2話「水曜日からの出来事」③-2


「すみませんでした」


 と春埼が言う。


「いや。ちょうどよかったよ」


 とケイは答えた。ただ慰めたわけではない。このリセット後の世界で、どこまで「前回と違った行動」をするのか、その線引きを考え直すべきではないかと悩んでいたところだ。マクガフィンという言葉の意味は気になるし、その相談相手として皆実未来は悪くない。好奇心が強い、一般的な高校生が知っていてもおかしくないレベルの情報を、彼女は教えてくれるかもしれない。理想でいえばセーブしたあとで質問したかったが、失敗というほどでもないだろう。

 昼休みだ。ケイは春埼と共に教室を出て、階段を上る。でも決して屋上には到達しない。鍵のかかったドアの手前で、いつも足を止める。

 ふたりは並んで階段に腰を下ろし、膝の上で弁当箱を広げた。ケイは携帯電話を取り出して、時間を確認する。あと一〇分ほどで、リセットから二四時間が経過する。もう一度セーブできれば、ずいぶん心理的に楽になる。

 携帯電話をポケットに戻そうとしたとき、ちょうど着信が入った。野ノ尾からだ。二度目のコールが鳴る途中で電話に出る。


「はい。浅井です」


 電話の向こうから、悲痛な声が聞こえた。


「眠れない」


 それはそうだろう。

 野ノ尾が能力で猫と意識を共有するには、自分を忘れるくらいなにも考えていない状態にならなければいけないらしい。そのためには眠るのが一番だという。一時間ごとに連絡が来ていたのだから、彼女は繰り返し短い睡眠をとっていたのかもしれない。だとすればさすがに、目が冴えてくるだろう。


「昼間なら、犯人も家を空けているんじゃないですか? たぶん安全ですよ」


「いや。誰かがいる気配はあるよ。だがどうやら、誘拐された彼の方がよく眠っているようだ。まだ相手の顔はみえない。そしてやっぱり、しばしば能力が途切れる」


 彼女の話から、わかることがふたつある。

 猫を誘拐した誰かは、仕事にも学校にもいっていない。そして犯人が、他者の能力を打ち消す能力を持っているなら、それを常に使ったままの状態にしている。なぜだろう? 簡単には解除できない能力なのか、それとも解除したくない理由があるのか。

 野ノ尾が言った。


「どうしても眠れないんだ。手伝ってくれないか」


「子守唄でも歌いましょうか?」


「悪くない。でも、別の方法を試してほしい」


「僕にできることでしたら、なんでも」


「ありがとう」


 電話の向こうの彼女は、疲れた様子で笑った。

 野ノ尾盛夏と猫の関係は、まだよくわからない。でも彼女が一匹の猫を心から心配しているのは間違いがない。もちろん「たかが猫だ」と言ってしまうこともできる。その言葉を嫌悪することもできる。ケイはどちらかというと、後者でいたかった。


「僕は、なにをすればいいですか?」


「話をしてくれ」


「どんな話を?」


「できるだけ、ぼんやりとした話をしたい。どうでもよくて、眠たくなるような。くだらない話をしよう」


 なかなか難しい。

 少し考えて、ケイは尋ねてみた。


「将来の夢は?」


 間を置かずに、彼女は答える。


「現状維持だよ。もちろん、彼を連れ戻してからだが」


「高校生が将来も現状維持っていうのは、なかなかハードルが高いですね」


 望んでも望まなくても、高校という場所からはいずれ追い出される。ほんの数年で周囲の環境が劇的に変わるのが、学生の特徴だ。

 つまらなそうに、野ノ尾が言う。


「そういう現実的な話に興味はないよ」


 なるほど、なら非現実的な話をしよう。


「生まれ変わったらなりたいものは?」


 電話の向こうの野ノ尾は、しばらく考え込んだようだった。やがて彼女は、ゆっくりとした口調で答える。


「そうだな、大きな木がいい」


「どうして?」


「私の身体を、猫が登るんだ。そして枝に腰を下ろし、遠くをみる。私も一緒に遠くをみる。高い木だから、ずっと遠くまで見渡せる。世界は平和で、よく晴れていて、私と一匹の猫がそれをみている」


 なるほど、素敵だ。彼女が語る言葉には、きっと確かな幸せがある。誰もが求める種類の、強固な幸せが。


「でも、あんまり高い木だと、猫が下りられなくなるかもしれません」


「ならそれでもいい。私がその猫を守るよ。美味しい果物が生る、大きな木だ。枝の上に猫の楽園を作る」


「猫って、果物を食べるのかな。やっぱり魚の方が好きなんじゃないですか?」


「好物はいろいろだよ。果物が好きな猫もいる」


「でも、毎日果物ばかりだと、飽きてしまうかもしれません」


「その通りだな」


「なら、やっぱり木からは下りられた方がいいですね」


「わかった。上り下りし易いように、全身に蔦を巻きつけよう。猫は食事を終わらせてから、ゆっくりやってくるんだ。嬉しいことがあった日も、悲しいことがあった日も変わらず」


「最高ですね」


 どうにかケイに聞こえるくらいの小さな声で、野ノ尾は笑ったようだった。


「君はなかなか、くだらない会話が上手いな」


 どこか間延びした声で、彼女は言った。


「浅井。君は生まれ変わったら、なにになりたい?」


 答えは決まっていた。


「僕は神さまになりたい。いちいち人に試練を与えたりしない、人間不信じゃない神さまに。お腹がすいている人にはパンをあげて、悲しんでいる人は幸せにする。毎日、そんな仕事をして暮らしたい」


 きっとそれは人の為なんかじゃない、もっとエゴイスティックな理由で。世界中から悲しみがなくなればいい。


「木になった貴女あなたと猫のために、遠くの空に虹をかけてもいいんですよ」


 本当に、そんな風に生きていきたいんだ。人間は神さまにはなれないことなんか、ずっと昔から知っていたとしても。

 野ノ尾は言葉をゆっくり咀嚼そしゃくし、呑み込むような時間を置いてから言った。


「なにか悲しいことがあったのか?」


 もちろん、あった。悲しいことがひとつもない生活なんてありはしない。そしてケイは、そのすべてを覚えている。二年前に死んだ少女を、忘れたことなんてない。


「世の中は、ちょっと悲しいことが多すぎると思うんです」


 電話の向こうの野ノ尾は、長いあいだ、なにも言わなかった。ケイもこれ以上、話すべきことがなくて、同じように黙っていた。

 やがて囁くような声で、彼女は言った。


「少しだけみえた。猫は無事だ」


「よかった」


「ああ。また連絡する」


 電話が切れる。時刻表示を見る。一二時五八分。しばらく眺めていると、五九分になった。野ノ尾と話しているあいだも、じっとこちらをみていた春埼に言う。


「時間、頼むよ」


「はい」


 彼女は携帯電話を取り出し、三桁の番号を押す。時報を読み上げた。


「五九分、一〇秒、一一、一二……」


 一三のコールを聞いてから、ケイは言った。


「セーブ」


 一拍置いて、春埼は応える。


「七月一三日、一二時五九分、一五秒です」


 彼女の声を聞きながら、ケイは五分前を思い出す。電話で野ノ尾と会話をしているところだった。


「まだリセットはしてないみたいだね」


 セーブした直後に少し前のことを思い出して、リセットの使用を確認するのが習慣になっていた。

 春埼は微笑む。


「それじゃあ、お弁当を食べましょう」


 七月の上旬に期末テストが終わってから、通常の授業が減っていた。それでも高校生は決まった時間、教室の席に座っていなければいけないらしく、午後は自習だった。クラス担任の教師は教卓の向こうにパイプ椅子を置き、そこに座って本を読んでいる。文庫本のサイズだが、ブックカバーがついていてタイトルはわからない。

 ケイはぼんやり雨の降る校庭を眺めながら、二年前の出来事について考えていた。野ノ尾の話を思い出す。遠くまで見渡せる、楽園のような、高い木の話。二年前のケイにとって、それは中学校の屋上だった。あるいは、今でも。

 記憶の中のケイは、春埼と並び、彼女が現れるのを待っていた。彼女よりも先にケイたちが屋上に訪れることだってあったのだ。たまには。

 当時の春埼は今よりも少し背が低かった。けれどこの二年間で、ケイの方がより身長を伸ばしたから、頭の位置は当時の方が近い。春埼の髪は現在と違って長く、顔つきは今よりもずっと無表情だった。

 中学二年生の春埼美空は、有り体に言って変わった女の子だった。まるでたったひとつの公式でできているように、徹底的にシンプルで、純粋で、理性的だった。少なくとも当時のケイには、そんな女の子にみえていた。

 記憶の中で、中学二年生だったケイが言う。


「考えてみたんだ。君について」


「私の、何についてですか?」


 彼女は会話の中で理解できない部分を、まっすぐに尋ね返してくる。それはとても誠実な対応だと思う。でも彼女の誠実さに気づく人は少ない。きっと彼女自身も、それに気づいてはいない。


「部分じゃないよ。春埼美空すべてのことだ。でもあえて限定するなら、君の思考や哲学について、だね」


「私には、哲学という言葉がよくわかりません」


「なら辞書で引いてみればいい。わからないことに気づくのは賢明だけど、わからないまま放置するのは愚かだ」


「愚かであることは問題ですか?」


「場合によっては。それに賢明であれば、周りの問題まで解決できる。僕は頭の良い人が好きだ」


「わかりました」


 春埼は頷く。そして会話が途切れてしまう。彼女にとってはそれでなんの問題もないのだろう。さらに話すべきことがあれば勝手に話せばいいし、なければ黙っていればいい。単純なことだった。

 ケイは話を戻す。


「春埼。君にはなにかが欠けているね」


「何に対して欠けているのですか?」


「人間として、欠けているんだよ」


「私が欠けているのなら、完成した形はどこにあるのですか?」


「完成した形は、そうだね。どこにもないのかもしれない」


「わかりません。私は人間です。それに、完成した人間ならいくらでもいるのではないですか? たとえば、貴方も」


「たしかに君は人間だ。それは間違いない。でも、欠けている。たとえばリンゴを半分に切っても、それはまだリンゴだろう? そして同時に、全体からみれば半分が欠落している。そういうことだよ」


 ケイは一度、言葉を切った。ケイ自身がどんな風に欠けているのか、説明しようかと少しだけ悩んだ。でも、意味のないことだ。

 一般論として続ける。


「同じように、誰だってどこかが欠けているのかもしれない。完全な人間なんて、この世界にはいないのかもしれない」


 春埼は少しだけ首を傾げる。


「すべての人が欠落しているなら、そもそも欠落した状態が人間として正しい姿なのではないのですか? 貴方の定義する人間の方が、過剰になにかを持ちすぎている可能性はないですか?」


 そうかもしれない。しかしケイは首を振る。


「問題は、そこじゃないんだ。一般的な人の定義はどうだっていい。ただね、君はその欠落があまりに大きいんじゃないかと思うんだよ」


「私はなにが欠けているのでしょう?」


「なんだと思う? 僕はそのことを、真剣に考えてみたんだよ」


 春埼は沈黙した。けれどそれは、ほんの短い時間だった。結局いつものように、彼女は淡々と答える。


「感情ですか?」


 ケイはまた首を横に振った。


「僕も初めはそれを疑っていた。簡単に思い当たって、とりあえず納得できそうな回答だ。でも、違う。君にも感情はある」


「ありますか?」


「ないと思ってるの?」


「いえ。でも、これまでに何度かないと言われました。それに私は、私の感情を証明する方法を知りません」


「誰だってそうだよ。世界中の人々の大半は、自身に感情があることを、他者にきちんと論理立てて証明したことなんてない」


 ケイはじっと、春埼の瞳をみつめる。


「たとえば自分の感情を証明しなければならないという発想が、君の思考で、哲学で、欠落した部分を示しているんじゃないかと僕は思う」


 春埼の瞳は不動だった。なんの変化も観測できない。だから人は、この少女から感情が欠落していると思い込んでしまうのだ。


「意味がわかりません」


 と春埼は答える。


「説明して欲しい?」


 とケイは尋ねる。

 春埼はゆっくりと首を振る。


「いえ。あまり興味がありません。やはり私には、感情がないのかもしれません」


「いま」


 ケイはぱん、と手を叩く。


「いま君に、なにかの感情が生まれたね? 悲しみ、諦め、失望、あるいは優越感なんかかもしれない。なんでもいい。ともかく、無感情ではなかった」


 春埼の瞳が、初めて揺らいだような気がした。


「はい。おそらくは」


 ケイは頷く。心の底から、目の前の少女を肯定するように。――傍からは、きっとそういう風にみえるように。


「春埼。君に欠落しているのは、なにかを特別だと考える意識だ。君は知らないかもしれないけれど、多くの人は自分自身が特別で、なによりも重要なものだと信じ込んでいるものだよ。無自覚でも、本能的に。なのに君は、自分を特別だと考えていない」


 自分が特別ではないから感情も希薄で、自分が特別ではないから主体性がない。自分自身の問題も、他者の問題も、空想や仮定上の問題も、同じように考える。自身の感情まで、他者に示すには論理として成立した説明が必要だと考える。


「君の特殊性は、色々な言葉で表現できるのだと思う。でも僕は、たったひとつの言葉を選ぶよ。春埼美空。君は、歪んでいない。誰でも当たり前に持っている、思考や価値観の歪みを持っていない。ゼロでなくても、とても希薄なんだ。だから自分自身さえ特別だと思えない」


 極めて珍しいことに、春埼は長い間考え込んでいる様子だった。

 それから言った。


「ひとつ、質問があります」


「なんだろう?」


「浅井ケイ。貴方はどうして、私について考えたのですか?」


 ケイは笑う。そこには、わかりやすい意図があった。しかし答えない。

 代わりに言った。


「春埼。君も僕について、考えてみてよ。もしかしたら答えがわかるかもしれない」


 彼女はまた沈黙を挟んで、「わかりました」と頷く。

 それで、会話が終わった。

 後はふたり共に黙り込んで、彼女が現れるのを待っていた。

 チャイムが鳴って、ケイは意識を現在に引き戻した。

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