2話「水曜日からの出来事」③-1


       3 七月一三日(木曜日)――二日前



 翌日になっても、雨は降りやまなかった。

 昼休みのひとつ前の休み時間、春埼美空は教室の窓から、ぼんやりとそれを眺めていた。ケイの話によれば、この雨は今夜遅くに一度降り止み、夜明け前にまた降り出すらしい。明日は猫が事故に遭う予定の日だ。つまり猫は雨の中死んだことになる。おそらくそれは、一般的には悲しむべきことなのだろう。

 視線をケイの方に向けてみる。彼はなにやら携帯電話をいじっているようだった。おそらくは野ノ尾盛夏と連絡を取っているのだろう。

 野ノ尾からは休み時間ごとに連絡が入っているようだ。彼女は頻繁に能力を使って猫の安否を確認している。おそらく学校を休んでいるのだろう。前の休み時間――二限目が終わった時点では、猫はまだ生きていたらしい。本来、猫が死ぬのは明日の朝のはずだけど、リセットによってその運命が変わってしまった可能性もゼロではない。リセット前は、野ノ尾はその猫に対して能力を使わなかった。村瀬陽香の思惑もまだわからない。もっとささやかなことで、たとえば三月堂のシュークリームの売り上げがいくつか伸びたという程度のことで、未来が変わらないとも限らない。猫が明日の朝まで死なないとは、誰にも断言できない。

 とはいえ今、ケイの表情は明るかった。きっと今回も大丈夫だったのだろう。あと一時間で昼休みだ。昼休みになればセーブができる。それまで無事なら、猫を助けられる確率はずっと高くなるはずだ。

 猫には無事でいて欲しい。心からそう思う。もし猫がどうにかなってしまったら、ケイはそれを自分のせいだと考えるだろう。どうせ金曜日の朝、事故に遭う予定だった、といっても彼の慰めにはならない。

 ケイが携帯電話をポケットにしまう。春埼は席を立ち、彼に歩み寄る。だが、春埼よりも先に、中野智樹がケイの隣に立った。仕方なく少し後ろで足を止める。

 中野智樹が、ケイに向かって言った。


「知ってるか? 壁に開いた穴の話」


「穴?」


 ケイの横顔がみえた。わずかに彼の目が細くなる。傍目を気にせず考え込んでいるようで、その表情になんだか違和感があった。

 中野智樹はいつものように、大袈裟に手振りをつけて続ける。


「いいか? 昨日の夕方の話だ。目撃者を仮にAとしよう。Aは学校の帰り道、夕焼けに照らされた道を歩いていた。目を閉じて想像してみてくれ。蒸し暑い夏の、どろりと体に纏わりついてくる空気。それが血液みたいに真っ赤に染まっている時間だ」


 長い話をする時、妙に嘘臭くなるのが彼の特徴だった。


「それだけじゃ想像できないよ。場所は大通り? 裏路地?」


 そう尋ねるケイの表情は、普段無駄話をしているときとなにも変わらないものに戻っていた。でも質問が妙に具体的で、彼がこの話に興味を示しているのだとわかった。


川原坂かわらざかの辺りだよ。ハイソな住宅街ってやつだ。ずらりと並ぶまっ白な壁も、やっぱり赤く染まっていた」


 川原坂とは、学校から見て南東にある一帯を指す地名だ。こちらから向かえば緩やかな上り坂になっていて、そのまま進めば小さな山に突き当たる。幽霊山と呼ばれている山だった。山のふもとには川が流れていて、周囲には中野智樹が言うように大きくて品のいい家が並んでいる。


「Aはまっすぐ自宅に向かっていた。きっとあの辺りに住んでるんだろうな。羨ましいことに金持ちだ。そして金持ちは、貧乏人よりも多くの人に恨まれている。偏見かもしれないが、偏見だって充分人を恨む根拠になる」


「悲しい話だね」


「だよな。世の中には、そこかしこに悲しい話が満ちあふれている。それに交じって、幸せがちょっとだけ。そういう風にできてるんだ。闇雲に手を伸ばしちゃいけない。よく見極めてつかまないと、幸せは手に入らない」


 なかなか話が進まない。ケイもそう感じていたのだろう、遮るように口を挟んだ。


「それで、壁の穴っていうのは?」


「ああ、それだ。Aは違和感を覚えた。その辺りの住宅地の、誰もいない壁の方から、なにかにみられていたような気がしたんだな。で、ふと顔を向けると」


「壁に穴が開いてた?」


「そう、それも手の形に、だ。くっきり五本の指の形がある。大人の手じゃない、もっと小さな、子供くらいのサイズの手だった。その辺りは通学路だったから、もちろんAは知っている。朝通ったときには、そんなものはなかった」


 ホラーテイストの語り口調だが、いまいち怖くない。

 少し不思議だなとは思うけれど、物理的に不可能なことでもなかった。それに咲良田では、どんなことだって能力によって起こりえる。


「そこで、違和感を覚えたAが、ゆっくりその壁に近づくと――」


「目の前でいきなり穴がふさがったんだよね」


 と、続けたのは皆実未来だった。彼女はいつの間にか、中野智樹の隣に立っていた。どうやら話はそこまでらしく、中野は顔をしかめる。最後まで聞いても、やっぱり怖くない。

 皆実はそれを気にした様子もなく、「どう思う、浅井くん」と続ける。


「話が本当なら、そういう能力があるんだろうな、と思うよ」


「えー。手の形とか、せっかく幽霊っぽいのに。美空だって心霊現象が一枚噛んでると思うでしょ?」


 会話に参加しているつもりはなかったけれど、こちらに振られてしまった。適当に答えておく。


「壁を直していったのなら、いい霊ですね」


「おお、なるほど。つまりその辺りなら危なげなく心霊探索ができるってこと? 建設的な意見だね」


 ひどい曲解だ。ケイに倣って、相手にしないことにする。皆実もそもそも、返事なんて期待していなかったらしい。勝手に続ける。


「場所は奇しくも幽霊山付近だよ。これはもう、明日は吸血鬼探索に出かけろと神さまが言ってるとしか思えないね」


 ケイは気だるげに、机で頬杖をついた。


「吸血鬼が壁に手の形の穴を開けるなんて話、聞いたことないな」


「そこはほら、いくら伝説の怪物でも、そろそろ新しい要素を取り込まないとみんなに飽きられても困るし」


「地味な要素だな、壁に穴って」


 と、中野智樹がぼやく。彼自身が始めた話だけれど、やはり地味だという自覚はあったらしい。


「とにかく、明日は吸血鬼探索に決定。美空も行くよね?」


 いや、いかない。

 明日は猫が事故に遭う予定の日だ。本来なら、午前中に猫捜しは完了しているはずだけれど、少し状況が変わってきていることも確かだった。もしかしたら、まだ猫がみつかっていないかもしれない。

 それに、猫のことが解決していたなら、春埼は髪留めを買いにいこうと密かに決めていた。明後日はお祭りなのだ。浴衣は去年のものを使うとしても、どこかワンポイントくらい変化が欲しい。

 春埼はそっとケイの方をみる。


「なにもなかったら付き合うよ」


 と、彼は答えた。リセットの前に、吸血鬼探しに参加したなんて話は聞いていないから、おそらくはどこかのタイミングで断ることになるのだと思うけれど。

 春埼はケイをみつめたまま、彼のすぐ隣まで近づき、ささやく。


「壁の穴のこと、知らなかったんですか?」


 彼は軽くうなずく。


「うん。知らなかった。本当に」


 嘘ではない。おそらく。

 リセットの前、彼はこの話を聞いていなかった。いったい、どうして? どこが前回と変わったのだろう? わからないけれど、でもリセットの前後で出来事が変化しているというだけで、ケイが興味を覚えるには充分な理由になる。


「おや、内緒話?」


 と皆実が笑いながら首を傾げた。


「はい。内緒話です」


 と春埼は答えた。

 そのまま皆実に向き直り、ついでに尋ねる。


「ところで、マクガフィンを知ってますか?」


 特別な意図があったわけではない。ただ、彼女は部活動で咲良田内の都市伝説や噂話を調べている。念のために聞いておこう、と、ふと思いついただけだった。

 でも口に出した直後、失敗に気づいた。――リセットする前の私は、おそらくまだ、マクガフィンなんて言葉を知らなかったはずだ。つまり前回とは違う質問をしてしまったのだ。ケイの許可も得ていないのに。

 この質問が、誰かの未来に、なんらかの影響を与えるだろうか?

 春埼は皆実未来をみつめる。彼女もこちらをみていた。わずかに、彼女の表情が変化したような気がした。なんだか緊張している? 錯覚かもしれない。あるいは意味のわからない単語に眉をひそめただけかもしれない。ケイならもっと正確に、その表情の意味を読み取っているだろう。彼はそういうことが得意だ。それは能力により、人の様々な表情を完全に記憶しているからかもしれない。

 皆実よりも先に、中野智樹が口を開く。


「マクガフィン? 聞いたこともないな」


 彼の言葉が終わる頃には、皆実の表情は、綺麗に元に戻っていた。


「うん、わかんない。U研の先輩に聞いてみよっか? もしオカルト関係なら、なにか知ってるかもしれないよ」


 彼女の行動が、前の世界とはまったく別のものになる可能性があった。リセットを使う以上その危険性は常につきまとうし、ケイも受け入れているリスクではある。でも彼の判断を待たず、勝手な質問で状況を変えてしまった。

 春埼はケイをみつめる。

 彼はきっと、その視線に気づいたのだろう。慰めるように小さくほほ笑む。

 それから彼は皆実に向かって、「じゃあお願いしてもいいかな」と答えた。



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