2話「水曜日からの出来事」⑥
6
「――ということが、あったんです」
昼休み、ケイは津島と共に、奉仕クラブの部室にいた。
奉仕クラブには、ケイと春埼の他にも何人かの生徒が所属している。たいてい一学年に二、三人は奉仕クラブに勧誘されるし、断る例は少ない。
でも、部室はあまり使用されない。他のクラブのように、顔を合わせて共通の趣味に関する作業を進めるわけではない。運動部のように着替えるスペースも必要ない。そもそも部員の人数がそれほど多くないし、友達と申し合わせて入部するクラブでもない。部室に顔を出す必要も、楽しみもなかった。ケイだって、腰を据えて津島と話をする場合くらいしかこの部屋を使わない。
部屋の中にはコーヒーの香りが漂っている。机の上にあるコーヒーメーカーは津島が勝手に持ち込んだものだ。この部室を最も利用しているのは、おそらく彼だろう。
「それで、猫はどうなったんだ?」
いつも通りに無精ひげの伸びた
「野ノ尾さんが連れて帰りましたよ」
「つまり、猫は助かったんだな。ならよかったじゃねぇか。ミッションコンプリートってやつだ」
もちろん、その通りだ。今のところ誰も不幸にならず、小さいけれど尊い命がひとつ救われた。今回は猫だったけれど、人間でも同じことは可能だろう。春埼美空のリセットはその有用性をまたひとつ証明し、報告書を書けばシュークリームの代金も部費で落とせる。
奉仕クラブの仕事はここまでだ。この先、なにをしようが、ただの好奇心でしかない。仕方がないので、ケイは好奇心で尋ねた。
「結局、村瀬さんの目的はなんだったんですか?」
「さぁな。猫を助けたかったんだろ」
「本当にそれだけですか?」
「ほかになにがあるってんだ?」
わからない。けれど、繋がりそうに思えた様々な断片が、結局は繋がらないまま終わりを迎えた。今回の出来事に関して、ケイからはごく狭いひとつの側面しかみえていないのだろう。全体を知りたいと考えるのは我儘だろうか。そうかもしれないな、とケイは思う。
津島は出来上がったコーヒーをマグカップに注ぐ。「飲むか?」と聞かれ、ケイは首を横に振る。七月だというのに湯気の立つコーヒーに口をつけて、津島は言った。
「お前は上手くやったよ。猫は助かって、依頼は達成した。明日になれば雨も上がる。これ以上、なにを求めるっていうんだ?」
その通りだ、とケイは思う。
そう思い込むように自分に言い聞かせる。
もちろん気になることは、いくらでもあった。
管理局は優秀な組織だ。疑っても仕方がない。同じように、津島のことも。様々な疑問点は、ケイの知らないところで、勝手に解決していくのだろう。あるいはそもそも解決しなければならない問題なんて、何ひとつないのかもしれない。
「最後に、ひとつだけ教えてください」
「なんだ?」
「今回の依頼は、管理局を通したものでしたか?」
「もちろん。奉仕クラブを動かすには、管理局の許可がいる。お前だって知っているだろ?」
「では、村瀬さんがまず依頼を持ち込んだのは管理局ですか? それとも、津島先生ですか?」
「質問は、ひとつだけじゃなかったのか?」
「僕は同じことを尋ねているんです」
つまり、今回の依頼は津島が独自に引き受けたものではないのか? 管理局の存在意義は能力によって起こる問題を排除することで、能力を使って世の中に貢献することではない。それが管理局の理性で、正義だ。一匹の猫のためにリセットを使う許可を出すのは、管理局の在り方に反している。
だが本来であれば管理局が拒否する依頼を、津島なら引き受けさせることができるかもしれない。その場合、今回の依頼の目的には、ケイが知らないなにかが設定されていたはずだ。事故に遭うはずの猫を助ける、なんて夢のような目的ではなくて、もっと管理局にとって意味のある、冷静な目的が。
津島は笑う。
「どちらでも同じだよ。管理局が引き受けて俺が動いたとしても、俺が引き受けて管理局を動かしたとしても、お前の立場は変わらない。管理局はすべて把握している。この先、なにが起ころうと、お前のミスじゃない。管理局が責任を持って対処する」
彼はなにか隠している。隠していることを、隠そうとしていない。おそらく、こちらに情報を与えるタイミングを操作している。なんのために?
――いや、そうじゃない。
今、考えるべきことは、もっとシンプルだ。津島を信じるべきか、疑うべきか。信じよう、とケイは決める。少なくとも津島は、悪人ではない。
「わかりました。報告書は、週明けに提出します。何枚か領収書もあるので、それも」
「急がなくてもいいぞ。月末までにあればいい。それから――」
マグカップにミルクを落としながら、津島は言った。
「最後にセーブしたのは、昨日の昼間だな?」
「はい。七月一三日、一二時五九分、一五秒です」
「そうか。当分はリセットを使うな」
「いつまでですか?」
「セーブから七二時間後、リセットできるぎりぎりの時間まで」
津島はまだ、なにかを警戒している。警戒していることまでは、こちらに伝えていいと判断している。その先は、なぜ隠す必要があるのだろう? ――まただ、とケイは笑う。信じようと決めたのに、すぐに疑うようなことを考えている。なかなか素直にはなれないものだなと思った。
「わかりました。問題ありません」
しばらくは、リセットが必要になることもないだろう。このあとの予定といえば、明日の夜に春埼と夏祭りにいくことくらいだ。
そう考えて、ケイはつけ加えた。
「そうだ。明日の朝、奉仕クラブの仕事があることにしてください」
「どうしてだ?」
「リセットの前に、村瀬さんからの依頼が理由で、クラスメイトの誘いを断ってるんですよ」
皆実未来からの、吸血鬼探しの誘いだ。リセットする前と違う行動は、極力取りたくない。どんなことがきっかけで、なにが起こるかわからないのだ。人の未来を無闇に変えてしまいたくない。
「わかった。もし訊かれればそう答えておく」
「それから明日の朝、春埼とモーニングを食べる予定ですが、部費で落ちますか?」
「リセット前に、村瀬に会った喫茶店か?」
「ええ」
「お前はこだわり過ぎだ」
「意外と美味しかったんですよ、そこのトーストが」
「好きにしろ。問題ない」
津島はコーヒーをスプーンでゆっくりとかき混ぜ、カップに口をつけた。そして顔をしかめる。彼はいつも、ひどく不味そうにコーヒーを飲む。なにか歪んだ美学があるのかもしれない。ひげは週に一度しか剃ってはいけないとか、年長者はコーヒーを不味そうに飲まなければならないとか。
「じゃあな。次の授業に遅れるなよ」
そう告げて、彼はマグカップを手にしたまま立ち上がる。でも普段なら彼は、コーヒーを飲み終えてからこの部屋を出る。
「忙しそうですね」
「それなりにな」
「なにをしてるんですか?」
「教師の仕事だよ。今は不登校の生徒の説得だ」
「津島先生が?」
ケイは顔をしかめてみせる。無精ひげのまま、家庭訪問しているのだろうか。
「当たり前だろう。教師は生徒に、学校にこいと言うもんだ。耐えがたい仕事だが、仕事である以上耐えるのが大人ってもんだ」
「嫌々ですか」
「嫌々だよ。だって面倒だろ、学校って」
それはそうだけれど、教師が言ってはいけないセリフのような気がする。とはいえ、気がするだけで理由もない。
「嫌々来いって説得してるんですか?」
「それじゃ無理だと気づいたから、学力の必要性を説いたりした」
「それで?」
「テストしてみたら、満点取られた。悔しいからひっかけ問題満載にしたら、こんなもん学校で習うのかと言われたよ。反論できないだろ」
「もっと、友達の素晴らしさとかの感情論を使ってみたらどうです?」
「そんなもんで誰が納得するんだよ。だいたい、感情で人を説得していいのは子供か美女だけだ」
まったくその通りだ。ケイは黙って笑っておいた。
彼は立ったままコーヒーカップに口をつけて、小さなため息をつく。
「ゆっくり、慎重に進めるよ。小まめに連絡だけは入れている。説得のしようもないなら、しばらく好きにさせるのがいちばんだ」
「それで学校に来るようになりますか?」
「どうかな。でも、叱るにせよ励ますにせよ、タイミングが重要だ」
津島はどこか人懐っこい笑みを浮かべる。きっとそれも、教師としての技術のひとつなのだろう。表情ひとつで生徒との距離を詰める術を知っている。
「高校生くらいになりゃ、大抵やるべきことを自覚してるもんだよ。できるのかできないのか、どんな方法が有効なのか。そういうのはわからなくても、答えだけは知っている。なら教師は、答えを教える必要はない。ただ生徒に利用されていればいい」
その方が楽でいい、と津島は言った。そのままこちらに背を向けて、マグカップを手にしたまま部屋を出る。
ドアが閉まってから、ケイは椅子の背もたれに身体を預けた。自然と天井を見上げて、猫と、村瀬の関連性について考える。いくつかの予想を立てて、その可能性を吟味する。それからひとり笑った。思考というのは自動的なものだなと思う。考えようとして考え始めることはできるけれど、考えないでいようとしても、そうするのは難しい。
納得しよう、と胸の中でつぶやく。依頼は終わったのだ。猫の捜索に関するいくつかの出来事を、わざわざ忘れる必要はない。でも同じように、あえて関わろうとして周囲をかき乱す必要もない。
ケイも席から立ち上がり、部室を出る。
*
放課後になると
春埼美空はケイを誘って、帰り道のルートを外れた。彼女がそうしようと決めたのは昼休みのことだった。ケイが津島と話しているあいだ、春埼はひとり、いつもの階段の踊り場にいた。そしてケイがやってくるのを待っていた。
春埼には、屋上に近づくたびに思い出す記憶がある。とても断片的な、一枚の写真のような。それはケイと、そして二年前に死んでしまった少女に関する記憶だった。
彼女はケイにとって重要な意味を持つ人物だったのだろうと思う。春埼の記憶の中で、ケイと彼女は抱き合っていた。中学校の、いちばん南にある校舎の屋上でのことだ。彼女がケイにもたれかかり、彼はその身体を優しく抱き止めていた。この記憶がもしも本当に写真だったなら、誰の目にも恋人同士にみえただろう。
ふたりがつき合っていたという話を、春埼は聞いたことがない。確認をしたこともなかった。今、思い返してもケイと彼女の関係は、一般的な恋愛とは違うように思う。でも考えてみれば、春埼には一般的な恋愛というものがよくわからないから、なんの根拠もない印象だ。少なくともふたりが、互いを特別視していたのは間違いない。そしてあの光景を思い出すたびに、春埼は言葉にし難い不安を覚える。彼女が死んで二年経った今も、まだ。
だから、という接続詞で正しいのか、春埼自身にもわからない。でもとにかく屋上のことを考えたすぐあとに、今日の放課後をケイと共に過ごそうと決めた。猫捜しは終わったのだ。彼の迷惑になることもないだろう。
ケイはあっさりと春埼に同行することを承諾した。過去を鑑みて、彼が理由なく春埼の誘いに乗る確率は五割程度だった。そう珍しいわけではないけれど、それでも半分の確率に勝利できるのは幸福な出来事だと思う。
「どこに行くの?」
とケイが言う。
難しいところだ。本当は浴衣に合う髪留めを探しに行きたいが、装飾品をみて回るのは彼の好みから外れそうだ。でも彼の好みに合わせすぎると、喫茶店で本を読み続けるような展開になるので注意が必要だった。バランスを心がけなければいけない。
「とりあえず本屋に行きましょう」
「商店街の?」
「美倉まで行っていいですか?」
「もちろん」
美倉書房というのは、郊外にある大型の書店だ。少し距離はあるけれど、そのぶん品揃えがいい。そして向かう途中に和風の商品を扱う小物屋がある。あそこなら髪留めも置いているだろうし、少し覗くくらいならケイも嫌な顔はしないだろう。そもそも滅多に嫌な顔をしないから対応が難しいのだけれど。
ケイはビニール傘越しに空をみあげる。
「帰り道には、ちょうど雨も上がるね」
彼が言うなら、それは真実だろう。実際に体験したことを口にしているのだから外しようがない。
ふたり、並んで歩く。ぎりぎり傘が触れないくらいの距離だった。少し離れすぎているな、と春埼は思う。やっぱり並んで歩くなら晴れの日がいい。
雨の降る街は物静かだった。帰路につく生徒たちの口数も自然に減っている。春埼もケイも、普段よりは言葉が少ない。
静かに歩くことに、大きな不満があるわけでもない。ケイに出会って、およそ二年。これまで様々な話をしてきたし、改めて尋ねるべきことも、今は思いつかない。それでもやはり会話はあった方が楽しい。おそらくケイのことを完全に理解するのは、どれだけ時間をかけても不可能だろう。相手が誰であれ、人間ひとりを隅々まで理解できるとは思えない。でも、そのパーセンテージを少しずつ上げることはできるはずだ。少なくともそれを望まないよりは、よほど有意義な結果が生まれるように思う。
些細なことでいい。春埼は会話を探す。
「最近、なにか本を読みましたか?」
ケイは読書を好む。割合としては一般的な小説が多いけれど、明らかに子供向けの絵本も読むし、よくわからない哲学書も読む。悲しい結末の物語は嫌いだというけれど、だからといってそういう本を読まないわけでもない。以前、小説が好きなんですかと尋ねてみたことがあった。彼は文字を読むのが好きなんだよと答えた。
「ちょうど今、読みかけの本があるよ」
「どんな本ですか?」
「児童書だよ。文字が大きくて、画数の多い漢字には全部振り仮名がついている」
彼はその本についての話をした。恐れられ、除け者にされた、一匹の竜の話だった。竜は悲しみながら、色々なところを旅する。どこにいっても、彼は受け入れられない。村に行けば悲鳴が上がり、森にいけば動物たちが逃げ出す。そして竜を倒そうと、兵隊が追いかけてくる。誰も傷つけたくない竜は、孤独な旅を続けるしかない。
「ある時、竜はひとりの人間に出会う。胡散臭いしゃべり方をする、みるからに信用できない男だった。でも、その男は竜を恐れなかった。友達になってくれるというから、竜は喜んで彼についていった」
「それで、竜は幸せになれるんですか?」
「どうだろうね。男は、やっぱり善人ではなかった。竜を使って村から人々を追い出して、その間に色々なものを盗み出した。農作物、猟銃、高価な衣類、神さまの像。みんな売り払ってお金にした。そのお金で彼は竜に安物だけど綺麗なネックレスや、オルゴールなんかを買ってあげた。友達だからって言ってね」
その竜は、不幸なのか、幸福なのか。微妙なところだった。それまで仲間がひとりもいなかったのだから、誰であれ一緒にいてくれる人がいるのは幸せなことだろう。だからといって童話として、泥棒が許される可能性は低いように思う。
ケイは続きを話す。
「ところで、男には仲間がいた。竜と同じように、弱みにつけ込んでカラスや犬なんかを手下にしてたんだ。竜は少しずつ、彼らと仲良くなっていく。動物たちはみんな、泥棒が悪いことだと知っているから、ある日団結して男をやっつけようと考える。竜がいれば、人間なんかに負けるはずがないからね」
「それで、竜はその人をやっつけたんですか?」
「難しいところなんだ。彼はね、ぎりぎりのところで、いつもいい奴のふりをするんだよ。捕まった竜を逃がしてくれたり、食料がなくなったとき、最後の干し肉を半分くれたり。嘘をつくのが上手いんだと思う。村を襲う前は、必ずその村には悪者たちしかいないような話をするし、竜はそれを疑わない。動物たちになにを言われようと、彼のことを悪者だと思えないんだね」
その続きは読んでいない、とケイは言った。どこまでが事実だかはわからない。全部読んでいて知らないと言っているのかもしれないし、そもそもこの本の話自体、ケイが作ったものなのかもしれない。彼は
「竜はいったいどうすると思う? 男を裏切って、動物たちの味方をするのかな?」
「たぶん裏切らず、その人を改心させるんじゃないですか?」
「へぇ、どうして?」
「だって、それが一番幸せな結末だから」
ケイはしばらく、なにかを考えている様子だった。それから頷く。
「なるほど、その通りだ」
彼にとって満足のいく答えを返せたようで、春埼は少し嬉しくなった。
それからふたりは、色々な話をした。綿菓子みたいにふわふわした会話だった。口に含めば、すっと溶けてなくなるような。
最近聞いた新しい音楽と、何十年も前に生まれた歴史的な音楽についての話をした。もうすぐ訪れる夏休みと、その夏休みの素敵な過ごし方についての話をした。ケイは、夏に必要なものはラムネと花火だと言った。それからアイスクリームとかき氷、どちらがより優れているのかについて話し合った。互いに、どちらでもいいと思っていることを知っていた。
途中、春埼は髪留めを買う予定だった店をみつけた。ガラス越しに、並んでいる髪留めがみえた。その中の、右から二番目に飾ってある髪留めが綺麗。派手すぎない深い赤で、シンプルで、きっとケイも嫌いではないだろう。
でも、彼との話が途中だったから、なにも言わずにその前を通り過ぎた。明日、時間があれば買いにこようと思う。
本屋を往復して四〇分と少し。少し短いな、と春埼は思ったけれど、それを何倍しても満足できる数字にはならないような気がして、今日のところは納得しておくことに決めた。
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