2話「水曜日からの出来事」

2話「水曜日からの出来事」①-1



       1 七月一二日(水曜日)――三日前



「七月一二日、一二時五九分、一二秒です」


 と、春埼美空が言った。彼女は携帯電話を耳に当てている。

 浅井ケイの隣には、壁にたてかけられた薄い木箱がある。古びたラベルには鉱石標本と書かれていた。さらにその隣は天球儀、丸まった模造紙、そしてなにが入っているのか見当もつかない段ボール箱がいくつか。ふたりがいるのは屋上へと続く階段の、最後の踊り場だった。屋上のドアには鍵がかかっていて、その手前にはかつて授業で使われていた教材たちが押し込まれている。きっと多くの生徒にとっては存在さえ意識しないこの場所で昼食をとるのが、ふたりの日課だった。

 ケイは目を閉じ、ほんの五分ほど前を思い出す。

 五分前、ケイは春埼と共に食事をしていたはずだ。あるいは食後に、水筒のお茶を飲みながらとりとめのない話をしていたか。

 しかし脳裏に浮かんだ記憶は、そのどちらでもなかった。ケイは山の中にいた。古びた社の前で、肌の白い少女と会話している。みたこともない少女――違う、彼女は野ノ尾盛夏だ。

 直後、大量の情報が時系列を無視して頭の中に湧き上がる。明後日あさっての夕食、今夜のテレビニュース、明日あしたの放課後に隣の席で交わされる会話。もちろん三日後に受けるはずの依頼も、猫のことも。咳き込む前に息を止めるくらいのわずかな時間に、ケイはこの先およそ七二時間ぶんの――七月一五日土曜日、一二時五八分四七秒までの出来事を思い出す。

 ほんの一瞬、平衡感覚を失って、ケイは額を押さえる。額の裏側のあたりが、ずきんと痛んだ。つい閉じていた目を開くと、春埼がこちらをみている。ケイは意識してほほ笑む。


「どうやら、リセットしたみたいだね」


 春埼美空の能力だ。彼女は時間を疑似的に巻き戻す。より正確には、過去のある瞬間の世界を復元する。

 効果は絶大だ。時計の針も、太陽の位置も、人の記憶も。世界中のおよそすべてといっていい事柄が過去を再現する。たとえば七月一四日に死んでしまった猫だって、七月一二日が復元された今なら生きている。リセットは世界すべてを巻き込む、他に例をみないほどに範囲が広い能力だ。

 ただし彼女の能力には、いくつもの制限がある。

 リセットで復元できるのは、事前に「セーブ」していた瞬間に限られる。改めてセーブし直すと、以前セーブした時間には戻れない。それにセーブしてから七二時間が経過すると、その効果は失われる。今回の場合は、七月一五日一二時五九分一二秒を少しでも回っていたなら、リセットが使えなくなっていた。

 面倒な条件は、他にもいくつかある。春埼美空は、特定の人物――今のところケイだけだ――に指示されなければ能力が使えない。さらに一度リセットを使ってしまったなら、それから二四時間はセーブができない。

 そしてリセットの最大の問題点は、春埼自身にも効果がある、ということだった。つまり彼女の記憶も、セーブした時点のものに書き換えられる。自身が能力を使ったことさえ覚えていない。規格外に強力な反面、本来ならまったく無力だとさえいえるのが、リセットという能力だった。だって記憶を忘れて過去に戻っても、彼女はまったく同じ行動を繰り返すだけなのだから。

 この問題点こそが、ケイと春埼が一組になって行動している理由だ。浅井ケイの能力は、過去の自分の五感、意識を正確に再現する。一度見聞きしたこと、考えたことをいつだって確実に思い出す。

 本来この能力は、人よりも記憶力が良いといった程度の効果しかない。だが一方で、極めて強度が高い能力でもあった。つまりは春埼のリセットを無視して、復元される前の世界を思い出すことができる。記憶を持ったまま、三日前に立ち戻る。

 今日――七月一二日。春埼がセーブしていたのはたまたまだ。セーブしてから七二時間の制限時間が切れるたびに、春埼は新たにセーブし直す。ケイが指示してそうさせている。それが今回は一二日の一二時五九分一二秒だった。


「タイミングが良かった」


 とケイは言った。猫が事故に遭ってからセーブしていたら、ケイたちにはもうどうしようもなかった。


「それはよかったです」


 と春埼は、まるで他人事ひとごとのように答えた。

 彼女は自分の能力に、ほとんど興味を示さない。それは咲良田の人口のおよそ半分を占める能力者としては、極めて特殊なことだった。能力者は歩くのと同じように、しゃべるのと同じように、当たり前に能力を使う。当たり前に、能力に依存している。でも彼女にはその感覚がない。それが悪いことだとは思わない。あるいは能力なんてものを意識せずに生きるのが、人としてより正常なのかもしれない。けれど彼女が無関心なのは能力だけではなかった。春埼美空はごく一部の例外を除く、世の中の大半に興味を持たない。どうしようもなく、ある種の欠落を抱えている。

 あくまで機械的に、彼女は尋ねた。


「どうしてリセットしたんですか?」


 意図して作った笑みを維持したまま、ケイは答える。


「土曜日に僕たちは、津島先生の指示で村瀬陽香という人に会うことになる」


 リセットを使った場合、その間に起こったことに関しては決して嘘をつかないというのが、ふたりの約束だった。今までケイは、この約束を破ったことがない。リセットで知った内容について嘘をつくというのは、あまりに効果的すぎて、簡単に使っていい方法ではないように思う。

 ケイは順に説明する。依頼の内容は、事故に遭った猫を助けることだった。ふたりはそれを引き受け、調査を開始した。野ノ尾盛夏という女の子に会ったところで、制限時間が来てリセットを使った。

 ひと通り話し終えると、春埼は軽くうなずく。


「つまりこれから金曜日の朝になるまでに、その猫を捕まえればいいんですね?」


「うん。その通り」


「では、野ノ尾という人に会いに行きますか?」


「彼女に手伝ってもらうのが、いちばん効率的だと思うよ。学校が終わったら神社に行ってみよう」


「わかりました」


 会話しながら、ケイはつい、額を押さえた。三日分の記憶を一度に思い出すのはやはり負担が大きいようで、鈍い頭痛が継続している。

 春埼が首を曲げて、こちらの顔をのぞき込んだ。


「大丈夫ですか?」


 そこにあるのは、いつもの無表情ではなかった。母親が子供に向けるような、自然な表情で眉を寄せていた。それをみてケイも本心からほほ笑む。


「うん、ちょっと眠たいだけだよ」


 ケイは一度大きなあくびをしてから、もうすぐ昼休みが終わるね、と続けた。


       *


 教室に戻った春埼美空は、席に座り、左手で頬杖ほおづえをついた。こうするとちょうど、右斜め前方のケイの席が視界の真ん中にくる。彼は残り一〇分ほどの昼休みを、クラスメイトの中野智樹と話して過ごすようだった。

 ふたりの声に、春埼はこっそりと聞き耳を立てていた。彼らは真剣な表情でシュレーディンガーのことを話していた。たしか量子力学で有名な人だ。半分の確率で毒が出る箱に猫を閉じ込めて、みたいな話だったと思う。でもケイたちは、難解な科学について議論を交わしているわけではない。本日の主題は「シュレーディンガーは猫好きか?」ということみたいだ。中野智樹は猫嫌いを主張し、ケイが反論している。その内容に、なにか思うところがあったわけではない。ただケイが猫好きを支持する理由になんとなく思い当たって、静かに納得しただけだ。

 一見する限りでは、ケイはいかにも楽しげに会話を続けていた。でもその内容はすべて、彼にとっては三日前にも体験したものだ。リセットを使うというのは、そういうことだ。

 ケイはなにも忘れない。一言一句間違わず、まったく同じ言葉を繰り返すことができるし、表情や動作やテンポまで完全に再現してみせられる。実際に今、彼はそういう作業を行っているはずだ。どれほど些細ささいなことだって、未来を変える要因に成り得る。ケイはリセットによって不必要に未来が変わることを望まない。

 そういうことに関して、彼は徹底していた。リセットの後は食事のメニューも、就寝や起床の時間も、ひとりきりで聴く音楽さえ同じものを選ぶ。ミュージックプレイヤーの音楽くらいはそのときの気分で選べばいいじゃないか、と春埼は思う。でも、もしかしたらイヤホンからほんの少し漏れる音で、誰かの未来が変わるかもしれない。それが小数点の右側に数多くのゼロを並べた確率だったとしても、完全にあり得ないと証明されない限り、彼は誠実に台本をなぞり続ける。

 きっと自分のほかには誰も、そのことに気づきはしないだろう、と春埼は思う。彼が日々、どういった努力をしているのか、周りの人たちは知らない。

 リセットによる仕事は、常にそういった性質を持つ。なにか悲しいことがあり、依頼を受けて、リセットする。そして問題が起こるよりも先に、その原因を取り除く。依頼主は自身が救われたことにさえ気づかない。当たり前だと思い込んだまま、目の前の幸せを受け入れる。もちろんケイに感謝する者などいない。

 ひどい話だ、と春埼は思う。音の届かない風鈴、誰にもみつけられなかった虹。そんなものよりもずっと、彼の在り方が悲しくみえることがある。

 浅井ケイはどうして依頼を受けるのだろう。

 奉仕クラブの仕事を果たすため? そうではない。ケイは奉仕クラブに所属することを強制されているわけではないはずだ。


 ――もし隣に私がいなければ、彼の能力は危険なものじゃない。


 と、春埼は考える。管理局が危険視しているのはリセットだ。ケイはリセットと関わりを持つことで初めて、咲良田の中でも特別に強力な能力者になる。リセットと距離を取ることを決めるだけで、彼はただの高校生として生きていける。


 ――なら、どうして彼は、私にリセットを使うよう指示を出すのだろう?


 春埼はその答えを知っていた。

 二年前、ある少女が死んだ。ケイは彼女を「野良猫のような少女」と表現した。春埼は彼女のことを、猫のようだと感じたことはなかった。ケイが言うのだから猫に似ているのだろう、と思っていただけだった。春埼にとって、彼女は特別ではなかった。一方で、ケイにとって特別な少女なのだということは理解していた。

 彼女は当時、同級生の中ではどちらかというと背の低い、身体つきのほっそりとした少女だった。快活で、友人も多く、でもたまにひどく抽象的なことを口にした。変わり者ではあったかもしれない。でも春埼にしてみれば、比較的よく話しかけてくる、たまに不思議なことを口にする少女だというだけで、他のクラスメイトとそれほどの違いはなかった。二年前の夏の終わりに、彼女が死んでしまうまでは。

 その少女は、事故で死んだ。ただしその死には、リセットが深く関係していた。本来であれば死ななかったのに、リセットを使ってやり直した世界で、彼女は死んでしまった。浅井ケイがリセットを使うよう指示を出して、春埼美空がそれに従って、結果、彼にとって特別な少女が死んだ。ケイはそのことを後悔し続けている。明確に。

 きっとあの「野良猫のような少女」に懺悔ざんげするために、彼はリセットの指示を出すのだろう。彼女を殺した能力で、より多くの誰かを救いたいと願うのだろう。その反面でリセットが不必要に影響し過ぎないよう、孤独な演技を続けるのだろう。ひとりの少女が死んだ、その広大な空白を埋めるために、一匹の猫であれ見捨てることができないのだろう。


 ――いや、違うのかもしれない。


 春埼は内心で首を振る。ひとりの死を、別の誰かを助けることで埋められるという風な考え方を、彼はしないように思った。あの少女が死んだ直後、ケイは彼女を生き返らせようとしていた。今もまだ、その考えを捨てていなかったとしても不思議はない。咲良田には数多くの能力があり、常に新たな能力が生まれ続けている。死者を生き返らせる能力だって、あり得ないとは言い切れない。

 もしケイがまだ彼女を生き返らせたいと願っているなら、それはいずれ叶うだろう。根拠はない。ただ、今まで春埼がみてきた限りで、ケイが望んで叶わなかったことなどない。ただの経験則でも、一〇〇パーセントを疑うことは難しい。

 春埼にとっても、彼女が生き返るのは有難いことだ。リセットで死んだなら、それはつまり春埼が彼女を殺したということなのだから。当時はずいぶん泣いたように思う。でもその記憶はあやふやで、一方では涙を流す自分というのを、今はもう上手くイメージできなくなっていた。なにか記憶に誤りがあるのかもしれない。とはいえリセットを使ったことを強く後悔したのは確かで、その痕跡こんせきは今も残っている。

 二年前に死んだ彼女のことを考えているあいだ、春埼はうつむいて、携帯電話についた猫のキーホルダーをふにふにと押していた。もう一度、ケイの方に視線を向けると、いつの間にか彼と中野智樹のあいだにクラスメイトの少女が入り込んでいた。

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