2話「水曜日からの出来事」①-2


 皆実みなみ未来みらいは、表情が大袈裟おおげさな女の子だ。

 目と口が大きくて、いつも元気で、今のところなんの能力も持っていない。きっと要領がいいのだろう、ちょっとしたアクセサリーくらいなら学校につけてきても叱られることはない、そんな女の子だ。

 彼女に声をかけられたのは、ケイがシュレーディンガーの偏愛について語っていた時だった。彼女が「ちょっといい?」と言いながら、机に両手をついて身を乗り出してくることを、もちろんケイは知っていた。

 リセットを使う前の七月一二日とまったく同じ言葉を、彼女は口にする。


「浅井くんは明後日あさっての放課後、暇かな?」


 明後日――金曜日。猫が事故に遭う日だ。とはいえその事故は午前中に起こるはずだから、放課後の予定は空いている。記憶にある通りに、ケイは答えた。


「今のところ予定はないよ。なにかあるの?」


「うん。私、U研に入ってるんだけど」


 そのことは知っていた。彼女自身に、以前何度か勧誘されたことがあるのだ。Uとはunidentifiedの頭文字であり、UFOなんかのUと同じ未確認という意味らしい。研は研究会の略なので、訳すと未確認研究会となる。

 未確認を研究する会。なんとなく反則じみた名前だ。すでに確認されていることを研究してもあまり意味はない。おそらく世界中に存在する研究機関の大半は、未確認研究会とも呼べるだろう。

 皆実はいつものように、派手でコミカルな笑顔を浮かべる。


「浅井くん、幽霊山って知ってる?」


「名前くらいならね」


 幽霊山とは正式名称を尽辺山という標高の低い山のことで、ふもとに花見崎神社がある。通称の通り幽霊が出ると噂の山だった。昔は憑辺つくべ山と表記されていたとの噂もあるけれど、こちらは事実ではないらしい。

 記憶に従って、ケイは会話を進める。


「幽霊山がどうかしたの?」


「あの山に、吸血鬼が出るらしいの。知ってる?」


「いや――」


 記憶の中の七月一二日、皆実に聞くまでは知らなかった。


「智樹は知ってる?」


「聞いたことはあるけどな。もう何年も前に流行はやった噂だろ?」


 気のない答えを返す智樹に、皆実は向き直る。彼女の側頭部でくくられた髪が、ケイの目の前で元気よく弾む。


「ただの噂じゃないよ。実際に、被害に遭った人がいるんだから」


「吸血鬼の? 血でも吸われたのか?」


「たぶんね。山のふもとで、気を失って倒れてた人がいたんだって」


「それ、吸血鬼関係あるのか?」


 智樹はあまり、この話題に興味がない様子だった。ケイも積極的に関わりたいとは思わない。

 幽霊が出ようが、吸血鬼が出ようが、咲良田ではすべてそういう能力を持っている人間だということで説明ができてしまう。ある意味でもっともホラーじみた噂が広まりにくい街かもしれない。実際に未確認の何者かがいるのなら、管理局が調査を行うことになるはずだ。極めて冷静で幽霊や吸血鬼には似つかわしくない調査を。

 ケイは疑問を口にする。


「幽霊山に吸血鬼が出るのって、変じゃない?」


 吸血鬼は幽霊ではない。なんだかずれている気がする。

 皆実は腕を組んで、軽く首をひねる。


「でも、どっちもホラーの定番だよ。幽霊もいるし、吸血鬼もいるんじゃない? ほら、夜は墓場で運動会、みたいな」


 大雑把すぎるような気がするが、噂話というのは理路整然と整いすぎていない方が現実味があるのかもしれない。


「それで? 金曜の放課後に、なにかあるの?」


 彼女は言葉を強調するように、右手の人差し指を立てて答えた。


「金曜日はね、新月なの。だから吸血鬼を探しにいこうよ」


「よくわからないんだけど、吸血鬼は新月に探すものなの?」


「ほら、吸血鬼って満月が得意なイメージあるでしょ。新月なら戦うことになってもわりとやれそう」


「いや戦うなよ」


 と智樹がぼやく。

 まったくだ、とケイも思う。もし本当に山に吸血鬼が出るのなら、その正体は能力者だろう。吸血鬼に似た能力なんて、いかにも攻撃的で、相手にはしたくない。管理局に任せておけばいい。

 ケイは尋ねた。


「どうして僕たちなの? U研の人と一緒にいけばいいのに」


 そのための部活動だろう。

 しかし皆実は大きく頭を振る。


「全然ダメ。前に調べたけどなんにもなかったって、会長が」


 頭の後ろで手を組んで、智樹が息を吐き出した。


「そりゃそうだろ。古い噂だ、流行りじゃない」


「でもわからないじゃない。昔隠れてた吸血鬼が、そろそろふらっと出てくるかも」


 と、皆実が主張したところでチャイムがなった。


「じゃあ、浅井くん考えといてね。別に中野くんもついてきていいよ?」


 一方的に告げて、皆実は自分の席に戻っていく。


「いかねぇよ」


 と、智樹がつぶやいた。

 記憶通りに物事が進むなら、金曜日の昼休み、ケイは正式に彼女の誘いを断ることになるはずだ。津島から村瀬に会うよう指示を受け、それに備えるため、前日の夜を空ける。寝不足の頭で依頼人に会うわけにはいかない。

 ケイは机に突っ伏し、目を閉じた。この時間、教師は五分ほど遅れて教室に入ってくる。五分間というのは睡眠時間にはあまりに短いけれど、気休め程度の休憩にはなるだろう。


 リセットのあとで目を閉じると、必ず思い出す記憶がある。いや、思い出すという表現は正確ではない。ケイはその記憶を忘れたことがない。それは二年前に死んでしまった、ある女の子に関する記憶だった。

 当時ケイたちは、中学二年生だった。彼女は度々、ケイを校舎の屋上に呼び出した。中学校の、いちばん南側にある校舎だ。一緒に春埼がいることもあったし、ケイだけに声をかけることもあった。ケイが屋上を訪れると、彼女はたいていフェンスの前に座り込み、細い顎を上げて南の空を見上げていた。その方角になにかしらの思い入れがあったのかもしれない。ケイにはよくわからない。

 彼女は会話の中で、突飛な比喩ひゆと仮定を多用した。きっとあの子の思考に対し、この世界にある言葉が限定され過ぎているのだ。あの子の真意を一言で表すような言葉は、どれほど分厚い辞書にも載っていないのだ。だから彼女は、比喩と仮定に頼るしかなかったのだと思う。

 こんな風に。


「私のこの言葉が、貴方あなたの知る言語とはまったく別のものだったと仮定しましょう」


 と、彼女は言った。よく晴れた夏の日のことだった。


「その仮定の意図はなんだろう?」


 と、ケイは尋ねた。

 彼女はなんだかくすぐったそうに、太陽の光に目を細めていた。


「私たちが互いに理解し合うための手段、かしら」


「僕たちに理解し合う必要なんてあるかな」


「必要。そんなことはわからないわよ。でも、暇だから仮定してみましょう。もしかしたら、有意義な時間になるかもしれない」


 ケイはいかにも仕方がない、という風にうなずく。恥ずかしい話だが、あのころは素直に頷くのが苦手だった。そうするたびに自分が薄まっていくような気がしていたのかもしれない。今ではむしろ、反対のような気さえするけれど。


「まぁいいよ。わかった。君は、僕が知るものとはまったく別の言語を使う」


「うん。それでも貴方は、私と会話できるかしら?」


 問われて考える。バカバカしい、と鼻で笑わなかったのは、心のどこかで彼女のことを尊敬していたからだ。当時のケイは、決してそんなことを認めはしなかっただろう。でも間違いなくケイは、彼女が自身よりも優れた存在だと信じていた。より正確には、そうあることを願っていた。

 もしも彼女の言葉が、まったく別の言語で語られていたなら。

 ケイは答える。


「会話はできない。互いに一方的にしゃべり合うだけでは、会話とは呼べない」


「でも貴方は、今、質問に答えたじゃない」


「それは君が、僕の知っている言葉で話すから」


「別物だと仮定するのよ。この瞬間に話している言葉も。たまたま貴方が知っている言語とよく似た発音をするだけの、まったく別の言葉だと考えるの」


 ひどい設問だった。ひっかけ問題だ、と顔をしかめようかと思った。でもケイは、もう一度考える。より正確に、彼女が想定した仮定通りに。

 彼女に言った。


「右手を上げて」


 ケイの言葉に合わせ、彼女はそっと右手を上げた。細い手だった。


「ゆっくり下ろして」


 彼女はゆっくり、手を下ろす。


「別の言語なのに、意味が通じている」


「偶然よ、きっと」


「そんな偶然が起こるのなら。僕には君が話している言葉が、僕の知る言語とは別ものだということにさえ気づけない」


「そうね。私たちはさも当然だという風に言葉を交わすんでしょうね。互いに、まったく違った言葉を使っていることにも気づかないまま。偶然の一致にだまされて、いくつもの関連性のない言葉を交換し合うのよ」


 それはなんだか、とても悲しい話だった。互いに、本当はまったく相手を理解していないのに、言葉が伝わった気になっている。


「なら結局、僕たちは会話できない。閉じた独りきりの世界の中で、身勝手に満足しているだけだ」


 ケイはそう答えて、それからこれは彼女からの忠告なのだろうと考えた。つまりは相手の言葉を真摯しんしな態度で受け入れない限り、会話にすらならないという風な。当時のケイには確かにそういった忠告をされる心当たりがあった。独りよがりで身勝手で、多くの他者を初めから否定していた。

 そんなメッセージが彼女の目的なのだと考えて、ケイは少なからず失望した。ケイが彼女に求めていたのは、チープな忠告ではなかった。ありふれた言葉ではなかった。

 ケイは彼女の横顔を眺める。

 彼女は相変わらず南の空をみつめたまま、静かに首を振った。それから不意打ちのようにこちらと目を合わせた。


「それでも私は、貴方と会話できると信じてる」


 彼女は確信を持った口調で言う。彼女にはいつも、極めて自然で安定した自信が満ちているようにみえる。


「互いの言語を知らなくても、互いに勘違いしていても。それでも私は貴方の言葉を理解して、貴方に言葉を伝えられると信じている」


「無理だよ。そんなの、奇跡の領域だ」


「でも貴方は生まれたとき、この世界の言葉を知らなかった。それから言葉の意味をひとつも間違えることなく、すべて正確に理解してきたと思う?」


 そんなことはない。でも、咄嗟とっさには答えられなかった。

 彼女はほほ笑む。


「その程度の奇跡も起こらない世界なら、きっと初めから言葉なんて生まれない」


 二年前の、よく晴れた日の記憶だ。

 そのおよそ二週間後、彼女は死んだ。


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