3話「日曜日の結末」③
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喫茶店を出てすぐに、津島とは別れた。
村瀬がついてきなさいと言うので、ケイたちは彼女の後ろについて歩いた。
大丈夫ですか、と春埼が小声でささやく。河原に近づいたら逃げ出そうか、とケイも小声で返す。冗談だったが、本当に逃げ出したい気持ちもある。マクガフィンなんて、誰が持っていようと知ったことではない。
信号もない小さな交差点で、村瀬は足を止める。
「どんな風に好井良治の居場所を捜し出すのか、わかる?」
ケイは頷く。彼女のコールを真似て、言った。
「手、好井良治と村瀬さんを遮るもの」
そう能力を使い、壁に触れる。触れたところに穴があいたなら、その先に彼がいる。
村瀬はわずかに目をみひらいた。
「どうして、知っているの?」
「リセットの前に、いろいろと見聞きしたので」
彼女の能力は「私に対して嘘をついた人物」なんてコールでも発動した。言葉にできればなんでもありなのだろう。
智樹から聞いた壁の穴は、ある方向に移動していた。先は川原坂という土地で、皆実が非通知くんに襲われた尽辺山もその付近だ。最初の土曜日には連絡がとれた非通知くんと、リセット以降は木曜から連絡がとれなくなった。そしてリセット後に記憶を持ち越せるのは、今回の件に関わっている人物ではケイと村瀬だけ。これらすべて
リセット前に死ななかった皆実未来が、リセット後には死んだ。理由は、リセットを越えて記憶を持ち越せる村瀬陽香が関わっていたから。わかりやすい答えだ。二年前の彼女の死に比べれば、ずっと。ケイは未だに、なにが影響して彼女が死んだのか理解できていない。
「たしかに、貴方たちには多少の価値があるのかもしれない」
村瀬は独り言のようにささやき、ケイが告げたのと同じようにコールした。
「右手、私と好井良治を遮るもの」
それから右手を、四方の壁に押しつけて回る。北に向かって手を伸ばしたとき、壁に手の形をした穴があいた。
「こっちよ」
と彼女は言う。仏頂面だが、どこか得意げでもあった。
ケイは素直に驚く。予想はできても、実演されるとやはり目を見張る。能力の自由度が高すぎる。以前、彼女は自分の能力を最強だと言った。今思い出しても子供じみた表現だが、一方でそれなりの説得力もある。たしかに、便利だ。
穴があいた方向に、村瀬は歩き出す。ケイと春埼も、再びその後に続いた。
前を向いたまま、村瀬が言う。
「さっきの話、詳しく教えなさい」
「どの話ですか?」
「あんたが管理局になにをしたのか、よ」
「別に、昔ちょっと
あのころの話を続けるのは、気が進まないことだった。ちょうどよいタイミングでもあったから、ケイは質問する。
「津島先生は、僕が貴女の先輩だと言いました。貴女も、同じことをしようとしているんですか?」
村瀬はしばらく黙りこんで歩いていた。やがて、小声で答えた。
「そうね。私は、管理局の在り方を変えたい」
一度口を開くと、彼女は多弁だった。
「管理局は気に入らない。この街には、せっかく能力なんてものがあるのよ。上手くやればいろんな問題が解決するはずなのに、あいつらはただみているだけ。そんなの、許せないじゃない。能力があるのに、それを使わないのはおかしい。誰でも本当は、幸せになるために全力を尽くすべきなのよ」
ケイは頷いた。彼女の言うことには、とても共感できる。初めて能力のことを知ったときからそう思っていたし、二年前、彼女が死んでも変わらなかった。春埼にリセットと指示を出すたび、どこかで事故が起こることを怖れながら、それでもより多くの誰かを救えると信じてきた。身勝手に。まるで神さまになりたいと願うように。能力は人を幸せにできるのだと、証明する気でいた。
「浅井。貴方も管理局が嫌いなんでしょう? それなら、私と手を組まない?」
と村瀬は言った。
それは意外な提案だった。なんだか彼女のイメージとは違う。
「僕の能力は、それほど便利なものじゃないですよ」
「でも、リセットは強力よ。それにリセットを使うなら、貴方もいた方がいい」
ケイは春埼の表情を確認する。彼女はやはり、なんの興味もなさそうに、ただこちらをみているだけだった。ケイが村瀬を肯定すれば、彼女は頷くだろう。村瀬を否定しても、彼女は頷くだろう。
「方法は? どうすれば、管理局は変わるんですか?」
「どうにでもなるわよ。私の能力は最強だもの。あらゆる能力を打ち消して、あらゆるものを消し去ることができる。ただそう望むだけでいい。正面から乗り込んでも管理局になんて負けない」
「なら、僕たちが協力するまでもない」
「ええ。でも、なにか想定外の事態が起こるかもしれない。やり直しが利くのは便利だわ。貴方たちは、もし私が失敗したらリセットしてくれればいい」
村瀬の能力は、確かに強力だ。だがもちろん万能ではない。管理局はすでに村瀬の能力を把握しているはずだし、それでも彼女はこうして自由に動き回れているのだからとくに危険視もされていないのだろう。きっと管理局は、村瀬の能力に対応するプランを持っている。
村瀬は続ける。
「一緒に管理局を倒しましょう。一度倒して、作り直しましょう。もっと効率的に能力が使える、新しい管理局を」
「なるほど」
よくわかった。もう、村瀬陽香に謎はない。
彼女はひとつ能力を持っているだけの、どこにいてもおかしくない少女だ。それなりに勇敢で、それなりに行動力があるのだと思う。意志が強くて、志が高くて、とても純真で。もしも便利な能力さえ持っていなかったなら、ただ心優しい少女だったのだと思う。それはつまり、管理局の在り方を肯定するような少女だ。能力は便利に活用されるのではなく、ただ厳格に管理されればいいという思想の、根拠になるような少女だ。
村瀬は足を止めて、振り向いた。
「私と手を組みなさい」
あの河原でみたものとは違う、だが真剣な瞳で、彼女はこちらを
ケイも足を止めて、春埼に尋ねる。
「どうする?」
彼女は
「それは、私が決めることじゃないですよ」
誰にも気づかれないように、胸の中だけでため息をつく。でも、もしかしたら春埼はそれに気づいたかもしれない。根拠もないけれどそんな予感がした。
ケイはもう、答えを出していた。でもそれをまだ口に出したくはなくて、「少し考えさせてください」とだけ告げる。
村瀬は不機嫌そうに口元を歪めた。目つきが悪いのは地なのかもしれない。朗らかにほほ笑んだ顔も見てみたかったが、当分は難しいだろう。
村瀬は何度か交差点で足を止め、手のひらを壁に押しあてた。非通知くんがいる方向は、常に一定だった。どうやらそちらに、彼の自宅があるらしい。村瀬は非通知くんの自宅を知っていた。やはり水曜日の午後三時ごろに、彼女は非通知くんの元に向かったのだ。やがて彼女は、四階建てのマンションの前で足を止めた。
「ここよ。四○八号室が、好井良治の部屋」
最上階で角部屋だ。なんとなく、彼は少しでも地面から離れたかったのではないだろうか、という気がした。
ドアの前に立ち、ケイがインターフォンを鳴らす。すぐに返事が聞こえた。男性の声だった。
「浅井です」
「ちょっと待って」
部屋の中から、ばたばたと足音が聞こえた。
やがてゆっくり扉が開く。消毒用アルコールのにおいがする。
立っていたのは、ひどく痩せた青年だった。あらゆる部分に肉がついていない。衣服はすべて潔癖に白い。手には薄いゴム手袋をつけている。
こちらの顔をみて、彼は微笑む。
「やあ、久し振り。それとも初めましてかな?」
いつも電話越しに聞くのと変わらないリズムで彼は言う。でも今は、あの無機質な女性の声ではない。少し甲高い男性の声をしていて、それだけで印象がずいぶん違う。
非通知くん。あるいは、好井良治。どちらでもいいけれど、ケイはやはり非通知くんと呼ぶ方が好きだった。彼はケイたち三人を忙しく見渡して、村瀬で視線を留めた。
「そっちの君は、初めてじゃないね。三日前にもここにきた」
「それが?」
「簡単に言ってくれるけどね、君がいろんな線を切っちゃったせいで、ずいぶん大変だったんだよ? 電話もネットも使えない。まったく、死活問題って奴だ。ボクはエネルギーの供給源を失っちゃったわけだからね。考えてごらんよ、君、食道がなくなったら生きていけないでしょ?」
村瀬が不機嫌そうに答える。
「うるさいわね。あんたが悪いんでしょ」
非通知くんは大げさに、驚いた風に両手を上げた。
「なんだって? ボクが悪い? いや、そんなはずはないよ。ボクは生まれてこの方、誰かに恨まれるようなことはしたことがない。きっと君の勘違いさ。あるいは別の世界のボクがやったんだ」
「こちらが求めた情報を公開しなかった。向こうにばかり情報が渡るなら、通信手段を奪っておいた方がいい」
「君に話さなかったことは、ケイにも話してないよ。ボクはずいぶんフェアにやっていた」
「信用できない。それに、いつまでもフェアなままだとは限らないでしょ」
一度目のリセットの後――水曜日、村瀬陽香は非通知くんを捜して、ここにきた。彼女が欲しがった情報は、マクガフィンとリセットの情報、といったところか。だが求めていた情報が手に入らなくて、彼女は非通知くんの連絡手段を奪った。その結果、なにが起こるのかも知らずに。
意図的に抑えた口調で、村瀬が言う。
「ま、いいわ。マクガフィンを返しなさい」
「マクガフィン? なんのことだかわからないな」
「また切るわよ?」
言って村瀬は、壁に手を当てた。彼女は触れるだけで壁を消せる。電話線やインターネット回線を探り当てて、それを切断して、五分後には壁が元に戻るから繋ぎなおすのはそれなりに苦労するだろう。
相変わらず大げさに、慌てた口調で非通知くんが答える。
「待って。嘘だよ、マクガフィンのことは知っている。ほら、ちゃんと自白したんだ。桜の枝を折ったのはボク。だから、許してくれたっていいだろう?」
「素直にマクガフィンを渡せば、なにもしないわよ」
「ボクは持っていない。これは本当だよ」
「なら、試してあげましょうか」
村瀬が右手を、非通知くんの顔に向かって伸ばす。
「私に嘘をついていたなら、あんたの頭が消える。触れてもいい?」
非通知くんは怯えた様子で、口元に力を入れた。それでもまっすぐに村瀬をみて言った。
「やってごらん。ボクは嘘をついていない」
小さな声で、春埼が言う。
「いいんですか?」
たぶん大丈夫だとは思うけれど。でもこのままでは、なかなか話が進みそうにない。ケイはふたりの間に割って入る。
「非通知くんが言ってることは本当です。ここにマクガフィンはありません」
「どういうことよ?」
疑わしげに、村瀬がこちらをみる。だがそれよりも劇的に、非通知くんの顔色が変わった。先ほどまでよりもずっと怯えた顔つきで、彼は言った。
「ケイ」
名前を呼ばれただけだったが、それは
「非通知くんはきっと、誰かがマクガフィンを盗み出すのに手を貸しただけです」
「それじゃあ一体、誰がマクガフィンを持っているのよ?」
もう一度、先ほどよりも強く、非通知くんが「ケイ」と名前を呼ぶ。
ケイは首を振った。
「犯人はわかりません。誰にだってできたんです。非通知くんはマクガフィンの周りに人がいない環境を作ったから、僕にだって春埼にだって、それを持ち出せたんです」
非通知くんは意図的に、犯人を絞り込ませない環境を作った。けれど無意味だ。村瀬陽香の能力に、推理はいらない。この部屋を探り当てたように、犯人をみつけだすことは難しくないはずだ。
問題が大きくなる前に、手っ取り早く片づけてしまおう。非通知くんだってきっと、それを望んでいるはずだ。
「でも犯人は、どこかにマクガフィンを落としてしまったかもしれない。別の誰かが偶然、それを拾ったかもしれない」
ケイは非通知くんをみつめる。
「そして彼なら、誰が拾ったのか、知っているかもしれない」
乱暴な方法だが、別にいい。きっと津島が意図しているのもこんな落としどころだろう。ケイとしても、マクガフィンのごたごたが平穏に収まるならそれでいい。
「知ってますね」
と、ケイは言った。疑問形でもなく。
非通知くんは笑う。
「わからない。でも、ひょっとしたら、彼女が拾ったのかもしれない」
村瀬は訳がわからないといった様子だった。春埼は興味がなさそうだった。ケイは、もう帰ってしまいたかったけれど、それでも最後までつき合うべきだということを理解していて、ため息をついた。
「じゃあ、彼女に連絡を取ってみてください」
「ちょっと待って。部屋でくつろいでいてよ」
「入っても?」
尋ねると、彼は真顔で答えた。
「うん。消毒剤は、たくさん持ってるから」
村瀬は、部屋の中に入りたくないと言った。ケイは春埼にも外で待っているように頼んで、彼女は頷いた。
非通知くんに連れられて、ケイだけが中に入る。
そこは、人が生活している部屋にはみえなかった。室内にあるのは、机と一台のコンピュータ、そして数台の電話機。あとは新品の衣類とシーツがいくつか、透明な袋に入ったまま積まれている。どれも無地で白色だった。部屋の片隅には段ボール箱がふたつある。一方はミネラルウォーター、もう一方は消毒用アルコールのパッケージだった。
フローリングの床には、当然塵ひとつ落ちていない。この部屋にはベッドすらなかった。きっとその下に
ケイは適当に、フローリングの床に座り込む。
非通知くんは手につけていた薄いゴム製の手袋を捨てて、まったく同じものを再びつけた。それから唯一生活を感じさせる冷蔵庫を開ける。中にはずらりとミネラルウォーターのペットボトルが入っている。他にはなにもない。
「どうぞ」
彼はペットボトルを差し出した。礼を言って受け取り、蓋をあけて一口飲む。冷たくて心地よかった。でも、なんの味もしない。
「シンプルな部屋ですね」
と、ケイは言った。
「うん。綺麗でしょ?」
と、非通知くんは答える。
「人はね、雲ひとつない空を、綺麗だっていうんだ」
「色とりどりの花畑だって、綺麗だといいますよ」
「でも、葉っぱに虫が這ってたら悲鳴を上げるでしょ? ボクも全部造花なら、綺麗だっていうかもしれない」
それから彼は電話を手に取った。番号をプッシュしてすぐ、相手は出たらしい。
「やあ。ちょっと質問があるんだけどさ、君、マクガフィンを拾わなかった? 黒い、小石みたいなものなんだけど」
ケイはもう一口、ミネラルウォーターを飲んで、それからこんな部屋でしか生きられない青年のことを考えてみた。実例が目の前にいても、
短い電話を終えて、彼はほほ笑んだ。
「彼女、やっぱりマクガフィンを拾ってたよ。ここまで届けてくれるってさ」
「それはよかった」
ケイは答えて、それから尋ねる。
「ねぇ、非通知くん。どれだけのあいだ、なにも食べてないんですか?」
彼はほほ笑む。
「それは、水を除いて?」
「そう。水を除いて」
「どうだろう。たぶん、たったの四、五年だと思うよ。ぜんぜん大したことない。昔はね、アイスクリームとかを食べてたんだ」
「どうしてアイスクリーム?」
「ほら、冷凍庫の中だと、雑菌とか繁殖しないし」
「なら今でも食べればいいのに。買ってきましょうか、アイス」
「君が食べるのは止めないよ」
「一緒に食べましょうよ。友達でしょう?」
「友達だけど、嫌だ。だってあれ、溶けたらべとべとになるんだよ?」
「溶ける前に食べればいい」
「でも、どうせ食べたら溶けるし。お腹の中がべとべとだと思うと、皮膚を
「僕はならないけど、なるんですか?」
「体に血さえ流れてなかったらねぇ。掻きむしったら血が流れると思うと、どうしてもためらっちゃうよ。ほら、あれもべとべとでしょ」
「体に血が流れてるのは許せるんですか?」
「実は許せない。昔さ、献血に行ったんだよ。体中の血を抜いてくださいっていったら怒られちゃった。どうしてだろうね」
「大抵の医者は人を殺したくないんだと思いますよ」
ケイと非通知くんはしばらくのあいだ、そんな会話を続けていた。ケイは少しずつ気分が良くなるのを感じた。彼との会話は、なんだか静かで心地いい。
「ねぇ、お腹が空いているんなら、僕から情報を取ってもいいんですよ」
と、ケイは言ってみた。
非通知くんは首を振る。
「いや、いいよ。
「どこまで聞いているんですか?」
リセットの前のこと。
「たぶん、君が津島に伝えたこと全部だよ。彼はそういうことを隠さない」
非通知くんは新しいシーツを一枚取り出して、それを床に広げ、寝転がった。
「ねぇ、ケイ。ボクはとても悪いことをしたんだ」
「そうですか?」
「そうだよ」
「じゃあ、そうなのかもしれません」
「うん。ありがとう」
ケイもフローリングに寝転がる。視界が変わって、窓の外に、空が見えた。たぶん偶然だろうけれど、雲ひとつない青空だった。
以前、いちばん初めに、電話越しに彼とした会話を覚えている。
彼は言った。
――できるだけ、綺麗な言葉で会話しよう。汚いものは、全部どこかに押し込んで。色々な意見をひとつずつ交換して、順番に理解していこう。ボクたちはゆっくりと、透明な会話をしよう。
今の会話は、彼の意に沿っていただろうか。汚いものを、きちんとどこかに押し込んでいられただろうか。
ふたりはもうしばらく、とりとめのない会話を続けた。できるだけ透明な言葉を選んだ。あるいは、本当に非通知くんは僕の友達なのかもしれないなと、ケイは思った。
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