2話「水曜日からの出来事」②-3


 帰宅したころには、午後七時三〇分を回っていた。

 ケイは簡単な食事を摂り、ごく少ない洗い物を手早く片づけた。そのころ、雨が降り始めた。今夜の雨音はどこまでもシンプルだ。まっすぐに地面を叩く。風もなく、淡々と。ケイはその音を聞きながら、ベッドに寝転がる。

 とはいえ、眠るには早すぎる時間だ。携帯電話を手に取り、「津島さん」と登録していた番号にコールする。すぐに留守番電話サービスに繋がった。ケイは名前を名乗り、要件を吹き込む。村瀬陽香という女の子について知りませんか、と。

 電話を切り、枕元に転がす。それから小さなため息をついた。迷いがある。やはり村瀬について調べるべきだろうか。ケイは彼女のことを、ほとんどなにも知らない。知っているのはメールアドレスくらいだ。でも、彼女にメールを送るのも躊躇ためらわれた。彼女がリセットの影響を受けているなら、こちらのことは知らないはずだ。なんらかの方法で、リセット前の記憶を持っているなら、彼女は春埼の能力を利用することが目的だった可能性が高い。どちらにせよまともな返事はもらえないだろう。それに、なにより、猫を助けるのとは無関係なことで、リセット前と行動を変えたくない。

 ケイは目を閉じて、頭の中に溢れる様々な記憶を眺める。

 咲良田の能力には、なにかしらの制限がある。使用回数や、使用できる状況、あるいはまったく別のなにか。もちろんケイの能力も例外ではない。ケイは使用した能力を、自身で解除することができない。つまり一度思い出したことは、もう二度と忘れられない。

 過去の、自身の愚かな場面が延々頭の中をめぐり続けるのは、あまりまともな状態だとはいえない。しばしば叫び声を上げたいような気分になる。でも実際に叫んだことはない。ほんのささやかではあるけれど、部屋で独りきり叫び声を上げたというのも、思い出したくない記憶になりそうだ。

 なぜこんな能力があるのだろう、と考えたこともある。咲良田の能力は、使用者の性質に依存する、と言われる。能力者の本質が、能力者が求めるものが、その願いや祈りが能力になるとされる。だとするなら、なにも忘れられない能力の本質はなんだろう。なにを願い、祈っているのだろう。

 簡単に答えが出ることではなかった。能力は、謎に満ちている。学校で能力について習うこともない。それはわからないものとして受け入れるしかないのだろう。宇宙の成り立ちのように。わからなくとも、確かに存在するのだから仕方がない。それでもなお能力の意味について考え続けるのは、そういった部署に勤める管理局員か、なんにでも疑問を抱く子供くらいだ。

 ケイは自身の能力が特別に好きなわけではない。とはいえ嫌いかといえば、そうでもない。失いたいかと尋ねられれば、答えは明確にノーだ。能力はケイに深く食い込み、ケイを構成する要素の一部になっている。

 咲良田の能力。願うだけで結果を得られる力。苦しみを伴うにせよ、そこにはやはり価値もある。

 ケイは自身の記憶を、できる限り客観的に眺めるよう努める。過去の自分になんの感情も抱かないわけにはいかない。それでも、過度に肯定も否定もしないようバランスを取ろうとする。

 そうしていると手元の携帯電話が鳴りだした。意識を強引に、現在に引き戻す。それで記憶が消えてなくなるわけでもないけれど、少なくとも焦点を現実に合わせることはできる。

 電話の相手として、もっとも期待していたのは津島信太郎だった。次に野ノ尾盛夏。今回は後者だった。

 ケイは腹筋の要領で体を起こしながら、携帯を耳に当てる。

 こちらが喋るよりも先に、野ノ尾の叫ぶような声が聞こえた。


「彼は誘拐されていたんだ」


 唐突な話だった。


「彼というのは、あの猫のことですよね? 誘拐っていうのは?」


「そのままだよ。かどわかされた。知らない人間に、連れ去られている」


「大変じゃないですか」


 と言ってみたけれど、どうだろう、野良猫がただ拾われただけだという気もする。でも猫にだって人にだって、様々な価値観があるのだろう。野ノ尾が慌てているのなら、それは猫にとって慌てるべき事態なのかもしれない。


「それで、猫はどこにいるんですか?」


 ともかく重要なのは居場所だ。それさえわかれば、大きな前進になるはずだ。

 しかし電話の向こうの野ノ尾の声は冴えない。


「すまない。わからなかった。私は、猫自身が把握していないことはわからない」


 確かに、そんな説明を受けた記憶がある。

 彼女は猫と意識を共有する。――共有、という感覚はよくわからないけれど、以前非通知くんが言った通り、少しだけケイの能力にも似ているのかもしれない。ケイの能力を、過去の自分と意識を共有する、と表現することもできる。


「大丈夫です。僕たちは、確実に前進しています」


 ケイは努めて、感情的ではない声で言う。まるで春埼の口調を真似ているみたいだ、と思って、内心でひとり笑った。


「どんな小さなことでもかまいません。なにか、わかることはありませんか? たとえば猫が誘拐された時間、場所、相手の顔。なんでもかまいません。教えてください」


「彼がさらわれたのは今日の昼、三時ごろだ。場所はおそらく、仰木町おおぎちょうの公園で――」


 ――今日、か。


 気になるタイミングだ。リセットをした、ほんの数時間後だった。


「その猫は室内にいるんですか?」


「ああ、そのようだ」


「部屋のあるじの姿をみましたか?」


「いや。みていない。おかしいんだ」


 思い出しながら語っているせいだろう、彼女は短い沈黙を挟んで、続けた。


「人の気配がした。部屋のドアが開き、誰かが入ってきた。彼は慌ててベッドの下に駆け込んだ」


「それで?」


「私は相手の顔をみたかった。そう考えると、猫がベッドから、顔を出した」


 なるほど。野ノ尾は猫と意識を共有する。それは、一方的に猫の意識を知るだけの能力ではないのだろう。猫の考えを彼女が知るように、彼女の考えを猫の方も知る。だから初めて彼女に会いにいったとき、ケイたちを猫に案内させるようなことができた。


「それで、どうなったんですか?」


 猫がベッドの下から顔を出して。それでも、相手の姿はみえなかったのだろうか。


「相手はおそらく、ベッドの上にいた。彼は後ろから頭をなでられた。そして、その直後、能力が途切れた」


「それは、偶然ではなく?」


「わからない。私の能力は、不安定だ。目が覚めるように自然に途切れることもある。でも今日は、違和感があった。唐突に、彼の意識が離れた」


「なるほど」


 あり得ないことじゃない。春埼に話したように、今回の依頼の目的がリセットを使わせることだったとすれば、相手はそれを無視できる能力を持っている可能性が高い。つまりは、他者の能力を無効化する能力だ。

 問題なのはその相手が何者なのかということだ。村瀬に関連していることは予想できるが、確信もない。平和な目的で利用されるだけならそれでいい。でもなんらかの悪意があるなら、さすがに放ってはおけない。


「部屋の様子は、どうでしたか?」


「別に、普通だよ。ベッドがあって、テレビがあって、学習机があって。はっきりとは言えないが、学生の部屋のような印象だったな」


「ほかになにか、気づいたことはありませんか?」


「机の上に、写真立てがあった。二〇代の、前半ほどの男性の写真だ」


「ひとりで写っていたんですか?」


「ああ」


 若い男が、ひとりきりで写った自分の写真を部屋に飾るだろうか。友人や兄弟の写真だとしても違和感がある。なら、部屋の主は女性? ――いや、まだ決めてかかるのは早い。村瀬に繋げて考えようとしすぎている。

 ケイは意識を切り替える。


「とにかく、猫はまだ生きてるんですね」


「おそらくは。以前、息を引き取る猫と意識を共有していたことがある。あの能力の途切れ方は、死んだわけではないと思う」


「なら、よかった」


 ケイは意図して微笑む。電話の向こうに表情は伝わらなくても、声質が変わるかもしれない。


「きっと可愛らしい猫だったから、拾われちゃっただけですよ。今ごろ、美味しい夕食をもらっているかもしれません」


「犯人の思惑なんか、関係ない。彼は意思を無視して連れ去られたんだ。ずいぶんおびえていたよ」


 なるほど、その通りだ。


「わかりました。ともかく、犯人を捜しましょう。ほかの猫が、誘拐されているところをみていたりしませんか?」


「わからない。これから調べる」


「では、引き続きお願いします。大丈夫、まだ無事なら、きっと相手には危害を加える意思がないってことですよ」


 野ノ尾はしばらく沈黙してから、小声で「そうだな」と答えた。


「また連絡する」


 そして、通話が切れた。

 ケイは再びベッドに寝転がる。――どうして猫は誘拐されたんだ? リセットを使わせることが相手の目的なら、それはもう達成したはずだ。猫にもなにか、重要な意味があるのだろうか?

 どうしたところで、このままでは答えがでそうになかった。ケイは窓の外を見る。いつの間にか意識から離れていた雨音が、ゆっくりと戻ってくる。

 猫は、室内にいるのなら、少なくともこの雨に濡れることはないだろう。


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