2話「水曜日からの出来事」②-1
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放課後になった。
ケイは春埼と共に、職員室に向かった。依頼を受けたことと、リセットを使ったことを津島に報告するためだ。奉仕クラブの仕事は小まめな報告が義務づけられているし、リセットは一度使うと再びセーブし直すまで使用できない。さらにリセットから二四時間はセーブもできなくなる。つまりこのあいだの出来事に関しては、春埼の能力では対処できない。報告しないわけにはいかなかった。
津島の机はいつも散らかっている。数学の教科書や問題集、数々のプリント、タイトルのないバインダー、封の切られた封筒、不登校児童について書かれた本、そして冷めたコーヒーのマグカップ。その合間を縫って、ほんのわずかに残されたスペースで頬杖をつき、津島はつまらなそうに報告を聞いていた。ケイがひと通り報告を終えると、彼は短く答えた。
「そうか、じゃあ任せた」
投げっ放し気味なのはいつものことだ。それだけで終わることも多々あるが、今日は言い訳のように付け加える。
「ちょっと教師の仕事が忙しい。なにか問題が起こったら、改めて報告してくれ」
教師の仕事量というのは、生徒にはいまいちよくわからない。期末テストの採点まで終わったこの時期でも、やはり忙しいものなのだろうか。とはいえ猫捜しが大事になる可能性は低いだろう。とくに問題が起こらないなら、放っておいてもらえた方が気楽だとも言える。
ケイと春埼は学校を出て、商店街の三月堂を訪れる。シュークリームはひとつ一六〇円で、ケイは奉仕クラブの名前で領収書をもらった。
ドライアイスが詰まった箱を下げて、神社に向かう。よく晴れていた。梅雨が明ける前の夏の、透明な水色の空が広がっている。でも今夜から雨が降り始めることを、ケイは知っていた。
「野ノ尾さんって、どんな人ですか?」
春埼に尋ねられて、ケイは少し考える。
「落ち着いた雰囲気の女の子だったね。なんていうか、猫の中でも可愛い子猫じゃなくって、スタイルのいい大人の猫っていう感じかな。残念だけど、語尾に『にゃん』ってつけて喋ったりはしない」
「ケイはそういうのがいいんですか?」
「そういうのって?」
「語尾がにゃん」
「ああ、うん。可愛いと思うよ」
もちろん冗談だったけれど。
「今日はいい天気ですにゃん」
真顔で言われてしまった。大ピンチだ。やたら恥ずかしい。
「ああ、ええと」
「どうしたんですにゃん?」
「ごめん、僕は嘘をついた。頼むから普通に話してください」
素直に申告しないと、いつまでも直らない可能性があった。他人に聞かれたらどんな噂が広がるかわからない。
「そうですか。わかりました」
彼女は平然と頷く。
「君はもう少し、自分を大切にした方がいい」
心の底からそう思う。
「よくわかりませんが、ケイが言うなら努力します」
「まず、その考え方から変えていこう」
「難しいことを言いますね」
問題は深刻だった。でも早急な解決を求められているわけでもないので先送りにすることに決める。それよりも今は猫捜しだ。
社殿の裏に回り、石段を上る。途中、三毛猫をみつけた。散歩をしているのだろう、のんびりと歩いていた。野ノ尾の言葉を思い出す。ケイは猫の時間を知らない。
やがて石段は緩やかな上り坂になった。ケイにとっては数時間前――客観的にはもう二度と訪れない三日後と同じように、野ノ尾は社の階段に座り、目を閉じていた。時間が止まったように。
「野ノ尾さん」
声を掛けると、彼女のまぶたが静かに上がる。
「君は?」
野ノ尾はこちらを見て短く言った。感情のない目だった。
ケイはまず名乗り、春埼を紹介し、それから三日後にあったことについて説明した。
野ノ尾は、少し困ったように眉をひそめる。
「つまり君たちは、未来を知っているんだな?」
「まぁ、だいたいそんな感じです」
実際にはなかったことにされた過去について知っているのだけど、その差異を説明するのは難しい。リセットについて詳しく説明するつもりもない。
「そして未来で私に会った」
「とりあえず、そう思ってもらえれば」
「まぁいい。重要なのは、君が私の好物を知っていることだ」
ケイは三月堂の紙箱を差し出して答える。
「それに、このままだと
野ノ尾は紙箱を受け取り、シュークリームを取り出した。躊躇いのない動作でかみつく。頬にカスタードクリームがつく。彼女は、舌を伸ばしてそれを舐めとった。
少し欠けたシュークリームを手にしたまま、野ノ尾は真剣な表情で言う。
「君が言う猫が村瀬という人に飼われたのはいつからだ?」
その質問には聞き覚えがあった。
ケイは、半年前です、と答える。
「土曜日の
野ノ尾はもう一口、シュークリームを食べた。割れ目からカスタードクリームがたれ出てくる。彼女は慌てて残りのシュークリームをすべて口の中に押し込み、飲み下し、指についたクリームを舐めとる。それからようやく答えた。
「君の言う猫には心当たりがある。でも、私が知っているのは野良猫だ。村瀬という人間に飼われてなんかいない」
「本当に?」
「ああ。とはいえこの数日間、彼には会っていないからな」
その間に拾われたのなら、おかしなことはない、と野ノ尾は言った。しかし、それは違う。村瀬は半年前に猫を拾ったと言っていた。
「よく似た、別の猫がいるとか」
野ノ尾は、情報のひとつひとつを丁寧に確認するように言った。
「灰色、まだ若く、瞳が青い、尾が曲がっている」
そしてゆっくりと首を振る。
「その条件に合う猫は、咲良田には一匹しかいない。名もない野良猫だよ」
ケイはため息をついた。想像していたことではあった。きっと村瀬陽香は、いくつかの点で嘘をついている。違和感は初めからあった。
たとえば村瀬から受け取った写真――それは、リセットしたことにより失われてしまったけれど。猫は道端で餌を食べていた。おそらく村瀬が与えたものだろう。でも飼っている猫に、道端で餌を与えるだろうか?
「やっぱりおかしいですよ」
と、春埼が言う。ケイは頷いた。それから、野ノ尾に尋ねた。
「その野良猫が今、どこにいるかわかりますか?」
「ああ。だが、少し時間がかかる」
「調べていただけますか?」
「猫の命が懸かっているなら仕方がない」
答えて、彼女は目を閉じた。
さて、これからしばらくすることがないなと考えていると、ちょんちょんと裾をひっぱられた。春埼だ。裾を掴んだまま、どこかに歩いて行く。それに逆らう理由もない。
少し離れたところで、彼女は言った。
「ケイ。この依頼を続けるんですか?」
声を潜めている。野ノ尾が眠りやすいよう気をつかっているのだろう。
ケイは頷く。
「止める理由なんてないよ」
たしかに村瀬が嘘をついている可能性は高い。でも、猫が本当に事故に遭って死んだのなら、助けないわけにはいかない。
春埼は困ったように眉をよせた。
「でも、おかしくないですか?」
「もちろん、おかしい。猫を助けたいだけなら、村瀬さんは嘘をつく理由なんてない。でもね、事故に遭うのが飼い猫でも野良猫でも同じだよ。どちらにせよ、猫を助けるのが誰かの迷惑になるわけじゃない」
しかし春埼は、納得できない様子だった。
「嘘をついて私たちに依頼したのなら、そこには理由があるんじゃないですか?」
「理由って?」
「わかりません。でも、私たちをなにかに利用しているのかもしれません」
「かもね。でも、別にいいんじゃない? 僕たちが利用されて、誰かが幸せになるなら喜ばしいことだよ」
「本当に、問題はありませんか?」
春埼の声には多少の
仕方がないので、ケイは首を振った。
「問題になる可能性なんか、いくらでもある」
いうまでもなく、誰かが不幸になる可能性なんてそこかしこに転がっている。残念な話だ。
「村瀬さんは何をしようとしてるんでしょう?」
「わからないよ。でも、誰であれ僕たちへの依頼にはメリットがある」
あるいは、ケイたちにとってあからさまなデメリットがある。
「それは?」
「リセットを使うこと。もっと別の、個人的な理由で時間を巻き戻したくて、その言い訳に事故に遭った猫を持ち出したのかもしれない。それならもう村瀬さんは、目的を達成したことになる」
三日間でも時間を巻き戻したいと考える人は少なくないはずだ。その理由を秘匿したがることも、充分に考えられる。たとえば、定員が決まっている試験に落ちたからリセットしてくれ、と頼まれてもケイは賛成しない。管理局の立場なら、明確に拒絶する依頼だろう。リセットして、依頼主が試験に合格したなら、本来なら受かっていた誰かが押し出されて落ちることになる。視点によっては能力が不幸を生んでいる。
春埼は納得したように頷いた。
ケイは続ける。
「あるいは、リセットされたくなかったのかもしれない」
「リセットされたくないのに、依頼するんですか?」
「リセットは一度使うと、そのあと二四時間は使用できない。僕たちがリセットできないあいだに、村瀬さんはなにか重要なことをしようとしているのかもしれない。この場合、彼女の目的は、今日の昼から明日の昼までの間に成し遂げられることになる」
もちろん彼女が、かなり詳しく春埼の能力を理解していることが前提だけれど。
「それは、あまりよくない感じですね」
ケイは頷いた。リセットを使わせないよう備えたのなら、つまり誰かがリセットを使おうとするようなことが彼女の目的なのだろう。幸福なことが起こった時、人はそれをリセットしようとは思わない。
「どちらにせよ、村瀬さんがリセットされても記憶を失わないような能力を持っていないと無意味だけどね」
リセットの影響を受けない能力者は、そう多くはないはずだ。でも、咲良田の能力はあまりに多様だった。どんな能力があっても不思議はない。
「なのに、この依頼を続けていていいんですか?」
「まぁいいんじゃないかな。あくまでそんな可能性もあるって話だし、リセットは使っちゃったんだからもう遅い。それに今回のことは、津島先生に報告している」
ケイは津島を信用していた。あるいは、管理局を。
なんのフォローもないわけではないだろう。この件で問題が起こるようなら、勝手に対応してくれるはずだ。管理局が動くような問題がないのなら、村瀬の意図通りに操られていればいい。彼女に利用されて困ることもない。
しかし春埼はいまいち納得していない様子だった。
仕方ないので、続ける。
「警戒はするよ。でも依頼を投げ出すわけにはいかない。本当に
「私は――」
春埼がなにか言おうとしたとき、背後から声が聞こえた。
「だめだ」
そちらを見る。野ノ尾が目を開いていた。春埼に視線を戻すと、彼女は首を振った。先ほど言いかけた言葉の続きは聞けないようだ。
ケイは野ノ尾の前に戻る。
「だめって、何がです?」
「すまない。彼は今、眠っているらしい」
彼、というのはあの猫のことだろう。
「眠っていると問題なんですか?」
野ノ尾は頷く。
「私は能力を使うと、猫と意識を共有できる。猫が考えていることと、私が考えていることの区別がなくなる。だからたとえば、猫が自分の居場所を知っていれば、私にもわかる」
「素晴らしいですね」
「でも、寝ている猫と意識を共有しても仕方がない。眠りながら自分がどこにいるのかなんて考えないだろう? たまに不条理な夢がみえるだけだ」
「なるほど」
猫も夢をみるのか。知らなかった。
「時間を置いて試してみるよ」
「お願いします。どこにいるかわかったら、連絡してもらえますか?」
ケイは鞄からノートを取り出して片端に携帯電話の番号を書き、そこを破って野ノ尾に渡した。彼女はすぐに、その番号を携帯に登録した。野ノ尾には携帯電話が似合わなくて、なんだか笑ってしまいそうになる。
「わかり次第連絡するよ」
「ありがとうございます。またシュークリームを持ってきますよ」
「次は手ぶらでいい。猫が助かるなら、私も嬉しい」
言いながら彼女は、二つ目のシュークリームを取り出してかみついた。みていると、こちらも食べたくなってくる。どうせ部費で落ちるんだから自分たちのぶんも買えばよかった。
「じゃあな」
と野ノ尾は手を振る。彼女の白い肌が、いつの間にか赤い光を反射していた。空を見上げると、綺麗な夕焼けに染まっている。でも、西の方の空に濃紺色の雲がある。あと二時間ほどで雨が降り始める。
暗くなる前に家に帰った方がいいですよ、と伝えて、ケイは彼女と別れた。
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