんですね」
「ああ。目もいいぞ」
野ノ尾は細い路地に入る。それに続いて、ケイと春埼も。角を曲がる直前、ケイにもか細い鳴き声が聞こえた。
立ち止まる。
路地の先に、猫はいた。灰色の、尻尾の先が曲がった猫だ。彼は細い腕に抱かれている。猫を抱く人物には見覚えがある。でも、ここで会うとは思っていなかった。
彼女は――村瀬陽香は、記憶の通りに不機嫌そうな瞳で、眼鏡の向こうからこちらを睨んでいる。猫がまた鳴き声を上げて、腕の中から跳び降りた。彼はそのまま野ノ尾に駆け寄り、彼女の足にその毛並みをこすりつける。村瀬はその様子を、じっと睨みつけている。
誰も口を開かなかった。春埼も野ノ尾も、村瀬の顔を知らない。彼女が誰だかわからないのだろう。ケイもこのタイミングで現れた彼女にどう声をかければよいのか、判断に迷っていた。でも、いつまでも黙り込んでいるわけにはいかない。
「おはようございます、村瀬さん。僕のことを覚えていますか?」
ケイは努めて軽く言う。一方で、彼女の表情を詳細に観察していた。リセットの効果を受けているのなら、彼女にとってもケイたちは初対面のはずだ。
村瀬が口元に力を込めたのがわかった。だがすぐに、彼女は背を向けて歩き出す。
「待って」
声をかけるが、村瀬は振り返らない。ケイは反射的に後を追う。
村瀬陽香が、なにか呟いたような気がした。
直後、彼女の体が宙に浮かびあがり、建物の向こうに消えた。
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